三国志・キングダム・春秋戦国時代などの歴史を紹介します。

三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

三国志

諸葛瑾は、孫権にも信頼厚く誠実な人!呉の臣下の命も救った人物

スポンサーリンク

諸葛瑾を紹介します。

諸葛瑾と言うと、諸葛亮の兄としても有名です。

魯粛と同じころに、孫権に仕えるようになったとされています。

諸葛亮が蜀の丞相になったり、軍を率いて南征や北伐をしたのに比べると、どうしても目立たない存在です。

三国志演義でも、登場はしますが、弟である諸葛亮には絶対に勝てないようになっています。

しかし、諸葛瑾は諸葛亮とは違った才能があり、有能な人物にも感じました。

諸葛瑾は、非常に誠実な人間だと思われる逸話もあり、決して諸葛亮にも引きを取らない人物ではないかと考えています。

諸葛瑾は、呉の重臣として孫権にも絶大な信頼を得ているわけです。

今回は、諸葛瑾の人柄や孫権から絶大な信頼を得たエピソードを中心に紹介します。

尚、夷陵の戦いの前に、劉備に手紙を送っているわけですが、「的がずれてる?」と感じるような内容もあります。

それらも合わせて紹介します。

上記の画像は、横山光輝先生の漫画三国志で諸葛瑾が関羽に交渉に行った時のシーンです。

余談ですが、諸葛瑾というと外交官とか文官のイメージが先行していますが、後には大将軍になるなど、将軍として何度も戦場に行っています。

ただし、陸遜や周瑜、呂蒙のように戦上手とは呼べない気がしますが・・・。

 

 

スポンサーリンク

目次

孫権から絶大なる信頼を得る

諸葛瑾は、孫権から絶大なる信頼をされていた人物でもあります。

孫権は、呂蒙の策に従って荊州の関羽を討ち領土を奪っています。

この時に、劉備が関羽の敵討ちと称して、呉に大軍を差し向けてきたわけです。

諸葛瑾は、この時に弟である諸葛亮が蜀の丞相をしていた事もあり、その関係を利用して劉備に書簡を送っています。

これらの行動を見た孫権の側近の中には、「諸葛瑾が蜀の劉備に寝返る」と、孫権に言う者までいました。

しかし、孫権は取り合わずに、下記のような事を述べています。

「諸葛瑾が私を裏切らないのは、私が諸葛瑾を裏切らないのと同じだ。」

この様にいい、孫権は諸葛瑾の事を疑う事をしませんでした。

諸葛瑾が如何に、孫権から信用されていたのかが分かります。

さらに、諸葛瑾と孫権の関係は「神交」とも評される事もあります。

春秋戦国時代に、管仲と鮑叔の「管鮑の交わり」、廉頗藺相如の「刎頸の交わり」などがありました。

しかし、「神交」となると、それを上回る交わりのようにも見えます・・。

どのレベルの交流だったのかは、想像による部分が大きいでしょう。

ただし、孫権は諸葛瑾に対して、完全に敬意を払っていたわけでもありません。

いたずらの様な事をした事があり、驢馬を用意して諸葛瑾と名札を付けておいたことがありました。

※諸葛瑾の顔は驢馬に似ていたらしい

信用しながらも、こういう悪戯?をしてしまうのが、孫権だとも言えますw

 

関連記事:孫権の偉大さが分からない方へ

 

 

スポンサーリンク

 

虞翻をフォローする

諸葛瑾は、虞翻をフォローした事がありました。

虞翻というのは、呉の臣下で頭もよく功績もある人物です。

王朗の配下でしたが、孫権の兄の孫策の時代に、配下になった人です。

三国志演義では、諸葛亮に論破されていますが、これは史実ではありません。

虞翻は、道理に煩く性格に問題があった人物でもあります。

呂蒙の元で関羽討伐を行った時は、関羽配下の傅士仁と糜芳を降伏させるのに活躍し、関羽の死も予言しています。

しかし、後に糜芳に会った時に罵声を浴びせたりと、協調性を欠き性格に問題があったわけです。

周りの人と上手くやれませんし、孫権に対して直言を好む為、嫌がられていました。

孫権が虞翻を誅しようと考えるわけですが、周りの群臣で止める人はいませんでした。

しかし、諸葛瑾だけは虞翻の事をフォローして、孫権も処刑するのを思いとどまっています。

虞翻は、親しい人物にあてた手紙で、諸葛瑾と虞翻を春秋戦国時代の叔向祁傒(きけい)を例に出して、感謝の意を述べています。

虞翻を数多くいる群臣の中で、一人フォローしたと言うのは、諸葛瑾の人柄を現わしていると言えるでしょう。

 

