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諸葛亮と言えば、三国志演義においては、超人的な頭脳の持ち主で誰も敵わない様な天才軍師として描かれています。
正史三国志においては、そこまで超人的な能力は備えられていませんが、正史三国志と三国志演義で共通点があります。
それは、最後が過労死だったという事です。
諸葛亮は、人に頼る事が出来ないのか?何でも自分でやってしまう人物だったようです。
五丈原の戦いにおいても、司馬懿は諸葛亮の働きぶりを聞いて、「過労死」を予言しています。
しかし、諸葛亮の若かりし頃を考えると、とても過労死するような働き方を考えている様な人物ではなかったのではないか?と思えて来るわけです。
今回は、諸葛亮の死因とされている過労死する原因などを考えてみました。
結論としては、初心を忘れた働き方をした事が原因なのかな?とも考えています。
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目次
司馬徽の弟子だった頃の諸葛亮
諸葛亮は荊州の司馬徽の弟子をやっていたわけです。
司馬徽の門下生だった時代に、徐庶、龐統、向朗、孟建、石韜などと知り合っています。
この時に、諸葛亮と徐庶の学業に対するやり方の違いなどが正史三国志に記録されています。
徐庶、孟建、石韜などは、学業を奥深くまで追求したとあります。
それに対して、諸葛亮は大要を掴む事を積極的にやり精密に覚える事をしなかったとあるわけです。
諸葛亮は浅く広く学び、精密に勉強をしなかったとされています。
さらに、諸葛亮は徐庶、孟建、石韜に「仕官すれば刺史か郡の太守になれる」と言った話が残っています。
「自分はどうなんだ?」と聞かれると、諸葛亮は笑うばかりで返事をしなかったそうです。
諸葛亮ですが、浅く広く学ぶやり方は、多くの事に精通して、細かい事まで自分は覚える必要はないと考えていたのでしょう。
つまり、将来の事を考えて「政治家となったら大要だけを掴んで指示するようにして、細かい事は官僚にやらせればいい」と考えていたのではないかと思われます。
このやり方を貫いていれば、死因は過労死にならなかったのでは?と思われるわけです。
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諸葛亮が過労死するまで
諸葛亮がどの様にして、過労死していったのか考えてみました。
劉備に仕える
諸葛亮は荊州を支配していた劉表ではなく、客将であった劉備に仕えています。
三顧の礼に関しては、あったとかなかったとか、様々な説があるわけです。
仕え始めた頃の諸葛亮ですが、決断などは劉備がやってくれるために、諸葛亮は意見をするだけでよかったと思われます。
もちろん、曹操が攻めて来た時に、「今、劉琮を攻めれば荊州の全域を支配出来る」と進言したりしていますが、却下されたりもしています。
しかし、最終的な決断は劉備がやってくれるために、過労死するほどの事は無かったでしょう。
さらに、関羽、張飛、趙雲などの猛将と呼ばれる人物がいたのも心強かったはずです。
赤壁の戦いは、孫権・劉備連合軍が周瑜や魯粛の活躍で勝利し、劉備は荊州の一部を孫権から借り受ける事になります。
武官や文官などの人材が揃ってきたわけです。
さらに、周瑜が死んだ後に、龐統が劉備軍に加わった為、軍略に関しては龐統が担当していた節があります。
ここにおいて臥竜鳳雛の二人が劉備陣営に揃う事になったわけです。
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龐統の戦死
劉備は、龐統と共に益州に攻め込みます。
この時に、龐統は流れ矢に当たってしまい戦死してしまうわけです。
後に劉備は劉璋から蜀の地を奪取していますが、龐統を失ってしまったのは大きいでしょう。
龐統は戦死してしまうわけですが、この時は蜀に法正がいて、法正が軍略を担当する事になったようです。
法正が軍略を立てて黄忠の活躍などもあり、劉備は夏侯淵を定軍山の戦いで破り、漢中を手にしました。
