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三顧の礼は史実ではなかった!諸葛亮から劉備にアプローチ!?

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三国志の名場面で三顧の礼があります。

現代でも使われている言葉で、会社などでヘッドハンティングなどをする時に「三顧の礼」は使われたりします。

意味としては、目上の人物が目下の人物を賢者だと認めて、3回(何度も)説得に訪れる事を指します。

実際に、徐庶が諸葛亮の存在を教えて、劉備は諸葛亮に会いたくなり、3度も諸葛亮の元を訪れた事に由来します。

正史三国志の諸葛亮伝には、その様な事が書かれていますし、北伐を開始する前に、諸葛亮が劉禅に宛てた出師の表の中にも記載があります。

これを考えると、「劉備が三顧の礼を持って諸葛亮を軍師として迎えたんだな~」と思うかも知れません。

しかし、魏略や九州春秋によると、三顧の礼はなく諸葛亮の方から劉備にアプローチを掛けた事になっているわけです。

さらに、劉備は諸葛亮の事を書生扱いして、ちゃんと話を聞こうとしませんでした。

今回は、三顧の礼の内容と、魏略に書かれている諸葛亮の方から劉備にアプローチした話を紹介します。

実際に、三顧の礼があったのかは分かりませんが、諸葛亮が劉備の配下になった事は事実ですし、劉備亡きあとに、諸葛亮が中心となり蜀の政務を行った事は間違いないでしょう。

尚、自分の個人の見解ですが、陳寿が書いた正史三国志の三顧の礼よりも、魏略や九州春秋の話の方が事実に近いのかな?と感じています。

ただし、魏略と正史三国志を合体させた三顧の礼もあり、それも信憑性がある気がしています。

上記の画像は、横山光輝先生の漫画三国志で、吹雪の中を関羽と張飛を連れて諸葛亮に会いに行くシーンです。

諸葛亮に2度目に会いに行った時なのですが、その時も会う事が出来ませんでした。

尚、3度目も会い行くと諸葛亮は寝ていて、怒った張飛が諸葛亮の家に火を付けようとする、放火未遂まであったわけですw

 

関連記事:第一次北伐で諸葛亮が魏に勝てずに失敗に終わった理由

 

 

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通常の三顧の礼のお話し

最初に、通常の三顧の礼がどの様な、お話しなのか紹介します。

これに関しては、多くの人が知っているわけですから、簡略に話をしたいと思います。

劉備は司馬徽(水鏡先生)から、「伏龍鳳雛のうち、一つでも手に入れば天下は取れる」と言われたわけです。

しかし、司馬徽は劉備に伏龍鳳雛(臥龍鳳雛)が、誰なのかは明かしませんでした。

※襄陽記では、司馬徽が伏龍鳳雛は諸葛亮と龐統だと明かしている。

劉備はその後、徐庶を配下にします。

徐庶は、伏龍が諸葛亮だと劉備に伝えます。

劉備は徐庶に、「連れて来てくれ」と言いますが、徐庶は次のように言っています。

「この人(諸葛亮)は、行けば会う事は出来ますが、連れて来る事は出来ません」

劉備は諸葛亮に興味を持っていた為、3回会いに行き、3回目でようやく会う事が出来ました。

諸葛亮は面会をして、劉備は荊州を手に入れて、さらに劉璋を倒し益州を手に入れるべきだと進言します。

呉の孫権とは同盟を結び、天下を三分として治めるように進言したわけです。

これを天下三分の計と言います

劉備と諸葛亮の対談については、対談場所が隆中(地名)だった事もあり「隆中策」とか「隆中対」と呼ばれたりします。

三顧の礼により諸葛亮は、劉備の配下となり行動を共にするようになります。

これが正史三国志や三国志演義の、一般的な三顧の礼となります。

三顧の礼にも何通りか種類があるようですが、大まかに言うと、劉備が諸葛亮の元を3回訪れて、配下になってもらったと言う事です。

劉備の方からお願いをして、諸葛亮に軍師として加わってもらったのが、通常の三顧の礼となります。

 

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魏略や九州春秋だと諸葛亮の方からアプローチしていた?

