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劉備は筵や草鞋売りの貧乏人ではない!父親や祖父は凄い人だった

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劉備と言えば筵(むしろ)や草鞋を売っている貧乏な農民の出身というイメージがないでしょか?

劉備の父親は早く亡くなりましたが、母親が筵を売り苦労して育てたイメージもあるような気がします。

しかし、正史三国志やその他の資料を見ると、劉備の母親は筵売りだったけど、意外と裕福な家庭だったのでは?と思えてしまう所があります。

ただし、裕福と言っても麋竺魯粛、周瑜などの名士や富豪には及ばないですし、もちろん、袁術や袁紹、曹操などと比べれば貧乏人のレベルになるのかも知れません。

それでも、普通の農民に比べると、かなり裕福であったのではないか?と思える部分が多々あります。

尚、劉備は出身地である幽州の涿郡涿県楼桑里では、評判が悪かったとする説があります。

その辺りも解説します。

余談ですが、劉備は中山靖王劉勝の子孫を名乗っていますが、系譜が怪しまれています・・・。

 

関連記事:劉備の先祖・中山靖王劉勝ってどんな人?

 

目次

劉備は筵を売っていなかった?

正史三国志によると、劉備の父親は早くになくなり、母親と筵や草鞋を作り生計を立てていた様な事が記録されています。

しかし、最近の研究では、劉備は筵や草鞋を売ってなくて、逆境から皇帝から這い上がった設定にした為に、筵や草鞋を売っていた貧乏人として描かれた説もあるわけです。

さらに、一説によれば母親は草鞋や筵を売っていたが、劉備は手伝わなかった話もありますw

漢の高祖である劉邦は、農民出身でありましたが、遊んでばかりいて働かなかった話もあります。

劉邦と劉備は正史三国志にも、タイプ的に似ているような所が書かれていて、それを考えれば、筵や草鞋を作ったりして、売ってはいなかったのかな?とも考えられます。

草鞋や筵を売っていなかった説ですが、劉備の家は、それなりに裕福だった説があるからです。

それを考えれば、母親は趣味で筵や草鞋を作っていた可能性もあるでしょう。

 

劉備の祖父・劉雄は孝廉に推挙されていた

孝廉というのは、後漢王朝にあった制度の一つで、親孝行を認められると出世が出来る仕組みの一つです。

孝廉に推挙される事が出来れば出世コースに乗り、高い役職に就く事も可能になります。

劉雄の頃には、涿郡で孝廉に選ばれる人は10年に一人しかいなかったとされています。

さらに、後漢の孝廉の制度は、名家の家から推薦される事が多く、親孝行とは余り関係なかったともされています。

ただし、孝廉にも試験があり、それ難関で有名だった話もあるほどです。

劉雄が孝廉に推挙された事を考えると、余程の頭脳明晰であったか、財力があったかなど、力量があった事が分かります。

劉備の祖父である劉雄は、エリートコースを歩んでいた人物でもあったわけです。

実際に劉雄は、東郡の范県の令にまでなったと、正史三国志には記載されています。

これを考えると、ちょっと貧乏で筵を売っている劉備とはかけ離れているように思えてなりません。

 

劉備の父親・劉弘は早死にはしたけど

劉備の父親の劉弘ですが、正史三国志によれば若くして亡くなったとあります。

そのため、大して出世もせずに亡くなってしまったようです。

しかし、後に劉備が後漢の儒者として有名な盧植に弟子入りしている所を見ると、それなりに高い地位にあり、当時の一流の人達と関わり合いが深かった事も考えられます。

盧植の弟子は、簡単になれるものとは思えないからです。

 

劉備の後ろ盾・劉子敬と劉元起

劉備の父親は早くに亡くなってしまいましたが、後ろ盾として叔父の劉子敬と劉元起の二人がいた事が分かっています。

劉子敬は、劉備が子供の頃に「皇帝の車のような立派な車に乗れる人物になってみたい」様な事をいい、「馬鹿な事を言うな!一族滅亡になるぞ!」と窘めた話が残っています。

これを考えると、劉子敬は、劉備の父親代わりのような存在であり、劉備の家を後ろから支えていたのではないでしょうか?

