三国志・キングダム・春秋戦国時代などの歴史を紹介します。

三国志・キングダム「春秋戦国時代」と日本の政治経済【俺の歴史書】

キングダム コラム

王翦は春秋戦国時代の最後の名将!

更新日:

王翦を紹介したいと思います。

ちなみに、キングダムの王翦は仮面をつけていて怖い感じの将軍です。

しかし、実際の王翦は保身も上手く臨機応変に立ち回る事ができる人です。

王翦はキングダムでは既に、魏との戦いでは大活躍していますし、函谷関の防衛に関しても活躍しました。

廉頗からは、「六将筆頭・白起に匹敵するやもしれぬ」と言われるほどの軍事能力を評価されています。

白起と同等の実力と評価されて一まとめにしたのかも知れません。

尚、余談ではありますが、史記には「白起・王翦列伝」という列伝があり白起と共に紹介されています。

秦以外の国は、名将が死んでしまうと、次に名将と呼ばれる人物が中々出ませんが、秦に関しては白起が死んだ後も、数年で王翦が出てきたのはやっぱり天下統一に向けた勢いを感じます。

尚、白起・王翦列伝には、キングダム主人公である李信も登場します。しかし、蒙恬と一緒に20万の軍勢で楚を攻めたけど、大敗してしまうなど見せ場は余りありません。

それに比べると、王翦は戦いに全然負けませんし、名将の貫禄があります。

キングダムの王翦の言葉で、「私は”絶対に勝つ戦い”以外興味はない」と言っています。

その言葉どおり、生涯に渡って不敗だった可能性もあります。

キングダムの世界で言えば、李牧と1,2を争う名将です。

 

王翦の史実での実績

王翦の史実での実績を紹介しますが、王翦が歴史の舞台に登場するのは、趙を攻めて9城を落とした時です。

しかし、それよりも前に、魏との戦いや合従軍との函谷関の戦いにも、参加していたのではないかと思われます。

どの程度、活躍したかについては、記録が残っていません。

しかし、ある程度の実績を挙げたので、鄴攻め(ぎょうぜめ)の時は総大将に任命されたのではないでしょうか?

この鄴攻めは、昌平君も言う通り秦にとって非常に重要な戦いでした。

下記の図を参照してください。

(手書きの下手な図で申し訳ないです汗)

漳水沿岸の城を落とし鄴を陥落させる事が出来れば、②の大太山脈よりも西の趙の領土は、孤立してしまい、趙の国力を半減できるからです。

さらに、史実では閼与や周辺の城も落とした事により、趙の領土は全盛期である武霊王の時代の3分の1にまでなってしまいます。

尚、閼与の城は、秦の六大将軍である胡傷が趙の三大天・趙奢に敗れた因縁の地でもあります。

閼与を落とした事は、秦にとっては趙滅亡への躍進と言えるでしょう。

この時に、桓騎や楊端和などの活躍もかなりありました。

漳水沿岸の城の城は、平陽残るのですが、ここも桓騎が城を落としています。

桓騎は、趙将である扈輒(王都の守護神??)を討ち取り10万人を斬首しました。

ここにおいて、漳水沿岸の城は秦のものとなります。

尚、この戦いは史実においても、変わった戦いで、王翦の軍は史実でも軍を小さくして精鋭だけの軍にしています。

現在のキングダムでは、鄴攻めをやっているわけですが、この戦いに李牧が出てきたという記録(史実)は残念ながらありません。

しかし、現在の漫画では李牧と王翦が名勝負を繰り広げています。

史実の李牧が秦軍相手に大活躍するのは、鄴の城を奪われてからです。

尚、韓非子という書物がありますが、それによると龐煖(ほうけん)はこの時に、北方の燕を征伐に行き、秦に攻め込まれたと言う事で、急いで鄴の救援に向かったが間に合わなかった記述があります。

これが龐煖(ほうけん)の史実での最後の記録になるので、キングダムではもしかして、鄴(ぎょう)攻めの最後に龐煖が現れて何かしらやるかもしれません。

あと、キングダムでは趙国最後の三大天?とも言える司馬尚が登場しましたね。

尚、鄴攻めのところでもう一つ注目したいのが、この戦いの年に悼襄王は亡くなっています。

そのため、漫画では李牧は戦えたけど、死期が近くなった悼襄王から撤退命令を出されて、結局は鄴を秦軍に抜かれてしまったという終わりにする可能性もあるでしょう。

ここからの展開は、作者の原泰久さんの漫画を楽しみにしたいところです。

 