魏略や九州春秋だと、諸葛亮が劉備に仕える経緯において、三顧の礼は存在していません。

逆に、諸葛亮の方から劉備にアプローチしているわけです。

三国志ファンからして見れば、ガッカリしてしまうかもしれませんですが、三顧の礼以外の諸葛亮が劉備に仕える経緯を解説します。

尚、当時の劉備は劉表の客将のような扱いだったようですが、過去には陶謙の後を継ぎ、徐州牧になったり、袁紹の客将として兵を率いるなど、天下に存在は鳴り響いていたわけです。

さらに、豫州牧、左将軍などの肩書もあります。

こういう背景もあり、諸葛亮は劉備に面会を求めていく話になっています。

 

劉備は諸葛亮を書生扱いしていた

魏略や九州春秋によると、曹操が北の大半を平定してしまうと、次は荊州に戦乱が訪れると諸葛亮は危惧していました。

当時、荊州を治めていたのは、劉表だったわけです。

しかし、劉表では、柔弱で軍事に疎くて話にならないと、諸葛亮は思っていました。

そこで、劉表が住む襄陽の北の新野にいた、劉備に諸葛亮が面会に行きます。

ただし、劉備と諸葛亮はこれまでに、会った事は一度もありません。

魏略には、劉備と諸葛亮が面会したと書かれていますが、文章から見ると大人数の会合に、諸葛亮が参加したみたいです。

ここで諸葛亮も劉備に対して、意見をしたようですが、それまでに会った事もない、若輩者だと言う事で、書生に対する態度で劉備は接したとあります。

諸葛亮の年齢が若いのを見て、適当にあしらったと言う事でしょう。

会合は終わるわけですが、諸葛亮は帰る事をせずに、劉備の所に残ったわけです。

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諸葛亮は帰らなかったわけですが、劉備は諸葛亮を単なる書生だと思っていて、改めて意見を聞こうともしませんでした。

 

諸葛亮が一言で劉備に賢者だと悟らせる

劉備は、軍旗を繋ぎ合わせる牛毛を、繋ぐのが好きだったとされています。

先の会合の時に、劉備に対して牛毛を献上する者がおり、劉備は喜んで繋ぎ合わせていたようです。

諸葛亮は帰らずに残っているわけですが、劉備は全く諸葛亮に興味を示さずに、牛毛を旗に付けるのに夢中になっていました。

ここで諸葛亮が劉備に対して、次のように言ったとされています。

諸葛亮「将軍(劉備)は遠大な志を持っている身なのに、ただ旗飾りを結わえているだけとは」

劉備に対して、諸葛亮は皮肉の一つを言ったわけです。

劉備は、この一言で諸葛亮が凡人でない事を悟り、旗飾りを投げだし、次のように言っています。

劉備「何をいうか、自分はただ憂さ晴らしのためにやっていただけだ」

劉備の苦し紛れの発言のように感じますが、諸葛亮に興味を持つようになったわけです。

相手を1回批判したりして、興味を抱かせるやり方は、春秋戦国時代の范雎、蘇秦、蔡沢もやっているテクニックと言えます。

それを知っていて、諸葛亮の劉備に言ったのかも知れません。

 