関連記事:関羽は死んで当然だと思った件!【威張られたい奴はいない】

 

脳科学のテクニックを使い朱治をフォロー

朱治は、孫権の父親である孫堅と、兄である孫策に仕えた古参の武将です。

朱治が孝廉に推挙した人物が気に入らなかったのか、孫権は朱治に対して不満を持っていました。

しかし、朱治は父親の代からの功臣でもあり、孫権も意見を面と向かってする事が出来なかったのでしょう。

これにより孫権は、欲求不満になってしまったわけです。

これを察した諸葛瑾は、孫権の前で自らが朱治に提出するかのような文章を書きます。

諸葛瑾は、孫権の言葉を予想して、朱治を責める文章だったと伝わっています。

諸葛瑾の書いた物は、道理が通っていて、孫権が言いたい事だったのでしょう。

さらに、諸葛瑾は受け取った朱治がどの様な返事をするかを予測して、孫権にその場で手紙を書いたわけです。

こちらもまた筋が通った文章だったとされています。

これを見た孫権は怒りが収まったという話が残っています。

この時の孫権はイライラしてしまい、朱治に対する恨み節が、頭の中でグルグル回っていた状態だったはずです。

それを諸葛瑾が手紙を書く形式で文字起こしをして、書く事でイライラが収まったのではないかと考えられます。

自分もそうなのですが、イライラする時はネガティブな思いが頭の中をぐるぐる回ってしまいますが、紙に書く事で客観的に見る事が出来るようになったと言う事でしょう。

近年の脳科学の世界で言われている事を、三国志の時代にやったのが諸葛瑾だと言う事になります。

これは凄い事だなと感じました。

 

殷模をフォローする

孫権の配下に殷模という者がいて、孫権の怒りを買い処刑されそうになっています。

殷模は、諸葛瑾が孫権に仕える頃に、同じように仕える事になった人物だとされています。

群臣の多くが殷模を許す様に進言しますが、孫権は怒りを募らせるばかりで、言う事を聞きません。

この時に、諸葛瑾だけは何も言わずに黙っていました。

これを見た孫権は、「なぜ黙っているのか?意見を聞かせて欲しい」と諸葛瑾に言います。

諸葛瑾は、次のように述べています・

自分や殷模は、故郷が戦乱で壊滅してしまった。こうして江南に避難してくると孫権様は、受け入れて俸禄を下さいました

御恩を被りながらも、ご恩返しする事も出来ずに、殷模は背くような態度を取ってしまいました。

私は過ちを謝罪できるような立場ではありませんし、申し上げる言葉もありません

諸葛瑾の言葉に、孫権は悲しみを覚えて、殷模の罪を許した話があります。

これらの話から、諸葛瑾が如何に誠実な人かが分かるはずです。

蜀の麋竺あたりも誠実ですが、諸葛瑾も負けず劣らず誠実な人物に感じました。

 

孫権は諸葛瑾がいなくなったら耄碌したのか?

孫権の晩年は、耄碌したと言われています。

後継者争いに巻き込まれて、呉の重臣で丞相である陸遜も憤死したほどです。

孫権が耄碌した原因ですが、張昭や諸葛瑾がいなくなってしまったからだとする説があります。

張昭は頑固者として有名ですが、孫権に対しては手厳しい意見なども平気で言ったりしていました。

それに対して、諸葛瑾の方は臣下と孫権の間を上手く行くように、バランスを取っていたようにも見受けられます。

実際に、正史三国志で分かっているだけでも、朱治、虞翻、殷模を助けているわけです。

スポンサーリンク

それを考えれば、孫権と臣下の間で摩擦が起きないように、潤滑油の役割を果たしていたのでしょう。

それ故に、孫権の悪い部分が表面化しなかったのかも知れません。

 

