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関羽は死んで当然だと思った件!【威張られたい奴はいない】

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こんな事を言ったら三国志ファンに怒られそうなのですが、【関羽は死んで当然だと思った】ので書いてみたいと思います。

もちろん、私は関羽は三国志でも人気のキャラクターですし、死後には神様として祀られている事も知っています。

しかし、関羽の荊州を任されてからの行動を見ると、「これは死んで当然かな」と思ったので書き記しておきます。

性格的な問題を抱えていた事は間違いないでしょう。

「威張られたい奴はいない」とも私は思いました。

 

 

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関羽は独立を考えていたのか?

これを言うと、トンデモ説だ!と思われてしまうかも知れませんが、実際に関羽独立説はあります。

つまり、関羽は荊州を拠点として、独自の勢力を作り出そうとした説です。

劉備の配下から独立して群雄になろうとした説です。

というのは、関羽率いる荊州軍は樊城にいる曹仁を北上して攻めたわけです。

この時に、劉備と連携して攻めているようには見えません。

劉備に援軍を頼むシーンもありますが、上庸にいる劉封や孟達に断られています。

劉備軍の連携が余りにも悪いようの思うわけです。

確かに、劉備は関羽が北上する前に、夏侯淵を破り漢中を手にしています。

そして、漢中奪還を曹操が狙い曹操を長安にくぎ付けにする効果はあるかも知れませんが、援軍を送る事は出来ていません。

さらに、関羽は魏の領内に向かって印綬をばら撒いた記述が関羽伝にあります。

印綬をばら撒くという行為は、主君である劉備がやるなら分かりますが、関羽がやっても問題ないのでしょうか?

これを考えると、関羽独立説があっても良いような気もするわけです。

実際のところは関羽に聞いてみないとわからないんですけどw

しかし、関羽の最後の奮戦の所を見る限りでは劉備との連携が非常に悪く感じます。

諸葛亮は一体何をしていたんだろう・・・とも考えてしまうわけです。

 

 

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魏を攻めるのに呉と仲良くしようとしない

関羽は北上して魏を攻めるにも関わらず、孫権と仲良くしようとしません。

その当時の状況で言えば、劉備は曹操から漢中を奪い取りました。

曹操は漢中の奪還を目指して長安に留まっている状態です。

ここで孫権に魏の合肥辺りを攻めてもらえば、魏の兵力も分散されますし有利に事を進める事でしょう。

これは劉備にも言える事ですが、漢中王を劉備が名乗った事で孫権をかなり刺激したと思われます。

呂蒙は孫権に魏と結び荊州を奪い取る事を進言するわけですが、孫権を敵にするのか味方にするのかで、戦況はかなり変わって来るでしょう。

しかし、劉備や関羽が孫権を軽視しているように思います。

赤壁の戦いで勝利に貢献した周瑜と魯粛がいない呉は敵じゃないと思っていたのでしょうか?

この辺りは、謎の部分もありますが、呉を軽視している姿が思い浮かびます。

 

関連記事:【呉下の阿蒙に非ず】呂蒙が武将から知将に覚醒する

関連記事:魯粛と関羽の会談【勝ち過ぎはよくない】と言う事

 

孫権との縁談の断り方が酷い

孫権は関羽に縁談の話しを持ちかけています。

しかし、関羽は断っています。

三国志演義のように「虎の娘を犬の子にやれるか」と言ったかは分かりませんが、断った事は間違いありません。

それで孫権が関羽に関して悪感情を抱いたのではないかと思います。

ただし、孫権の方も縁談を持ち掛けたのは関羽を油断させるための罠だったのかも知れません。

西周王朝末期と春秋戦国時代初期に活躍した鄭の武公は自分の娘を胡(国名)に嫁がせておいて、突如として胡を攻めて滅ぼしています。

同じように、趙襄子は自分の姉を代王に嫁がせておいて、隙を突いて代を攻撃して滅ぼしているのです。

歴史は繰り返すと言いますが、同じことを孫権が考えた可能性はあります。

当時の劉備は漢中王に即位しましたが、後漢の献帝が直接任命したわけではないので、僭称とも言えるわけです。

袁術と似たような事を劉備がしたとみて世間は、孫権が非道な事をしても許すと踏んでいたのかも知れません。

深層は分かりませんが、孫権は関羽に対して、荊州から駆逐してやろうと考えていたと思われます。

 

 

関羽は性格に問題を抱えていた

関羽は非常にプライドが高い性格として有名です。

劉備が蜀を漢中王となると前後左右将軍を置きます。

関羽、張飛、馬超、黄忠を任命しようとしますが、関羽は黄忠と同格になるのを嫌がります。

老いぼれと同格になるのは嫌だという訳です。

結局、費詩が関羽を巧みに説得する事で収まりましたが、関羽のプライドの高さを表すエピソードになりました。

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さらに、馬超が劉備陣営に加わると、関羽が馬超の事を確認するための手紙を諸葛亮に出しています。

