三国志

第一次北伐で諸葛亮が魏に勝てずに失敗に終わった理由

2021年4月1日

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宮下悠史

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諸葛亮が魏を攻めた三国志における、第一次北伐について考えてみました。

尚、諸葛亮の北伐は何度も行っていますが、条件的には第一次北伐が一番良かったのではないかと思われます。

しかし、このチャンスを生かす事が出来ずに、諸葛亮は敗れ去り、これが尾を引き北伐は最後まで、成果をほとんど挙げる事が出来ませんでした。

第一次放伐の失敗は、「馬謖街亭の戦い張郃に敗れたからだ」と言う人もいます。

正史三国志などを見て調べてみると、馬謖一人の責任でもない事が分かります。

今回は、諸葛亮の第一次北伐がどの様にして、失敗に終わったのか?というお話しです。

諸葛亮ファンからして見ると、ショックを受けるかも知れませんが、第一次北伐で諸葛亮は苦し紛れにも見える住民拉致まで行っています・・・。

ただし、正史三国志を見ると蜀は夷陵の戦いで劉備が呉の陸遜に敗れ多くの将兵が討死しているのに、短期間で蜀を立て直し南征を成功させ北伐まで実行した諸葛亮の手腕を評価する声もあります。

第一次北伐は好条件が揃っていた?