裴松之に見当違いだと言われてしまった諸葛瑾の手紙

先に、夷陵の戦いの時に、諸葛瑾は劉備に手紙を出した話をしました。

この時に、裴松之は手紙の内容が的外れだと言っていますw

夷陵の戦いの前ですが、孫権は劉備と戦いたくないと思っていたようです。

頼りにしていた、呂蒙が関羽征伐が終ってしまうと、直ぐに亡くなってしまったのも大きな原因でしょう。

諸葛瑾は、夷陵の戦いの前の段階で劉備に手紙を送っているわけです。

手紙の内容は、道理を考えて劉備の敵は呉の孫権ではなく、魏の曹丕だと説得します。

元々劉備は、漢王室の一族である中山靖王劉勝の子孫を名乗っています。

蜀はスローガンとして、漢王室の復興を掲げているわけです。

それらを考えて、諸葛瑾は劉備の敵は、魏であって呉ではないと訴えかけています。

この手紙に対して、裴松之は劉備は長年にわたって仕えてきた、関羽を殺した事を怒っているのであり、それに対して漢王朝再興についての手紙を出すのは的外れだと言っています。

確かに、それを考えると論点が違っているようにも感じました。

ただし、自分的には、この時の劉備は戦う気が強かったようなので、例え関羽の事を持ち出してきても、火に油を注ぐだけで、手紙で翻意するのは難しいと考えています。

 

関連記事:劉備の先祖・中山靖王劉勝ってどんな人?

 

諸葛瑾と諸葛亮の関係

諸葛瑾と諸葛亮の関係について述べてみたいと思います。

諸葛瑾と諸葛亮は、血縁関係のある兄弟です。

さらに、諸葛亮の下にも弟がいて、諸葛均といい蜀に仕えています。

諸葛三兄弟の父親は、諸葛珪と言います。

諸葛瑾と諸葛亮の関係ですが、初期の頃はかなりドライに付き合っていた事が分かっています。

諸葛瑾が蜀に外交で行ったとしても、私的に会う事はしなかったと記録があります。

お互いが別の君主に仕えているわけですから、私的な面会は内通していると、怪しまれてしまう事から避けていた可能性も高いです。

ただし、孫権が諸葛亮も呉に仕えさせようとした時に、「諸葛亮が我が国に来て仕えないのは、私(諸葛瑾)が蜀に仕えないと同じです」と言っています。

この事から、初期の頃は私的に合わなかっただけで、お互いを信頼していた事は分かります。

しかし、後には子供に恵まれなかった諸葛亮が、諸葛瑾の次男を養子にしています。

養子の子は、諸葛喬と言いますが、228年に漢中で亡くなっています。

第一次北伐の最中に亡くなってしまったわけです。

第一次北伐は、泣いて馬謖を斬るなどもあり、この時の諸葛亮の悲しみは深かった事でしょう。

しかし、これを見ると諸葛亮と諸葛瑾は、交流はちゃんとしている事が分かります。

諸葛瑾は呉の大将軍になりますし、諸葛亮は蜀の丞相です。

さらに、親戚とも言われている諸葛誕も、魏で重要なポストにありました。

一族が魏・呉・蜀の3カ国で重要なポストに就任している事で、最終的には堂々と交流が出来るようになったのかも知れません。

諸葛亮は後に諸葛瞻という子が生まれて、諸葛瑾に手紙を送っています。

手紙には「利発で可愛い子ですが、早熟過ぎて大物になれないか心配です」と書かれていました。

諸葛亮の親バカぶりも見て取れる気もしますが、諸葛瑾とも仲が良好な事が分かります。

完全に不仲であれば、手紙などの往復はしないはずです。

尚、諸葛瑾と諸葛均(諸葛瑾のもう一人の弟)に関しては、逸話が全くなく関係は不明です。

諸葛均は、蜀に仕えましたが、大した活躍がないのと、正史でも情報は大して収集されなかったようです。

尚、諸葛瑾や諸葛亮は呉と蜀で大成したと言えるかも知れません。

しかし、諸葛瑾の子である諸葛恪は、孫亮(呉の皇帝)の後見人になりましたが、合肥の戦いなどでも失態を犯し、誅殺されています。

諸葛恪が失脚されると、諸葛瑾の次男である諸葛融も殺害されました。

諸葛亮の子である諸葛瞻も、魏の鄧艾が攻めて来た時に、将軍として反撃しますが、大敗を喫して戦死しています。

諸葛瑾も諸葛亮も本人の代では大きく飛躍しましたが、息子の代で失敗をしいたと言えるのかも知れません。

二人とも後継者の教育には、失敗した可能性もあります。

 

