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張飛の最大の見せ場と言えば、長坂橋の仁王立ちではないでしょうか?
張飛と言えば、猛将として名高い人物ですが、三国志演義を見ると関羽や趙雲の様に派手な一騎打ちが少ない印象です。
しかし、郭嘉に、張飛は兵士一万に匹敵すると評価されていて、間違いなくすぐれた武将だった事でしょう。
張飛の長坂橋の仁王立ちですが、史実ではないと考える人も多いようです。
しかし、陳寿が書いた正史三国志にも記録がありますし、史実の話でもあります。
ただし、三国志演義と史実では話の内容が若干違っています。
正史三国志でも、張飛が長坂橋仁王立ちをしたお陰で、劉備は死地を脱出する事が出来た事実があります。
今回は、張飛の長坂橋の仁王立ちの史実を、三国志演義と比較しながら解説します。
尚、上記は横山光輝さんの漫画三国志で張飛が長坂橋で曹操軍に睨みを利かせるシーンです。
馬に乗っている張飛を見て、曹操軍の兵士は恐れているのが分かります。
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目次
長坂の戦いが起きた理由
張飛の長坂橋仁王立ちは、逃げる劉備軍を曹操が追撃した長坂の戦いの一部です。
曹操は、官渡の戦いで袁紹を破り、さらに袁紹が亡くなると子である袁譚、袁煕、袁尚らを滅ぼしています。
北方の平定を終えた曹操が荊州を支配下にする為に、南下を始めたわけです。
この時に、荊州を長年治めていた劉表が死亡し、次男の劉琮(りゅうそう)が後継者となっています。
しかし、蔡瑁、張允、王粲らの説得により降伏を決定しました。
劉備は主戦派だったわけですが、会議にも呼ばれなくなったらしく、曹操が近づいてきている事も知りませんでした。
劉琮らが曹操の接近を知らせなかった事を、劉備は声を荒げて怒った話もあります。
劉備は曹操に降伏する意志はなかったようで、南下を始めています。
劉備は襄陽の前を通りかかった時に、諸葛亮は「今、劉琮を攻撃すれば荊州が取れる」と進言しましたが、却下しています。
劉備は、軍需物資が豊富にある江陵で、体制を立て直そうとしたのでしょう。
しかし、劉備の徳なのか、劉表の長子である劉琦派の面々であるのかは不明ですが、民衆が劉備に付いて来たわけです。
劉備は民衆を引き連れて逃亡して南下する事にしました。
しかし、民衆が一緒なので行軍スピードは遅く、曹操に追いつかれてしまいます。
ここにおいて、追撃戦である長坂の戦いが始まるわけです。
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張飛の長坂橋仁王立ち
張飛の長坂橋仁王立ちがどの様なものだったのか、三国志演義と、正史三国志で比較してみました。
三国志演義の長坂橋仁王立ち
三国志演義の長坂橋仁王立ちですが、追いつかれてしまった劉備に対して張飛が殿(しんがり)を務める事になります。
この時は、民衆も逃げるのに必死ですし、劉備配下の孫乾や顧雍、麋竺などとも生き別れとなってしまったわけです。
さらに、劉備は妻子とはぐれてしまい麋夫人は趙雲に阿斗(劉禅)を託して、井戸に身を投げるなど、壮絶なる追撃戦が行われました。
その中で、張飛は長坂橋で殿を務めていましたが、阿斗を保護した趙雲が駆け込んできて「張将軍、後は任せたぞ!」といい駆けこんでいくわけです。
趙雲が去ると張飛は、長坂橋の前で目を怒らせて「俺の名は張益徳、死にたい奴はかかってこい!」と凄まじいばかりに、曹操軍を威嚇しました。
張飛は一騎しかいないわけですが、張飛のプレッシャーに耐え切れなくなった、曹操軍の夏侯傑は失神して、落馬してしまい命を落としてしまったほどです。
一人の張飛に対して、曹操軍は攻撃する事が出来ませんでした。
その後に、張飛は橋を斬り落とし撤退しています。
張飛の長坂橋仁王立ちのお陰で、劉備達は逃げ切る事が出来て、呉の魯粛と会い同盟を結び赤壁の戦いで曹操を打ち破っています。。
これが三国志演義での長坂橋仁王立ちの内容です。
尚、三国志演義の中にも、幾つか種類があるようで、夏侯傑ではなく落馬したのは夏侯覇になっている場合もあります。
ただし、夏侯覇は落馬しただけで死んでおらず、司馬懿の一族が魏で実権を握った時は、蜀に亡命しています。
正史三国志の長坂橋の仁王立ち
正史三国志にも長坂橋の仁王立ちのシーンがあります。
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正史三国志の張飛伝に書かれている事でもあり事実なのでしょう。
しかし、三国志演義とは少し違っています。
劉備は曹操軍に追いつかれてしまうと、妻子を捨てて逃亡したとあります。
劉備の娘などは、曹操軍に捕まってしまったほどです。
この時に、劉備は後ろの備えを張飛に任せたとあり、20騎を従えて張飛は殿を務めたとあります。
張飛は、長坂橋の橋を斬り落とすと、曹操軍に対して下記の様に言ったとされています。
「我輩は、張益徳である。掛かってこい。命を賭して戦ってやる」
張飛に対して、誰も戦おうとする人物はいかなったそうです。
そのため先主(劉備)は助かったとあります。
これが正史三国志の張飛の長坂橋仁王立ちの内容です。
張飛の長坂橋仁王立ちは遠吠えだったのか?