趙・燕・魏を滅亡させる

史実では、鄴を陥落させた後に、李牧が秦軍と戦う事になります。

李牧が相手だと、王翦も簡単には勝てません。

実際に、桓騎も李牧に大敗して燕の逃亡するなどしていますし、他の秦の将軍が趙を攻めても李牧の相手にはなりませんでした。

そこで、秦はいったん趙を攻めるのをやめて、矛先を韓に変えます。

韓はこの時に、すでに国としての戦力はガタガタですし、韓非子などは、秦で始皇帝に重用されそうになりましたが、結局は秦で殺されています(李斯の陰謀説もある)。

そして、内史騰(内史は役職と思われる)が韓の首都である新鄭に攻め込み陥落させて、韓を完全に滅ぼしました。

韓を滅ぼした後に、秦は再び趙をターゲットにします。

王翦・羌瘣・楊端和と共に趙を攻めます。

しかし、王翦は手堅い戦い方をする人で、相手が名将李牧であれば迂闊に動くことが出来ません。

実際に、桓騎あたりは迂闊に動いてしまったので、緻密な戦い方をする李牧に敗れたのではないでしょうか?

史実の李牧は情報戦をかなり活用していますし、王翦も同様のタイプなので動けなかったのでしょう。史実だと李斯が趙の佞臣である郭開を大金で買収して、趙王(幽穆王)に李牧を処刑させています。

そして、李牧が死に、司馬尚は更迭されて庶民に落とされてしまい、代わりの将軍に趙葱と顔聚がなるわけですが、こちらは組みしやすいと考えて3か月後には邯鄲を落城させています。

この時に、元の太子である趙嘉は、代に逃げのびて代王となり趙はかろうじて生き残っています。

その後、燕から荊軻が刺客として送られてくると、秦王政は燕を攻撃の対象とします。

燕の都を王翦は陥落させて、遼東に逃亡した燕王喜を捕虜として、燕の太子丹は李信が討ち取ったとも言われています。

さらに、王翦の子である王賁は代を攻め滅ぼし、魏の都である大梁を水攻めして魏王仮を降伏させています。

この時点で、中国で残っている国は、秦、楚、斉の3国だけになっていました。

斉は既に、秦と戦う気はないので、後は楚を倒せば天下統一は確実な状態です。

尚、キングダムでは斉王建と秦王政の間で密約が交わされています。

 

解任されるが再び将軍となる

秦王政は、李信に楚を滅ぼすのは何万の軍勢がいるか聞いてみました。

そこで李信は「20万あれば十分」と言いました。

同じ質問を王翦にすると「60万は必要」と言ったそうです。

秦王政は、李信を将軍として、蒙恬と2人で20万の軍勢で楚を攻める事にしました。

この時に、王翦は引退を申し出ましたが、秦王政は引き留めなかったとも言われています。

李信と蒙恬は楚の寝丘を攻めて大勝します。

その後、李信と蒙恬は別れて行動し城父で合流する事になりましたが、楚将項燕が李信と蒙恬を撃破します。

そして、項燕は秦に迫る勢いを見せたわけです。

ここに驚いた政は、隠居した王翦に助けを請います。

王翦は断りましたが、政は引きさがりません。

そこで、王翦は「60万の軍勢を用意する」ことを条件に再び将軍になります。

戦地に王翦は向かうわけですが、この時に、王翦は秦王政に5度も使いを出したとされています。

使いの内容は、「良質な地を子孫に残したいから立派な邸宅と土地が欲しい」という内容です。

これに対して、秦王政は笑って「分かった、将軍に不便はさせない」と答えたとされています。

王翦の狙いとしては、秦王政は猜疑心が強いから、このように恩賞目当てで戦っているようにしないと、処罰されるからだそうです。

実際に、有能な将軍などは王様に目をつけられて殺される事が多いです。

李牧、信陵君、大夫種(越の名臣)、呉起、商鞅などは活躍しましたが、最後は王様に疑われて失脚したり処刑されています。

こうならないための手段が、おべっか野郎だと思われる事なのかも知れませんね。

尚、王翦のこの態度に側近が「将軍のおねだりは度が過ぎませんか?」と言ったという記録も残っているほどです。

ただし、キングダムだと王翦はかなりコワモテな雰囲気があります。あの上部に付けてある仮面を取ると、たれ目とかでお笑い系のキャラになってしまうのでしょうか?