関連記事:合肥の戦い(253年)張特3千が諸葛恪の20万の大軍を撃破

 

諸葛瑾の交渉術は使える

正史三国志の諸葛瑾伝には、諸葛瑾がどの様にして孫権を納得させたりしたのか?という事に対して記載があります。

このテクニックを諸葛瑾伝の最初に持ってきている辺りは、正史三国志を書いた陳寿が、諸葛瑾伝で一番言いたかった事なのかも知れません。

諸葛瑾の渉テクニックは、次のように記載されています。

諸葛瑾は決して、強い態度を用いる事はなく、思っている事を僅かに態度に出して、主張をおおよそに述べた

孫権に主張が受け入れられそうにない時は、別の話をしておいてから、他の事に託して意見を述べた

この様にした為、孫権は心が変わる事も多かった

歴史を見ると、劉備の入蜀を諫めた、劉璋配下の王累のような逆さ吊りや、相手の気持ちを考えずに、堂々と意見する人が目だったり、注目を集めたりするわけです。

しかし、本当に実用的な交渉のテクニックは、諸葛瑾のように相手の顔色を判断して、受け入れられそうにない時は、別に話をしてから、本題に移るなどではないかと思っています。

ちなみに、諸葛瑾の交渉テクニックは恋愛でも使えたりします。

女の子と初対面で連絡先を交換したい時に、女の子から突然だと怪しまれる事があります。

そこで、最初に連絡先交換を打診しておいて、相手が怪しんだりしているようなら、別の話に切り替えて、和んで来たら再び、連絡先を打診するというテクニックです。

これを使えば絶対ではありませんが、女の子と連絡先を交換できる事があります。

ただし、私の場合は連絡先が交換出来ても、怪しすぎるためか、返信が全然ありませんが・・・・。

これだと単なるリスト収集業者ですね・・・汗

 

諸葛瑾ほどの人柄の人でも悪い噂は立てられてしまう

正史三国志の諸葛瑾伝に、陸遜と諸葛瑾の話が掲載されています。

陸遜は呉の都督をしていたわけですが、諸葛瑾が蜀に内通している噂が耳に入ったのでしょう。

陸遜は全く信じていませんでしたが、諸葛瑾が不便に感じたのか、孫権に対して「噂など信じていない事を言い、諸葛瑾を安心させて欲しい」という手紙を上表しているわけです。

ここで孫権は、過去の出来事なども交えながら、諸葛瑾が忠実な人だと語り、自分と子瑜(諸葛瑾の字)は、心が交わった仲だから、子瑜が裏切る事はないと思っているし、安心して欲しいと手紙を送っています。

この様に孫権からは誠実さなどを高く評価されているわけですし、朱治や虞翻、殷模の様に命が助かった人もいるわけです。

それにも関わらず、諸葛瑾に対して讒言する人もいたと言う事です。

これを考えると、諸葛瑾ほどの誠実な人でも悪く言う人はいる事になります。

ましてや、諸葛瑾に遠く及ばないような自分などは、悪く言われてしまっても当然かなと思いました・・・。

自分から評判を落として悪く言われる様な事はする必要はありませんが、悪く言われてしまうのは、仕方がない事なのかも知れません。

芸能人でもプロのスポーツ選手でも、アンチは必ずいますし、アンチが付くと言うのは有名人の証なのかも知れません。

ちなみに、自分はそういう事は知っていても、いざ悪く言われると逆恨みするタイプですw

 

関連記事:諸葛瑾は、諸葛恪・諸葛融の教育に失敗していたのか?

 

三国志:三国志の記事一覧はこちらから

 

スポンサーリンク

-三国志,

Copyright© 三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書 , 2024 All Rights Reserved.