諸葛亮の第一次北伐を考えてみると、好条件が揃っていたように思えてなりません。

上庸を守る孟達は、魏に背かせる事に成功していますし、全体的にみれば好条件が揃っていたように感じます。

最終的には、失敗に終わってしまいますが、条件で言えば諸葛亮の北伐の中では一番よかったはずです。

どの辺りの条件が、良かったのか紹介します。

ただし、条件は良かったが迅速な行動などが出来ずに、チャンスを逃したような場面も見受けられます。

孟達を寝返らせる事に成功する

諸葛亮は、北伐の軍を起こす前に、南征を行っています。

蜀の王連が生きている間は南征は行えませんでしたが、王連の死と共に南征をスタートさせる事になります。

先にも述べた様に、蜀は夷陵の戦いで呉に大敗したのにも関わらず、軍事行動を起こさる辺りは諸葛亮の手腕の高さと言ってもよいでしょう。

話を進めますが、南征により孟獲を屈服させる事に成功し、南の地域の安定をもたらす事に成功します。

さらに、南蛮の利益を得られる事になり、国庫も充実した事でしょう。

この資金を背景に、諸葛亮は北伐の軍を起こす事にしたわけです。

北伐の少し前に、魏の孟達を蜀に寝返らせる事に成功しています。

孟達は、元々は劉璋配下であり、劉備の入蜀後に家来になった人物です。

しかし、漢中を守る劉封関羽の件もあり、折り合いが悪くなり魏に寝返ってしまいました。

魏の皇帝である曹丕は、孟達を優遇しますが、曹丕が亡くなると、魏では風当たりが強まり孟達の居場所がなくなってきてしまったわけです。

孟達に目を付けた諸葛亮が、蜀に寝返らせる様に仕向け、さらに情報を魏に漏らした事で、孟達は蜀に寝返るしか道がなくなってしまいます。

孟達は、挙兵しますが、魏の将軍である司馬懿が電光石火の攻撃を掛けています。

司馬懿は短期決戦を望み、犠牲を恐れずに強行軍を出し、上庸の孟達を斬ってしまうわけです。

これに対して、諸葛亮は援軍を送る事も出来ずに、後手に回り北伐での最初の躓きとなりました。

しかし、この時に諸葛亮が迅速に孟達に援軍を送る事が出来て、さらに孟達も守備をさっさと固めれば対処出来た可能性もあります。

ただし、斬られたとは言え上庸の孟達を寝返らせる事に成功しているのは、幸運に思えてなりません。

石亭の戦いで陸遜が大功を挙げる

諸葛亮は、北伐を決行するにあたり、呉にも援軍要請をしています。

援軍要請と言っても、同じ戦場で戦うわけではなく、魏の注意を引きつけてくれるのが狙いです。

三国志の勢力バランスで言えば、魏7、呉2、蜀1とも言われています。

これを見ると分かりますが、魏が圧倒的な戦力を保持していて、蜀とは国力で大きな開きがあります。

北伐を成功させるためには、魏の兵力の分散が必要でしょう。

北伐をするにあたって、呉との協力は必要不可欠と言えます。

ただし、呉も魏を攻める時は、蜀と連動して攻めたりしていますが、形だけの出陣になる事もあったわけです。

同盟国の依頼と言う事で、形だけ魏を攻撃する素振りを見せますが、大して戦う気もなかった事もあります。

しかし、諸葛亮の第一次北伐の時ですが、呉は自領内に魏の曹休をおびき寄せて大勝しています。

呉の周魴は、偽りの降伏を曹休に出して、呉の領内におびき寄せています。

曹休はこれに引っ掛かり、呉の領内に進攻しますが、陸遜に大敗しました。

北伐に連動した呉が魏に勝利すると言うのは、諸葛亮にしてみれば、大変に喜ばしい事だったはずです。

ただし、この時に呉は魏を石亭の戦いで破りはしましたが、魏の領内には侵攻しなかったと言われています。

そのため、呉が魏を破りさっさと撤退したのは、心配要素でもありました。

尚、曹休の後任には、満寵が選ばれますが、後に呉は満寵に苦杯を嘗めさせられています。

魏は蜀を舐めていた?