諸葛亮は馬超と張飛は同じ位であるが、髭殿(関羽)には及ばないと返信をしているのです。

この手紙を関羽は客に見せるなりかなり自慢していたようです。

関羽の性格が分かる気がしますし、諸葛亮や蜀の中枢の人達も関羽に対して、非常に気を使っているのが分かります。

ここまで行くと周りの人間にしてみれば老害になっているような気すらします。

関羽は仕事は出来ますが、傲慢になったり「めんどくさい性格」でもあるわけです。

正史三国志には、兵士には優しいが士大夫には傲慢だと書かれています。

 

部下の使い方を誤る

関羽は自分が北上して曹仁が守備する樊城を攻める時に、荊州の守りとして江陵に糜芳、公安に士仁(関羽伝だと傅士仁)に守らせています。

関羽は先のお話したように、傲慢なところや尊大な性格があるため、士仁も糜芳も関羽を嫌っていました。

さらに、関羽は糜芳士仁に対して兵士をもっと送るように要請してきます。

この時ですが、士仁糜芳は関羽に対して兵を送れない状況にあったようです。

つまり、これ以上の兵士を送ってしまうと、江陵や公安で万が一の時に対応が出来なくなってしまうからです。

これを考えて、糜芳や士仁は兵士は送らずに武器だけを輸送しました。

しかし、この行動に関羽が激怒するわけです。

そして、「荊州に帰ったら処罰してやる」と言ったとされています。

関羽としてみれば、激怒した事が糜芳や士仁の耳に入れば援軍を送ると考えたのかも知れません。

しかし、関羽が樊城から戻ってくれば処罰されると思ったのか、士仁糜芳呆気なく虞翻の説得により降伏し城は開城しています。

呂蒙は江陵・公安を占拠した時に、善政を敷き、それが関羽軍の兵士に伝わると次々に兵士も逃亡しています。

関羽は兵士に対して優しいはずなのですが、その兵士に対しても見捨てられてしまったわけです。

さらに、荊州は呉に抑えられてしまったため帰る場所もありませんし、荊州を再び奪還するにも兵士が足りない状態です。

結局、曹仁や徐晃などの魏軍と戦い続ける事も出来ずに、引き返し麦城に一度は籠りますが、孫権に降伏する不利をして逃亡しました。

孫権は伏兵を配置して朱然と潘璋に関羽を捕らえる命令をしています。

最後は潘璋の部下である馬忠が関羽を見事に捕らえています。

その後、孫権により斬られました。

呂蒙が考案した策略にはまり関羽は敗れ去ったわけです。

尚、正史三国志を書いた陳寿は関羽の事を国士として認めつつも自信を持ち過ぎ剛情な性格だと評価しています。

さらに、性格が元で身を滅ぼしたとも書かれていました。

関羽と言えば義に準じた人物と評価される事が多いのですが、実際には性格にかなり難があった事が分かります。

 

年齢的な衰えもあったと思う

関羽は最後の戦いになるちょっと前に、于禁や龐徳を破るなどの活躍を見せています。

荊州に関羽アリという事を知らしめたわけですが、年齢は既に60歳くらいになっていたはずです。

そのため、昔に比べると体力的な衰えもあったのではないでしょうか?

関羽は張飛、呂布などと同じように、個人の武勇を使い戦うタイプの将軍です。

司馬懿や曹操、陸遜などが軍隊を率いる事を得意としていたのに対して、関羽は個人の武芸を背景に戦います。

若い時であれば戦場を駆け巡り大活躍出来たかも知れませんが、60歳になれば流石に筋力や体力の衰えがあるでしょう。

最後に、息子である関平と共に捕らえられて捕虜になったのも年齢の衰えがあったとも感じます。

 

やっぱり関羽は死んで当たり前だったと思う

記事を書きながら思ったのですが、関羽は樊城を攻めた時点で死亡フラグが立ったように思います。

劉備は曹操に負けてばかりいたのですが、黄忠や法正、趙雲、魏延などの活躍もあり漢中を曹操から奪い取りました。

さらに、漢中王になるなど、流れに乗っていたようの思います。

しかし、勢いの便乗してか分かりませんが、関羽が荊州北部を取ろうとした事で、よい流れが遮断されたような気がします。

人間勢いに乗っている時ほど、足元をよく見た方がいいと感じました。

あと、関羽みたいに傲慢になるのは、よくないかなと感じています。

「怒られたい人」はたまにいるようですが、「威張られたい人」はまずいません。

自分を教訓にしたいと思います。

ただし、私は相手に対して、威張られてしまう人ですがw

 

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