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司馬懿仲達は蜀の諸葛孔明のライバルとして有名です。
諸葛亮が何度も北伐を実行しても勝てなかった相手でもあります。
尚、上記の画像はラインスタンプでもお馴染みの横山光輝さんの漫画三国志の司馬懿の名言です。
「待てあわてるな、これは孔明の罠だ」
しかし、司馬懿自身もかなり罠が多い人物でもありますw
今回は、司馬懿の魏に対する行為が悪なのか正当防衛なのか見ていきたいと思います。
尚、司馬懿が魏で起こしたクーデターの事を高平陵の変と呼びます。
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目次
司馬懿が晋を建国する基礎を作り上げる
司馬懿は魏の曹叡が亡くなると曹爽と共に後見役に指名されています。
しかし、曹爽を出し抜き魏の権力を独占しています。
その後、司馬懿の一族が権力を集中する事になり、司馬師・司馬昭などは魏の皇帝をないがしろにしています。
司馬懿の孫の司馬炎は魏の皇帝曹奐から形だけの禅譲を行い晋を建国しました。
これにより魏を完全に乗っ取っています。
司馬懿のやり方を見ると、魏に対する忠誠心がないとか非難される事もあるわけです。
しかし、見方を変えれば正当防衛にも映ります。
司馬懿ですが、曹操は警戒していたのか「人の下に立つ様な人物ではない」と評価していた言葉が残っています。
さらに、司馬懿自身も首が180度周り正面を見たまま真後ろが見れる特技?があったようです。
これに関しては、360度どの方角でも隙を見せないと言う事の現れなのかも知れませんね。
本当に首を360度曲げる事が出来たら凄いと思いますがw
尚、司馬懿はキングダムで李牧と共に王翦と対峙する司馬尚の子孫です。
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司馬懿は演技派です。
もちろん、司馬懿は武将としても絶大な功績を挙げています。
しかし、司馬懿はそれだけでななく、かなりの【したたかさ】を持った武将と言えます。
それが発揮したのが、曹爽との権力争いになった時の事でしょう。
魏では曹操の子である曹丕が後漢の献帝から禅譲されて皇帝となります。
曹丕の子の曹叡の時代になると、司馬懿は蜀の諸葛亮の軍勢を撃退したり、遼東の公孫淵を破るなど大きな武功を挙げています。
曹叡が亡くなると、曹芳(8歳で即位)の後見人として曹爽(曹真の子)と司馬懿が選ばれています。
魏の皇帝である曹芳は年が若く政治を見る事が出来ない状態です
曹爽ははじめ司馬懿と仲良くして行こうとしますが、気が変わり権力を独占しようと考えました。
司馬懿は自分が排除されそうな事に気が付くと、70歳の高齢と病気を理由に引退の申し出をします。
それが認められて司馬懿は隠居する事になりました。
曹爽はこの時点では、絶大な軍功がある司馬懿に対して警戒は緩めていません。
その後、曹爽は李勝という自分の側近に司馬懿を見舞いにやっています。
そこでの司馬懿は「耄碌(もうろく)老人」を装い同じ話を何回も聞いたり、ご飯をポロポロとこぼしたりしたそうです。
曹爽が司馬懿の耄碌ぶりを見ると安心しきってしまい警戒を怠るようになります。
曹爽は用事があり都から出かけた事がありました。
曹爽が都から出ると、司馬懿は突如動き出し軍権を全て手中に収めます。
ただし、郭皇后を抱き込むなどの根回しもちゃんと行っているのです。
曹爽を降伏させる
司馬懿が都で軍権を掌握して曹爽と敵対しますが、曹爽としては、各地の兵を集めて司馬懿打倒に動く事も可能でした。
しかし、司馬懿は曹爽の命を助命する事や富豪である事を保証したりして、降伏させています。
ただし、降伏して曹爽の身柄を拘束してしまうと、司馬懿は謀反を理由に処刑しています。
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曹爽が戦わずに降伏してしまった事で、魏では曹家の勢力が弱まり司馬懿に魏の権力が集中します。
これにより司馬懿が事実上の魏の支配者となり、息子である司馬師、司馬昭も権力を独占しているわけです。
さらに、劉禅を降伏させて蜀を滅ぼしてもいますし、魏を乗っ取り晋を建国しています。
孫の司馬炎の代になると呉を攻めて、孫晧を降伏させて中華を統一しました。
三国志の魏・呉・蜀のどの国も結局は統一する事が出来ずに、結局、中国を統一したのは司馬懿の子孫だったわけです。
司馬懿の行動は悪なのか?
