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司馬徽は龐統の顔が原因で、桑の木の上と下で会話をしたのか!?

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三国志で司馬徽という人物が存在します。

別名として水鏡先生と呼ばれている人です。

生涯に渡って仕官する事は無かったと言われていますが、諸葛亮、龐統徐庶向朗などの師匠でもあります。

龐統は、司馬徽がいなかったら生涯に渡って不遇の生活を送っていたのではないか?とも考えられるかなと思いました。

龐統は司馬徽と初めて会った時に、桑の木の上と下で語り合ったわけですが、なぜ地面ではなく、桑の木の上と下で語り合ったのか考えてみました。

尚、諸葛亮と龐統の事を臥龍鳳雛とか、伏龍鳳雛と呼ばれたりする事があります。

臥龍鳳雛を水鏡先生が名付けたと思っている人もいるようですが、実際に名付けたのは龐徳公という人物です。

龐徳公は、司馬徽の事を水鏡と名付け、諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と名付けています。

苗字から分かるかも知れませんが、龐徳公と龐統は親戚です。

尚、上記の画像はKOEIが出されている爆笑三国志の司馬徽と龐統が出会い、桑の木の下で話しているシーンです。

非常にカッコよく書かれていると思いました。

 

関連記事:劉備に臥竜鳳雛(諸葛亮・龐統)がいても天下統一出来なかった理由

 

 

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目次

龐統は外見が悪かった

龐統は諸葛亮に匹敵するほどの軍師として評価される場合もあるほどです。

専門家によっては、劉備自身も諸葛亮よりも龐統の方を評価していた話もあります。

劉備にとって非常に重要な入蜀において、諸葛亮ではなく龐統を連れて行ったのが、その理由だと考えられるからです。

しかし、龐統は地味で、もっさりとしていて評価する人がいなかったともされています。

劉備も最初に龐統が配下になった時に、大した人物だとは思わなかったとする話も残っているほどです。。

劉備も龐統の外見が悪かった事で、諸葛亮と違い優遇しなかったとする話も聞いています。

この様に龐統は、顔でかなり損をした人物でもあったとされているわけです。

実際に、司馬徽が評価するまでの、龐統は名声を得なかったとする話もありました。

その龐統が荊州にいる名士でもある司馬徽に、20歳の時にあったわけです。

もちろん、龐統が司馬徽を訪ねて行った事は言うまでもないでしょう。

 

 

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司馬徽と龐統が出会う・桑の木の上と下で会話

正史三国志の龐統伝の最初に、司馬徽と龐統が出会った時の話が載っています。

それによると、司馬徽は高い見識眼が評判の人物で、そこに無名の龐統が会いに行った事になっています。

龐統が会いに行くと、司馬徽は桑の木に登り葉をつんでいました。

龐統が司馬徽に話かけると、司馬徽は桑の木の下に龐統を座らせて、語り合っています。

司馬徽は龐統と語り合ってみると、非常に気に入り、昼から夜まで談義したと記述があります。

これを信じるのであれば、司馬徽は昼から夜まで、ずっと桑の木の上にいた事になるはずです。

龐統は上ばかり見て首が痛くならなかったのかな?とか、司馬徽も木の上にずっといてお尻や背中が痛くならなかったのかな?とも感じてしまいます。

しかし、司馬徽は龐統を大そう評価して、「龐統は南州の士中で第一人者になる」と言っています。

司馬徽が龐統を高く評価した事で、龐統は次第に有名になり、名声を得たようです。

龐統が世に出ていく事に関して、司馬徽はかなり役立った事になるでしょう。

 

なぜ司馬徽は桑の木から降りなかったのか?

龐統と司馬徽の話を聞いていて、疑問に思ったのが司馬徽はなぜ桑の木から降りなかったのか?という話です。

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桑の木の上と下では、話もしにくいと思いますし、龐統の言論が素晴らしいのであれば、机に座って語り合った方が喋りやすいし、聞きやすいはずだと思いました。

それにも関わらず、司馬徽と龐統は桑の木の上と下で、昼から夜まで語り合っているわけです。

これに関してですが、自分は一つの説が出ました。

ただし、龐統が本当にブサイクだった事が前提になっている説です。

それは、龐統がブサイク過ぎてしまい、正面から見ると「大したことない奴」に見えてしまうから・・・。ではないでしょうか?

しかし、司馬徽は桑の木の上から龐統を見ると「この角度であれば、こいつはカッコよく見える」と考えたのかも知れませんw

龐統がカッコよく見える角度で、話を聞いていると「こいつ滅茶苦茶、将来性があるじゃん」と思い、高く評価したとする説です。

つまり、司馬徽は桑の木の上から龐統を見る事で、相手の外見に惑わされず、言葉だけを評価する事が出来たわけです。

本当かどうかは分かりませんが、世の中にはメラビアンの法則というものがあり、人を評価するにあたって、視覚から来るのが55%、聴覚から来るのが37%だと言われています。

そうすると、龐統は外見が悪いわけですから、55%を捨ててしまう事になります。

司馬徽は桑の木に登る事で、55%の視覚から来る情報を遮断して、喋り方の上手さや話しの内容を重視したわけです。

しかし、それが本当だとすれば、龐統が司馬徽を訪ねてきた時に、桑の木の上にいなかったら、評価されない事になってしまいますが・・・。

この説を取るのであれば、その辺りの運の良さも龐統には会ったのかも知れません・・・。

尚、外見で人を評価してしまうと言うのは、現代でも当たり前の事のようで、日本では男性のイケメンとブサイクでは生涯年収が4800万円も違うとするデータも出ているわけです。

後の中国に大きな影響を与えた孔子であっても、澹台滅明が外見が優れないのを見て、過小評価してしまい悔いた話が残っています。

逆に、弟子の宰予は外見が良く弁論が上手く、それを過大に評価してしまい誤ったとする話もあるわけです。

それを考えると、見た目で人を判断しないと言うのは、かなり難しいのかも知れません。

 

司馬徽のような師匠が欲しかった

司馬徽を見ていると、こういう師匠が欲しかったなと思う時があります。

確かに、司馬徽は肝心な事を聞いても「よいぞ。よいぞ」しか、言わないなどの問題点もありますw

司馬徽は、妻に文句を言われた時も、妻の意見を聞いて「それもまた、よし」と相手を肯定した話も残っているほどです。

司馬徽は、普段から温厚だった話もあり、師匠であれば「変に厳しい人」よりも、司馬徽の弟子になりたいと思ってしまいましたw

司馬徽は相手のよい部分を見つけて「褒めて伸ばす」というのが、ポリシーだったのかも知れません。

さらに、本人の為を思ってか、人物を大きく評価した話も残っているほどです。

自分は、根性もないので、鬼の先生よりは、仏の先生の方がいいなと感じてしまいました。

しかし、諸葛亮、龐統、徐庶、向朗などは、司馬徽の門下生であった為に、大きく成長する事が出来たのかも知れません。

逆に、許劭や孔融の様に人によっては、かなり酷評するような人物の所に、龐統が訪ねて行ったら、人生は変わっていた可能性もあるでしょう。

やっぱり、人物鑑定してくれるのであれば、司馬徽の所に行くのが正解だなと感じていますw

 

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