正史位三国志では、張飛は橋を斬り落としてから、相手に向かって吠えた事になっています。
つまり、橋を渡れない様にして、こちらに攻めて来れない状態にして、曹操軍に対して吠えた事になっているわけです。
しかし、曹操軍に取ってみれば下記の様に思った可能性もあるのではないでしょうか?
「掛かってこい!」と言われても、橋が斬り落とされていて攻撃でできねえぞ~!
あいつ何言ってんだ!
正史三国志の長坂橋の戦いでは、張飛は敵を威嚇したと言うよりは、遠吠えをしただけになってしまうのではないでしょうか?
しかし、この時に張飛は弓で射られてもいないわけで、どういう事なのか謎な部分が多いです。
さらに、長坂橋の橋の長さにもよるのではないかと思いました。
橋の長さがどれくらいなのかは分かりませんが、20騎しかいない張飛達が斬り落とせるわけですから、どちらかと言えば、吊り橋の様なものであり、強度の低い橋だったのでしょう。
さらに、橋の長さが長いとなると、弓の攻撃は受けないかも知れませんが、相手に張飛の声が聞こえなくなる問題も生じるはずです。
それを考えると、張飛は橋を斬り落としてから、相手に向かって吠えただけのかも知れません。
それを張飛の部下か逃げまどう民衆が耳にして、張飛の長坂橋仁王立ちの話が出来上がった可能性もあります。
正史三国志には、張飛は一人ではなく後ろには20人いたはずなので、20人で合唱して相手に聞こえる様に言ったのかもしれません・・・。
その辺りは謎と言ってよいでしょう。
尚、長坂の戦いが終ると、趙雲は主騎から牙門将軍になるなど、出世した記述が趙雲伝にあります。
趙雲は単なる劉備のボディガードの様な役目から一気に将軍となったわけです。
それに対して、張飛伝には張飛が出世した記述はありません。
それを考えれば、長坂橋の仁王立ちは大して、劉備は評価していなかった可能性もあるでしょう。
しかし、正史三国志には、張飛の長坂橋仁王立ちのお陰で劉備は助かったともあり、役立った可能性もあります。
この辺りは、当事者でないとよく分からない所もあります。
橋を切り落として追撃をさせない様にしたのが、張飛の手柄なのかも知れません。
関連記事:趙雲は不遇の人生を送っていた?
長坂橋仁王立ちに張飛の部下はどの様に思っていたのか?
張飛の長坂橋仁王立ちの話ですが、張飛の凄さと美談となっている場合が多いです。
正史三国志でも、三国志演義でも名場面と言えるでしょう。
しかし、張飛に従った20騎の部下がどの様に思っていたのかは定かではありません。
張飛は正史三国志によれば、名士に対しては尊敬の念も持っていますし、寛大に接しますが、部下の兵士たちに対しては、直ぐに鞭を打ったりして厳しく当たるわけです。
張飛の最後は部下に裏切れている様に、人望は余りないと言えるのかも知れません。
そんな嫌な上司である張飛が長坂橋仁王立ちで敵に叫んでいたとしたら、「あいつ何、吠えてんだ!」とか、冷めた目で見ていた可能性もないでしょうか?
さらに、張飛が吠えている所を見て、「後ろから蹴りを入れて張飛を川に突き落としたい」という衝動に駆られた部下もいるのかも知れません。
自分であれば、嫌な上司がカッコつけていれば、「カッコばっかつけやがって!」と思い、嫌な目で見てるかと思われますw
それが張飛にバレて、さらに嫌われて鞭で打たれそうな気もしますがw
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