司馬懿の魏を乗っ取ってしまった行動ですが、避難される事もあります。
政敵である曹爽を油断させておいて、自分が実権を握ってしまったからです。
魏に対する忠誠心なども疑問視されるところです。
しかし、これはある意味、仕方がない行動だったのかも知れません。
実力があると疑われてしまうのは世の常です。
司馬懿は謀反を起こさなければ、逆に自分が殺されていた可能性もあるはずです。
漢の高祖劉邦の元で活躍した将軍である韓信は劉邦によって処刑されていますし、蕭何などの疑われて一時は獄門に降っています。
さらに、楚の補給路を断つなどで活躍した彭越も殺されているのです。
春秋戦国時代においても、越王句践は覇者となると功臣である文種を殺しています。魏の信陵君は安釐王に疑われて死んでいます。
秦の白起も昭王に自殺させられています。
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他にも、王様が変わって功臣が殺される例は、楚の呉起、秦の商鞅、呉の伍子胥など数多くいるわけです。
つまり、司馬懿もクーデターを起こさなければ自分がやられていた可能性も高いわけです。
これを考えれば、ボケ老人の振りをして曹爽を排除してクーデターを起こす行為は、正当防衛とも見る事が出来ます。
【やられる前にやった】と言う事です。
決断が遅ければ司馬懿が曹爽にやられていた可能性も十分にあるでしょう。
司馬懿・司馬昭が簒奪したやり方を知った東晋明帝の発言が重い
司馬懿の孫の代で司馬炎が呉を滅ぼして中華を統一するわけですが、司馬炎は統一後はすっかりとだらしがない皇帝になってしまいます。
そして、2代目皇帝である恵帝の時代に八王の乱が起きてしまうわけです。
これには、周辺の異民族も巻き込んでしまった為に大乱となり中国の北方は大混乱となります。
中国は五胡十六国の時代や南北朝時代に突入していきます。
呉を滅ぼして中国は統一されて、平和になったはずだったのに長くは続かなかったのです。
晋は皇族により殺し合いが行われていきますし、皇帝である恵帝も殺されてしまいます。
生き残った皇族の一人である司馬睿は南の建業で即位して皇帝となります。
東晋の元帝です。
しかし、元帝の皇帝としての権力は高くはありませんでした。
そして、元帝の次に皇帝となったのが明帝(司馬紹)です。
司馬紹の司馬懿や司馬昭が魏を乗っ取ったやり方に関しての言葉が残っています。
「こんなやり方では、王朝を長く続かせる事なんて出来るはずがない」
つまり、司馬懿が起こしたクーデーターや司馬昭が魏の皇帝である曹芳を廃位にしたり、傀儡皇帝である曹髦を殺害したやり方を非難しているわけです。
魏の皇帝をないがしろにするやり方に落胆したのでしょう。
この言葉も一理あるかなと思います。
司馬懿としては、「やらなきゃ、やられていた!俺は司馬一族の為を思って立ち上がったんだよ!文句を言われる筋合いはない」という感じなのかも知れません。
もしかして、東晋の司馬紹はあの世で司馬懿に会った時に説教された可能性もあるでしょうw
私は司馬懿の行動は評価もしませんが、絶賛もしないようにしています。
優柔不断な回答で申し訳ない・・・。