この時は蜀は最も人材が充実していて、諸葛亮も国をよく治め兵站を担当していればよかったはずです。
諸葛亮は、正史三国志を書いた陳寿には、春秋戦国時代の名宰相である管仲や、前漢の蕭何の仲間と評される様に、得意分野は政治力であり国をよく治める事であったはずです。
劉備軍が曹操軍を破って漢中を手に入れた時は、後方の備えとしては諸葛亮は最高の人材だった事でしょう。
五虎将の壊滅と法正の死
五虎将軍と言うのは、三国志演義にのみ登場する名前ですが、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の5人を指します。
武力自慢の蜀の5人と言えるでしょう。
しかし、219年に関羽は荊州の軍を率いて北上すると、于禁や龐徳を破る大功を挙げますが、孫権に裏切られて処刑されています。
呉の呂蒙の策により劉備は、関羽が死んだだけではなく荊州も失っているわけです。
さらに、220年には法正と黄忠が亡くなっています。
法正が亡くなってしまった事で、諸葛亮は軍略に関しても担当をしなくてはならなくなってしまいます。
劉備は関羽の仇討ちの為に、呉に攻め込むわけですが、途中で張飛が部下に裏切られてしまい殺害されています。
さらに、222年には馬超も死亡していますし、五虎将軍で残ったのは、趙雲だけとなってしまいます。
長年に渡り戦ってきたベテラン将軍たちの相次ぐ死は、蜀にとっての打撃が大きかったはずですし、諸葛亮に取ってみても痛かったはずです。
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劉備の死
222年に夷陵の戦いが起きますが、劉備は呉の陸遜に破れ大敗してしまいます。
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この時に、軍略の才があった黄権が孤立してしまい、やむなく魏に降ると言う事になってしまいました。
黄権が魏に降ってしまったのは、蜀にとって大きな損害だと言えるはずです。
さらに、劉備も敗北のショックからなのか、223年に白帝城で崩御しています。
この時に、劉備は諸葛亮に後を託しています。
蜀の後継者の劉禅ですが、祭祀などは行ったようですが、政治や軍事の決断は諸葛亮が判断する事になりました。
しかし、決断をしなければならなくなったと言うのは、諸葛亮に取ってみれば大きなストレスとなったはずです。
仕事中毒に陥る
劉備が死んだ辺りから、諸葛亮は仕事中毒に陥ったのではないかと思われます。
劉備がいないわけですから、決断も自分でしなければいけません。
自分の判断一つで、国が滅んでしまうわけですから、プレッシャーはかなりあったはずです。
蜀の全盛期の頃であれば丞相として国内を固めるだけで良かったのかも知れませんが、龐統と法正が死んでしまった事で軍略も担当しなければならなくなります。
さらに、自ら兵士を率いて戦場に行ったりもしているわけです。
前漢に例えると、諸葛亮一人で、劉邦、蕭何、張良、韓信の4役をこなさなくては行けなくなった可能性もあります。
初心を忘れた働き方になっている
国の完全なる責任者となった諸葛亮ですが、この頃になると初心を忘れた働き方をしている事が分かるエピソードがあります。
蜀の楊儀の一族に楊顒(ようぎょう)という人物がいましたが、諸葛亮が自ら帳簿の確認している事を諫められているわけです。
楊顒の言うには、人の仕事をやるのではなく、自分の仕事に専念するように言っているわけです。
諸葛亮が司馬徽の弟子だった頃は、大要を掴んで深くまで追求しない姿勢だったはずです。
これは全体的な判断を自分がして、細かいところは部下に任せればいいと考えていた事でしょう。
それにも関わず、この頃の諸葛亮は既に初心を忘れたかの如く、帳簿の確認までしているわけです。
楊顒に諫められてはいますが、結局は仕事中毒は直らなかったようで、その後も細かいところまで仕事をチェックし続けたのでしょう。
司馬懿に過労死を予言される