劉備の家と一心同体で考えていた可能性もあります。

尚、後に劉備の配下となる孟達は、最初の字が子敬で、劉子敬と同じでした。

しかし、孟達は劉備に気を遣ったのか、自分の字を子度に変更しています。

これを見ると、劉備が劉子敬に対して、並々ならぬ思いがあった事は事実でしょう。

それを気遣い孟達が字を変更したと思われます。

劉備が青年になると、劉備の母親は、劉備に学問を身に着けさせるように考えます。

この時に、劉備の学費を払ったのが、劉元起です。

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劉備の親族である劉元起は、「この子(劉備)は並みの人間ではない」と評価して、お金を負担した話が残っています。

この様に劉備は、父親は早く亡くなりましたが、親戚たちのバックボーンがあり、祖父の代からの人脈も使えて、お金には大して困っていなかったように思えるわけです。

富豪とは呼べなかったかも知れませんが、決して貧乏な農民ではなかったのでしょう。

 

 

貧乏人であれば盧植の弟子にはなれないはず

劉備は、劉元起の援助があり盧植の弟子になります。

盧植は、九江太守や廬江太守、議郎にも任命された事が分かっています。

九江蛮を制圧した話もありますし、文武に優れていて後漢王朝からも高く評価されていた人物です。

盧植は後漢の皇帝である、霊帝に意見書を提出した記録もありますし、皇帝にも謁見する事が出来る様な人でもあります。

さらに、交わりがあった鄭玄は、後漢末期で最高の学者とも呼ばれていて、名の通った人物です。

盧植は黄巾の乱が起きると、宦官に賄賂を贈らなかった事で、解任されてしまいましたが、黄巾賊の首領である張角を追い詰めた人物でもあります。

盧植は、黄巾賊の本隊と命を受けて戦っている事実があります。

これほどの人物の弟子になるわけですから、貧乏人では無理な話だったはずです。

つまり、劉備の家はある程度、裕福で親戚は財力があり、その力を使い劉備は盧植の弟子になったと考えるが妥当でしょう。

ちなみに、盧植の弟子にはなりましたが、公孫瓚を兄貴分にして、闘犬や競馬が好きで綺麗な服を好んで着ていた話が残っています。

それを考えれば、とても貧乏人とは言えないでしょう。

綺麗な服を買うにもお金が掛かりますからね・・・。

尚、盧植は儒教を教えたはずですが、劉備には儒教の教えに反した行動も多く見受けられます。

そのため、任侠気取りの出来の悪い弟子の部類に入る可能性もあるはずです。

しかし、決して貧乏だとは言えないでしょう。

 

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劉備は地元では評判が悪かった?

劉備ですが、ここまで見ると貧乏人ではなかった事が分かります。

劉子敬と劉元起は財力がありそうですし、後ろ盾としては十分な存在だったはずです。

他にも、劉備の家を見た人が「この家からは貴人が生まれる」と予言した話が、陳寿が書いた正史三国志にあります。

しかし、劉備は幽州や涿郡涿県楼桑里では、評判が悪かった説が存在します。

幽州は三国志の時代では、魏の領土に入りますし、中国の北の方に位置します。

幽州の出身者が劉備であれば、「幽州で劉備を迎えてみよう」などの話が起きてもよさそうな気がするというわけです。

しかし、史書などによれば、そういう声が上がった記録がありません。

劉備が世に出る時も、バックアップしたのは地元の有力者ではなく、他国の豪商である張世平と蘇双です。

そのため、劉備は幽州ではちょっと、評判が悪かった可能性があるのかな?とも思いました。

ちなみに、漢の高祖である劉邦(劉備の祖先という事になる)は、豊邑出身でした。

劉邦は、豊邑を支配下に加えた時に、雍歯(ようし)という人物に守らせています。

しかし、雍歯は簡単に裏切ってしまい、劉邦に背きました。

この時に雍歯が一人で背く事を決めたのではなく、豊邑の長老や人々の意見として、劉邦に背く事を決定した様な事が書かれているわけです。

さらに、劉邦は豊邑を奪還するために、兵を繰り出したわけですが、豊邑を落とす事が出来ませんでした。

劉邦も生まれ故郷の人には嫌われていた説があります。

劉備と劉邦は、正史三国志にもタイプ的に似ている人物だと書かれています。

二人とも決して、頭がよいわけではなく、腕力が人並み外れて強いわけではありませんが、不思議な魅力を持っていて優れた臣下が揃ってしまうわけです。

劉備も関羽や張飛、趙雲、諸葛亮らを、不思議な魅力で惹きつけています。

もしかして、少年か青年になった頃に、地元で評判を落とすような事をしてしまったのかも知れません。

しかし、それを劉邦や劉備は大人になった時に、修正する事で人を惹きつける様な魅力を得たのかな?と考えた事があります。

劉備が本当に地元である幽州で嫌われていたり、村八分にされていたのかは、不明ですが、ありえない話でもないと思いました。

ちなみに、私も田舎育ちですが、何もしてないのに村八分になっている様な気もします。

これは一体、何が原因なのでしょうかw

 

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