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孫権は日本を侵略しようとして失敗した事がある!?

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呉の孫権というと、守成の名君とも呼ばれていて、無茶をするような性格には思えないかも知れません。

しかし、陳寿が書いた三国志の呉書・呉主伝(孫権の伝)によると、230年に日本を侵略しようとした記述があります。

陸遜や全琮は止めたわけですが、孫権は日本侵略を強行しているわけです。

今回は、孫権がどの様にして、日本を侵略しようとしたのか解説します。

尚、一説によれば孫権は不老不死を求めて、日本を侵略しようとした話もあります。

秦の始皇帝や漢の武帝など、不老不死を求めた皇帝はいますが、みんなロクでもない結果に終わっているんですけどね・・・。

 

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徐福伝説が孫権を刺激させた!?

三国志よりも500年ほど前の時代に、秦が春秋戦国時代を終らせて天下統一したわけです。

秦の王様を嬴政(えいせい)と言い、秦王を改めて始皇帝を名乗っています。

始皇帝は天下統一すると、焚書坑儒や度量衡や文字の統一、蒙恬に命じて万里の長城の建設などを行っています。

しかし、晩年は不老不死に憧れて、方士たちに不老不死の薬を探させたとされています。

方士の徐福は、始皇帝から大船団などを与えられて、亶州(たんしゅう)を目指したと言う話があります。

しかし、徐福は不老不死の薬を見つける事が出来なかったのか、逃亡してしまい始皇帝の元に帰る事はなかったようです。

三国志の時代には、徐福が亶州に到着して子孫を増やしているとか、亶州で徐福が王になった話や、そこには不老不死の妙薬があるとも考えられていた話があります。

さらに、呉は沿岸の国ですから、台風や大風などで人が流されて来たりして、そこから亶州がある事をキャッチしていたとも言われています。

亶州が、日本の事だとも考えられています。

ただし、亶州は種子島だとする説もあります。

孫権は、亶州と夷州(台湾)を制圧しようと考えたわけです。

不老不死を目指した可能性もあるでしょう。

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陸遜と全琮の進言を却下

孫権は、陸遜と全琮に書簡などで意見を聞いた話が、正史三国志に残っています。

陸遜と全琮は、二人とも夷州や亶州に兵を出す事に反対したわけです。

当時の呉は、連年のように兵を出していましたので、国内が消耗してしまうと述べています。

他にも、呉の地を遠く離れれば、風土病に掛かり疫病が多発するとか、メリットはほとんどなく、思った様な成果は挙げれないと意見を述べたわけです。

さらに、亶州は遠く場所もはっきりとしない事から、上手く行かないと進言しました。

天下統一をするのであれば、兵を休めて民を慰撫すれば、おのずと出来ると説いています。

今の日本人の感覚で言えば、陸遜の言う事が正しいと思うのではないでしょうか?

しかし、この時に陸遜や全琮は、謙遜して「臣が愚考するに」とか言っているわけです。

私は思わず、愚考は絶対に孫権だよな~と思わずツッコミを入れたくなってしまいました・・・。

尚、孫権は、陸遜と全琮の意見を聞かずに、亶州と夷州への出兵を命じています。

 

孫権の日本侵略は失敗に終わる

孫権による亶州・夷州攻めの将軍となったのは、諸葛直と衛温です。

諸葛直に関しては、呉の諸葛瑾の一族かな?と考えた事もありますが、諸葛瑾と諸葛直の関係に関する記述がなく分かっていません。

さらに、諸葛瑾が孫権の日本侵略?に関して、意見した記録もありませんでした。

孫権は衛温と諸葛直に、1万の兵士を授けて、亶州と夷州の制圧と住民を連行して来るように命令したわけです。

呉は魏に比べると、領土の広さの差は少ないですが、人口密度で劣っています。

その事から、拉致による住民を増やす政策も含まれていたのでしょう。

しかし、結論から言えば、孫権の日本制圧計画?は失敗に終わっています。

夷州は、台湾なので場所もよくわかっていて、辿り着く事も出来たようですが、亶州に関しては場所も分からずに、辿りつく事も出来ませんでした。

さらに、陸遜や全琮の言う通り兵士の間で、疫病が発生してしまい、兵士の8割から9割が死亡したとも言われます。

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それを考えると、苦難の船旅だったはずです。

それでも、記録によれば数千人の住民を連行して帰って来たとも言われています。

しかし、兵士の8割から9割が死亡したという事は、生き残った兵士は1000人か2000人ほどになるはずです。

それで、数千人を連れ来れるのか?という疑問もあります。

疫病が発生したのであれば、連行した住民も多くは亡くなってしまったのではないでしょうか?