諸葛亮は南蛮征伐においては孟獲を降伏させるなど成果を挙げています。
しかし、魏軍との北伐になると成果を挙げる事は出来ませんでした。
もちろん、馬謖が張郃に街亭の戦いで破れるなどもありましたが、魏には最後まで勝てなかったわけです。
諸葛亮は最後に五丈原の戦いで、司馬懿と対峙していましたが、その時の生活の様子は下記のようだったとされています。
朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、20以上の鞭打ちの刑罰については自ら判断している。食事の量は少ない
これを聞いた司馬懿は「諸葛亮は長くはもつまい」と過労死を予言しているわけです。
この後に、諸葛亮は病に倒れて陣中で没してしまいました。
これを見る限り過労死で死んでしまったのでしょう。
尚、後継者には蒋琬と費禕を推薦していますが、二人しか後継者がいないのは寂しくも感じるわけです。
諸葛亮と管仲・楽毅を比べてみると
諸葛亮は若い頃に、自分は管仲や楽毅に自分が匹敵する人物だと言っていた話があります。
管仲と楽毅は春秋戦国時代の人なのですが、仕事態度に関して比較してみました。
管仲は政治だけではなく、軍事にも精通していたらしくオールマイティーな感じがします。
しかし、私生活に関しては贅沢を好んだ話があるので、決して仕事だけの人間ではなかったのでしょう。
さらに、鮑叔と管仲が一緒に商売をした時は、自分の方が貧乏だからと取り分を多くしたりもしています。
これを考えると、適当な部分もかなりあったのではないでしょうか?
楽毅は真面目そうな感じもするわけですが、燕の昭王が亡くなってしまうと、子である恵王とは太子であった頃から、仲が悪かったらしく、さったと燕を捨てて趙に亡命しているわけです。
その後に、楽毅は昭王に対する忠義の手紙を恵王に出しているわけですが、亡命している所を見ると、真面目だけな自分ではなかったように思えます。
それを考えると、諸葛亮は管仲や楽毅と比べてみても、悲壮感が溢れている感じがしますし、真面目人間であったと感じています。
もちろん、状況は違えど、諸葛亮はかなり真面目な感じがするわけです。
マイケル・アイズナーと諸葛亮がダブった
マイケルアイズナーは、日本ではほとんど知られていませんが、ディズニーの元CEOです。
1994年に不慮の事故で財務責任者を失い、さらにその席を巡り対立もあり内部分裂しています。
この時に、マイケルアイズナーは下記の様な事を言っているわけです。
私は今、狂気じみた事をやっている社長はいないし、財務責任者、経理担当者もいない
この時のマイケル・アイズナーは一人で三役を買う羽目になってしまいました。
この一人で三役をやったのは、諸葛亮とダブるような気がしました。
諸葛亮も「劉邦、蕭何、張良、韓信」の一人四役をこなそうとした様に見えますし、自分で狂気じみた事をやっていると感じていた可能性もあるでしょう。
諸葛亮の過労死は他人事ではない!?
諸葛亮の死因は過労死だった説が強いわけですが、これは物語だけの他人事に思うかも知れません。
しかし、現実的に考えてみると、他人事では済まされない部分もある可能性があります。
日本ではブラック企業が問題になっているわけです。
朝早くから夜遅くまで仕事をしているけど、無料残業ばかりでお金になっていない人もいるのではないでしょうか?
現在、過労死ラインの働き方をしている人も、学生時代の頃は「ブラック企業で朝早くから夜遅くまで無料で働きたい」と考えていた人はいないのではないかと思います。
つまり、知らず知らずのうちに諸葛亮の様に、初心を忘れた働き方になっている可能性もあるのではないでしょうか?
もちろん、目の前に仕事が大量にあり休めない状態の人もいるかと思いますが、働き方に関しては1回考えてみた方がよいのかも知れません。
自分も働き方改革をしていきたいと思います。
因みに自分が働き方改革をすると、使えない男が、さらに使えない男になる可能性も高いんですけどねw
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