当時の魏ですが、蜀を舐めていた話があります。

魏が恐れる蜀の将軍は、劉備と関羽だけで、他の将軍は取るに足らないと感じていた風潮もあったとされています。

第一次北伐の時には、劉備も関羽も死んでいるわけです。

さらに、魏の名将である夏侯淵を破った黄忠もいませんし、馬超も既に死んでいます。

これらを考えれば、国も小さいですし、魏の首脳陣は蜀を舐めていた部分もあったのでしょう。

他にも、武略に欠けると称される夏侯楙を、長安に守備の責任者にしているのも、舐めた行動の一つなのかも知れません。

魏は西部に不安を抱えていた

魏ですが、西部に不安があったようです。

諸葛亮は、第一次北伐において祁山を攻めたわけですが、この時に魏の西方にある天水、安定、南安の三郡が蜀に寝返っています。

さらに、西方の羌族などは、どちらについてもおかしくは無かったのでしょう。

実際に、羌族の一部である西羌は蜀に味方したとされています。

これを考えると、蜀軍が魏に対して、優勢に戦いを進めたりすれば、西方で魏を離れる勢力も十分にいた事が考えられます。

尚、当時の涼州刺史には、司馬徽の元で諸葛亮や徐庶向朗らと学問を行い龐統とも親交があったとされる孟健でした。

孟建と諸葛亮は、親友だった話もあり、危険視されたのか、孟建は涼州刺史を解任されています。

代わりに涼州刺史になったのは、徐邈という人物です。

孟建は、解任されてしまいましたが、涼州周辺は魏には不安要素だった事でしょう。

魏が天災に悩まされる

第一次北伐の時の魏ですが、領地内で旱魃や季節外れの水害があり、民が苦しんだ記録があります。

水害があれば、新しい灌漑工事をしなければいけませんし、自然災害による資金の流出があったとされています。

他にも、曹叡が宮殿を増築するなどもあったようで、軍資金に回す費用が比較的抑えられていた話があります。

ただし、元々魏と蜀の国力は差が大幅にありますので、自然の天災や土木工事だけでは、魏との国力を覆す事は出来なかったでしょう。

もちろん、諸葛亮もそこは分かっていたはずです。

この様に、完全優位な状態ではありませんが、比較的運がある状態で諸葛亮は第一次北伐を行っています。

出師の表を提出する

第一次北伐の前に諸葛亮は、出師の表を劉禅に提出しています。

出師の表の中には、自分や家臣たちは、先帝(劉備)に大恩があり、努めていると言う事。

劉禅に政治に関しては、公正である事や感情で法を曲げてはいけない事などを述べているわけです。

さらに、賢臣として郭攸之、費禕、董允、陳震、蒋琬、向寵などを挙げています。

他にも、自分(諸葛亮)が、荊州で劉備と会った事や、夷陵の戦いでの敗戦や劉備の死についても書かれています。

そして、魏を滅ぼす事や洛陽を復興させる事への、決意を劉禅に述べたわけです。

これが出師の表であり、文言に感動する人も多くいます。

第一次北伐の前に、諸葛亮は不退転の決意表明を劉禅に行っています。

第一次北伐を開始する

第一次北伐ですが、諸葛亮と馬謖で戦略を考えたようです。

そこに、魏延が長安急襲策を進言します。

長安は、魏の主要都市ではありますが、武略に欠けると称された夏侯楙が守備していた事で、隙があり敵の不意を衝く事が出来ると考えたのでしょう。

しかし、諸葛亮は確実に成果を上げたいと思ったようで、魏延の案を却下しました。

国力で言えば、蜀は大幅に魏に劣っているわけです。

国力も兵力も少ない蜀が魏に勝つとしたら、魏の兵力を分散させる事が肝要と考えたのでしょう。

先に述べたように、孫権に魏を攻撃するように依頼して起きたのが、石亭の戦いだったはずです。

さらに、諸葛亮は蜀軍も使い魏の兵力の分散を図っています。

諸葛亮の戦略で言えば、小さな軍を囮にして、敵の大軍を引きつけておき、自らが率いる大軍を使い、敵の小さな軍を破り領土を取る戦略だったのでしょう。

蜀軍は、趙雲鄧芝の斜谷道方面、諸葛亮本隊の祁山方面、馬謖率いる街亭方面に、3つの部隊を編成しています。

趙雲と鄧芝に情報漏洩があったのか?