その事から、数千人を連行した記述も怪しいな?と思った次第です。

 

日本侵略に失敗した諸葛直と衛温は処刑されていた

亶州を見つける事が出来ずに、帰って来た諸葛直と衛温ですが、孫権は獄に繋ぎ処刑してしまいました。

目的が達成出来なかった事を理由に、処刑したわけです。

ただし、孫権の日本侵略計画は、誰が発案したのか謎があります。

会稽に漂流してきた亶州の住民を、呉の役人が聞いて、孫権が知ったのかも知れません。

住民からの話を聞いて孫権がやる気になり、兵を出して亶州や夷州の制圧を考えた可能性もあるでしょう。

ただし、その場合だと諸葛直と衛温が処刑されるのは、気の毒な感じがします。

元々、成功する確率がほとんど無いようなプランを孫権が考えて、実行して失敗した罪を諸葛直と衛温に押し付けた事になるからです。

しかし、諸葛直と衛温が大言壮語して、亶州の場所を知っているとか語ったのであれば、処刑されても当然かなと思った次第です。

それか、諸葛直と衛温は、秦の時代の徐福のように、孫権からさらなる援助を引き連れてバックレる計画だったのかも知れません。

それが孫権に何らかの形でバレて処刑された可能性もあるでしょう。

しかし、諸葛直と衛温の二人は徐福を見習って、呉には帰ってこない選択が最良だった可能性もありますw

これ以後に、孫権が日本を侵略しようとした記述はありません。

1回失敗して懲りたのでしょうw

 

亶州は、本当に日本なのか?

孫権が侵略しようとした亶州ですが、一般的には日本の本土とか、種子島とか言われています。

しかし、亶州が本当に日本だったのか?と言われると分からない部分もあります。

孫権が亶州を攻めた年は、西暦230年です。

正史三国志の魏についての歴史が書いてある部分に「魏志倭人伝」があります。

それによると、倭国(日本)の女王である卑弥呼が、魏に朝貢したのが238年とされています。

8年前ですから、230年の時点では、既に日本には邪馬台国があったはずです。

邪馬台国は、九州説、近畿説などがありますが、日本列島のどこかにあったのでしょう。

尚、邪馬台国に関しては、正史を書いた陳寿も正確な場所は分かっていないような所があり、「距離を考えてみると会稽や東治の東に位置するのであろう。」と曖昧さを残した記述になっています。

会稽は呉の首都である建業の南に位置する事から、呉からはそれほど遠くないと考えたのかも知れません。

日本の位置を実際の地図帳の位置よりも、南に考えていたのでしょう。

それを考えると、倭国と亶州は別で、現在の沖縄なり種子島が妥当かなとも思いました。

ただし、呉の年号である赤鳥の年号が入っている入っている、三角縁神獣鏡が日本でも見つかっています。

それを考えると、古代倭国と呉は全く関係がなかったわけでもないのでしょう。

しかし、中国ではほぼ三角縁神獣鏡が出てきていませんし、これが古代史の頭を悩ませるところなのでしょう。

呉がどの様なルートで日本と交流を持とうとしたのか?侵略をしようとしたのかは謎が多いです。

しかし、孫権による亶州征伐は未知の世界だったのでしょう。

ここでもし、諸葛直や衛温が亶州を見つけて来たのであれば、前漢の時代に西域を調べ上げた張騫に匹敵する功績だったのかも知れません。

しかし、現代の日本人からみれば、孫権がこの時に既に耄碌していたのでは?と思ってしまってならない人もいるはずです。

孫権は、どうもどこかネジが外れている部分がある様な気がしてなりません。

まあ、自分も頭のネジが外れているとよく言われますがw

お前が言うな!って感じですよね・・・。

 

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