それも見たくない気がしますが・・・。

 

項燕と王翦の対決

項燕と王翦はついに対決します。

戦力で言えば、秦軍は60万のいるはずなので、数の上では秦軍の方が多かったかも知れません。

ただし、楚も最終決戦という意気込みがあり国中の兵士を集めたという記述もあるので、兵力の上では互角だった可能性もあります。

王翦は塁を作り上げて兵士には「決して、出撃はするな、塁を守っていればよい」と命令しました。

営塁を築いたわけですが、60万もの軍勢が安全に休める営塁となれば、かなり巨大だったはずです。

楚は攻撃をしたりしましたが、防御が固く突破出来ません。

さらに、王翦は兵士を厚くもてなし、休憩させたり木浴させたり談笑を楽しんだりしていたとされています。

兵士は、その生活を続けていると、営塁の中で遊びまで始めたそうです。

これを見た王翦は「やっと使えるようになった!」と言ったそうです。

この王翦の狙いが分かっていた人はほとんどいなかったのでしょう。

その後、楚の間諜が偵察に来て情報を項燕に伝えると、項燕は秦軍には戦意がないと判断して撤収を始めます。

この時を見定めていたように、王翦は楚軍の追撃を始めたのです。

楚軍は、負けてもいないのに敵に追撃される事になってしまいました。

この状態を項燕は立ち直らせる事が出来ずに、結局、大敗してしまいます。

そして、王翦は楚を滅ぼすための進撃を行い、都を落とし楚王負芻も虜にします。

しかし、ここにきて項燕の方も反撃を始めます。

元秦の相国であった昌平君を担ぎ出して王として楚を復興させようとしたわけです。

しかし、項燕と昌平君の二人は王翦を止める事が出来ずに結局、楚は滅亡しました。

さらに、王翦は軍を東に進め百越の部族も平定したとされています。

ここで中国に残っている国は秦と斉しかありません。

しかし、キングダムでは斉王建と秦王政の間には約束があるので事実上は楚の滅亡を以て秦の統一は確実となったはずです。

尚、史実では李信、蒙恬、王賁で斉に攻め込み天下統一が成し遂げた事になっています。

しかし、斉は抵抗しなかったという話が残っているので、楚の滅亡が戦国時代の終焉とも言えます。

 

項燕と王翦の孫がリターンマッチをしている

秦は天下統一を成し遂げたわけですが、秦王政のやり方が過酷であったために、秦王政が死ぬと各地で反乱が勃発しました。

この反乱軍にいたのが、項燕の子である項梁であり孫の項羽です。

項羽は復興した趙を助けに秦軍と戦うわけですが、この時に秦軍を率いているのが王翦の孫であり王賁の子である王離という将軍です。

始皇帝(政)が死んだ後には、李信や王賁、王翦の名前は出てきませんので、既に亡くなっていたのでしょう。

この時に、秦の正規軍30万を率いて圧倒的な有利な状況にも関わらず、項羽率いる楚軍に敗れています。

この戦いで諸侯は項羽に従うようになりました。

孫の代のリターンマッチでは、王家は項家に敗れているのです。

王翦と王賁が2代続けて名将だったので、3代連続で名将という訳には行かなかったようです。

尚、秦を滅ぼしたのは項燕の孫である項羽です。

ちなみに、項羽は生没年がはっきりとしていて、紀元前232年生まれです。

この時は、まだ王翦がバリバリ現役で活躍していた時期になります。

 

王翦の弱点を司馬遷が指摘

白起・王翦列伝の最後で史記を書いた司馬遷が王翦の弱点を指摘しています。

王翦の弱点は、始皇帝の軍事の師でもあるのに、人民を救うような進言を政にしなかった事だそうです。

つまり、王翦は自分の保身を全うしただけで、秦が長続きするような王朝の体制を作り上げる事は出来なかったと指摘しているのです。

史記の王翦のところでは、王翦の事を高く評価しているように見えますが、最後の評のところに行くと一転して弱点を指摘しているのです。

ちなみに、蒙恬列伝にも似たような指摘がなされています。

どうやら秦という国は、政に対して諫言できる人材はいなかったようです。

司馬遷はさらに、そういう王翦の体質があったから、孫の王離が項羽に捕らわれたのは当たり前の事だとも言っています。

王翦は名将ではありますが、後世に対して子孫を安泰にする事は出来ませんでした。

尚、楚との戦いの後に、かなりよい土地や邸宅を秦王政から貰えたかどうかは定かではありません。

もしかしたら、保身を図って「いらない」と言って断ったかも知れませんね。

しかし、中国の春秋戦国時代の終わりと告げる名将は間違いなく王翦でしょう。

尚、その他のキングダムの記事は下記をお読みください

キングダムの記事

-キングダム, コラム

Copyright© 三国志・キングダム「春秋戦国時代」と日本の政治経済【俺の歴史書】 , 2018 All Rights Reserved Powered by AFFINGER4.