諸葛亮は、魏に対して斜谷道から進撃して郿を奪うと流言を放っています。

偽情報を魏に流す事で、斜谷道の守備を固めさせて、その間に諸葛亮が率いる蜀の本隊は、祁山を奪う戦略です。

諸葛亮は、趙雲と鄧芝に命じて斜谷道に向かわせています。

もちろん、趙雲と鄧芝は、囮(おとり)であり、魏の大軍を引き付けておくのが仕事です。

正史三国志に、趙雲・鄧芝の軍と、魏の曹真の軍が戦闘になった記録があります。

それによると、趙雲らの軍の方が兵士の数は、曹真の軍よりも多かったと記載があります。

ただし、曹真の軍は数は少なかったが、強兵であったと書かれています。

逆に、趙雲・鄧芝の軍は数は多かったが、弱兵だったと伝えられています。

本来であれば、魏の大軍に対して、蜀の趙雲らの軍勢は少なく、兵力差であれば負けていなければいけません。

囮なので、敵の大軍を引き付ける役目だからです。

それにも関わらず、囮であるはずの、趙雲らの軍の方が人数が多い事になっています。

もしかしてですが、蜀軍の方に情報漏洩があり作戦が、曹真に漏れていた可能性もあります。

そのため魏の司令官である曹真は、敵が囮であり弱い兵士ばかりを集めている事から、烏合の衆だと考えて、魏の精鋭の一部をいきなりぶつけた可能性があります。

そういう事情もあり趙雲らの方が、兵士が多い状態になってしまったのかも知れません。

尚、ここで趙雲と鄧芝は敗北はしますが、殿(しんがり)が上手く大敗には至りませんでした。

ただし、結果論で言えば囮になったとは言えませんし、戦いにも敗れています。

元々が囮なので、ある程度、戦いに負けるのは仕方がない事だと思われます。

趙雲らは戦いに勝つ事は、期待されていなかったはずです。

それにも関わらず、戦後に趙雲らが責任を取らされて降格しているのは、情報漏洩があり曹真に作戦を見破られてしまった為なのかも知れません。

ただし、情報漏洩が本当にあったのかは、史書にはありませんし、不明な部分も多いです。

諸葛亮が祁山を攻める

諸葛亮は第一次北伐では、祁山を攻めています。

祁山と言うのは、戦略上の重要な拠点になっていて、その後も諸葛亮は北伐を行うたびに祁山に軍を進めています。

第一次北伐ですが、祁山に攻撃を掛けると、先にも述べたように天水ら三郡が蜀に寝返っています。

ただし、游楚(ゆうそ)はこの時に隴西に留まってしっかりと守備をしました。

游楚は部下に対して次のように言ったとされています。

「援軍を待ち、ここを死守すれば恩賞を与えよう。城が危うくなったら自分の首を差し出して降伏せよ」

この言葉により隴西は、一致団結して蜀軍の侵攻を防いだわけです。

蜀軍が攻めてくると、游楚は蜀軍に対して「援軍が絶対に来ない状態になれば、この城は必ず落ちる」と言います。

これを聞いた蜀軍の兵士は、隴西を去ったと言います。

游楚の言葉が的を得ていると考えたのでしょう。

尚、游楚は第一次北伐において、最後まで降伏する事はありませんでした。

その功を魏の皇帝である、曹叡から称えられて出世しています。

街亭の戦いで馬謖が敗戦する

街亭の戦いで馬謖は、大敗してしまうわけです。

これが第一次北伐を失敗に終わらせた、最大の要因と考える人が多いです。

馬謖が山登りをした事で敗北が決したわけですが、その他の要因について、ここでは述べたいと思います。

先に、趙雲らの囮の軍が曹真に敗れた話をしました。

諸葛亮の戦略構想では、趙雲と鄧芝が魏の大軍を引き付ける事で、馬謖は少ない軍勢の魏軍と戦う予定だったはずです。

しかし、斜谷道方面では、趙雲らよりも曹真の軍勢の方が少なかった記述があり、囮としての役目を成していない事が分かります。

街亭の戦いの兵力差ですが、イマイチはっきりしなくて分かっていません。

魏の方が総兵力であれば、蜀よりも多かったはずであり、馬謖と張郃の兵力差を考えれば、張郃の方が遥かに多かった可能性も十分にあるでしょう。

漢晋春秋では、蜀の方が圧倒的に大軍だったような事も書かれていますが、疑問点もあるわけです。

実際に三国志の時代に関しては、兵数が分かっていなかったり、誇張して書かれている事も多いです。

普通で考えれば、呉に石亭の戦いで兵士を割いたりしても、魏の方が兵数は多かったと考えるのが妥当です。

曹真は、趙雲らを少数の兵士で破っているわけで、蜀軍の囮作戦を見破っていた可能性が高いと言えます。

残りの兵士を張郃に預けてしまった、可能性も十分にあると思われます。

尚、第一次北伐で涼州の三郡が蜀になびいた事に危機を覚えた曹叡が自ら長安に駆けつけている事を考えれば、兵士の数が少ないと言う事はまず考えられないはずです。

馬謖は街亭の戦いで、大軍の張郃率いる魏軍と、戦わなければならない状態になってしまった可能性もあります。

張郃伝の記述に、「馬謖は麓にあった砦に立て籠らずに南山に登った」という記述があります。

それを考えると、馬謖は魏の大軍を見て砦に立て籠っていては、魏の大軍を破る事は出来ないと考えて、一か八かで山を頼りにして陣を張った可能性があります。

兵法書でいう高地を占拠すれば、低地に占拠した敵よりも有利だという事例に従ったのでしょう。

諸葛亮は山に布陣してはいけない様な事も言ったともされていますが、敵が予想以上の大軍だった事から独自判断で馬謖は山に籠ったのかも知れません。

勿論、蜀軍の副将である王平は反対しますが、馬謖が独自判断で行ったのでしょう。

結局は、多くの方がご存知の様に、馬謖は水源を絶たれて大敗北を喫してしまったわけです。

蜀軍の撤退

街亭において馬謖は大敗北を喫してしまったわけです。

張郃が諸葛亮の本隊に、迫ってくる事になります。

今度は、諸葛亮と張郃が戦う事も考えられる状況でもあったのでしょう。

しかし、諸葛亮の元に曹真が箕谷から攻めてくる情報が入ってきます。

こうなると後方を閉じられてしまう可能性もありますし、諸葛亮の本隊が挟み撃ちになってしまい撃退される可能性もあったはずです。

これを恐れた諸葛亮は全軍撤退を命じています。

魏の郭淮は蜀将である高翔を破り、蜀に与していた羌族などにも勝利を収めています。

南安郡も涼州刺史に任命された徐邈により平定されています

このように蜀に寝返った勢力を魏は各個撃破しました。

勿論、諸葛亮には天水、南安、安定の三郡を救うだけの力がなく撤退しているわけです。

蜀に寝返った勢力を、見捨てる事になってしまいました。

馬謖が予想以上に早く敗れてしまった為に、諸葛亮が祁山を落とす事が出来なかったのも大きいと言えます。

諸葛亮の苦し紛れの行動

諸葛亮の第一次北伐は完全に失敗に終わったわけです。

しかし、諸葛亮としては、出師の表により決意表明した劉禅に対して、「何の戦果を挙げる事も出来ずに帰りました」という訳にも行かなかったのでしょう。

ここにおいて、諸葛亮は苦し紛れとも取れる行動を実行しています。

撤退の最中にいた、住民の千家ほどを漢中に拉致してしまったと伝わっています。

これを戦果として、劉禅に対して報告するつもりだったのでしょう。

ただし、住民を拉致して漢中に移住させても、蜀の兵士が戦死した事や軍費を使ってしまった事を考えると、とても割に合うとは言えないはずです。

戦争と言うのは、膨大な戦費も掛かるために、ただ単に「戦果を挙げる事が出来ませんでした」では済まなかったのでしょう。

諸葛亮の住民拉致に関しては、どうしても苦し紛れの策に思えてしまうわけです。

さらに、諸葛亮は敗戦の責任が馬謖にあるとして、馬謖を斬っています。

これが「泣いて馬謖を斬る」の故事にあたります。

諸葛亮の第一次北伐の全体像を見ると、馬謖に責任を押し付けたようにしか見えなくもないです。

尚、泣いて馬謖を斬るに関しては、様々な説もあり、そちらは別記事で詳しく解説してあります。

第一次北伐の失敗で天下統一は消えたのか?

蜀が天下を取れなかった理由ですが、第一次北伐の失敗が大きかったと指摘する人がいます。

これについては、自分もそのように考えています。

第一次北伐の時に、魏の西方が蜀に味方したにも関わらず、敗れてしまったのも大きいでしょう。

第一次北伐で破れてしまった事で、次に蜀が攻めて来たとしても、西方の人達が味方してくれる可能性は低かったはずです。

さらに、229年に大月氏国王の波調が魏から冊封を受けています。

これは、西方の国が魏に忠誠を誓った証でもあり、魏による西方の安定を指す出来事です。

諸葛亮が北伐をしても、それらの国々が直ぐに味方してくれる可能性は限りなく減ってしまいました。

さらに、上庸の孟達の斬られてしまいましたし、これにより後の北伐を難しくした事は間違いないでしょう。

人によっては、姜維を得た事が最大の収穫だと言う人もいますが、諸葛亮死後に連年のように兵を率いて国を消耗させてしまった事を考えれば、完全な利益とは言えないのかも知れません。

尚、諸葛亮は第一次北伐の失敗にめげずに、陳倉の郝昭を攻めたりしていますが、結局は上手く行きませんでした。

最後は、過労が祟ったのか魏の司馬懿と五丈原の戦いで、対峙している最中に死亡しています。

北伐とは成功するものなのか?

諸葛亮の北伐に関しては、結果論でみれば全て失敗に終わっています。

多くの人が北伐は、魏との国力があり過ぎるし、諸葛亮も兵站に苦しんでいる事から「最初から無理だった」という意見も多いです。

中国の歴史を見ると北伐と言うのは、大変難しい事は歴史が証明しています。

私が知っている中で、北伐が成功した例は明の朱元璋くらいしか思い浮かびません。

朱元璋は、モンゴル帝国の元の勢力を、北に追い払った人物です。

ただし、朱元璋は本拠地を南京に置いています。

南京は三国志の時代は、呉の首都であった建業です。

三国志の時代の後の南北朝時代に、南朝の宋の劉裕が北伐して洛陽や長安を奪還した事はありました。

しかし、それらは一時的なものであり、天下統一までは進行していません。

蜀の地で、皇帝になったり名乗った人物は、歴史上で何人もいますが、天下統一が出来た人物は一人もいない状態です。

それを考えれば、中国という国において北伐と言うのが、如何に難しいのか?と言うのが分かるかと思います。

諸葛亮は無謀な戦いをしていた可能性もあるでしょう。

ただし、蜀の武将や諸葛亮の戦略が上手く機能していれば、北伐は成功していた可能性もあります。

尚、諸葛亮は北伐を長く続けるわけですが、民衆や将兵をまとめる能力に秀でていたのか、蜀の国が乱れた形跡もありません。

それを考えれば諸葛亮は内政においては卓越した手腕を持っていたと言えるでしょう。

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