諸葛亮と劉備の比較問答

諸葛亮は、劉備が自分に興味を持った事を知ると、次のような問答を行っています。

諸葛亮「劉表と曹公(曹操)を比べてみてどう思われますか?」

劉備「及ばない」

諸葛亮「将軍(劉備)と曹操を比べてどう思いますか?」

劉備「やはり及ばない」

諸葛亮「誰もかれもが曹操に及ばないのに、将軍(劉備)の兵はたかだか数千しかありません。これで曹操と対峙するのは無謀だとは思いませんか?」

劉備「自分もその事を心配している。どうするのが最善であろうか」

諸葛亮は、劉備や劉表が曹操に対して、どれ位の実力を持っているか口に出して、納得させる為に質問をしたのでしょう。

この比較する問答ですが、春秋戦国時代の事を記録した戦国策という書物があり、司空馬が趙の幽穆王に説いた話と似ています。

趙の幽穆王は司空馬の進言を聞きませんでしたが、劉備は諸葛亮の進言に耳を傾けています。

 

兵力の増強策を劉備に説く

ここで先読みして、諸葛亮が劉備に天下三分の計を進言したと思った方もいるかも知れません。

しかし、実際には、次のように語っています。

諸葛亮「現在荊州は人口も少なく、戸籍に載っている者も僅かです。この中から徴兵しようとすれば民は嫌がるでしょう」

諸葛亮「将軍(劉備)は、劉表に話をして戸籍に載っていない人々を全て戸籍に載せる様に進言してください」

諸葛亮「その上で軍勢を増すのが最善の策です」

この様に諸葛亮は、劉備に伝えています。

劉備は、諸葛亮の意見を最もだと感じて、劉表に伝え兵力を増強させる事に成功しています。

戸籍に入っている人だけを徴兵してしまうと、戸籍に入っているだけ損と民は感じてしまうはずです。

しかし、全員を戸籍に入れてしまい徴兵すれば、不満は少ないと考えたのでしょう。

後に、諸葛亮は蜀漢において、厳格ですが公平な政治を行っていて、その一環が既に劉備との初めての面会で出ていた事になります。

劉備は、この事から諸葛亮の事を賢者だと気が付き、上客として優遇したとあります。

これが魏略や九州春秋にある、劉備と諸葛亮の出会い方です。

 

魏略と正史三国志を合体させた三顧の礼もある

魏略と正史三国志の三顧の礼の話を合体させたのが、真実だとする説もあります。

諸葛亮は、劉備にアプローチにいって魏略にある「戸籍による兵力増強策」を説いたわけです。

この時に劉備は、諸葛亮の話を聞いたけど、納得はせずにそのまま帰ってしまいます。

しかし、劉備は後で諸葛亮の事を思い出し「あいつ(諸葛亮)頭がいいよな~」と考えて、諸葛亮の所在を突き留めて、3度会いに行ったとする説です。

そして、3度目にしてようやく会う事が出来て、諸葛亮は劉備に天下三分の計を説いたとされています。

この説であれば、三顧の礼は行われた事になりますし、これもかなり信憑性があるような気がします。

むしろ、こちらの方が劉備の性格にも合っているような気もしますし、自然のような気すらするわけです。

実際のところは、劉備や諸葛亮でないと分からない所でもあるかと思いました。

 

裴松之も頭を悩ます三顧の礼

魏略や九州春秋の記述と正史三国志の三顧の礼を見ると、劉備と諸葛亮の出会いに関しては、かけ離れた内容になっています。

尚、諸葛亮は南征を行い孟獲を下すと、魏の領土を奪うために北伐を行っています。

その前に、蜀の皇帝である劉禅に、出師の表を出しているわけです。

出師の表の中に、「先主(劉備)は、自ら私(諸葛亮)のあばら屋を3度訪れて・・・」という記述があり、それを考慮すれば、三顧の礼はあった事になります。

しかし、正史三国志と魏略・九州春秋で余りにも違い過ぎてしまい、正史三国志の注釈を入れた裴松之も頭を悩ませたようです。

裴松之は、ここまで内容が違い過ぎてしまうと、実に不可解な事だと述べています。

いくら見聞の違いがあるにしろ、ここまで内容が違い過ぎるのはおかしいと考えたようです。

自分も諸葛亮と劉備の出会いに関しては、三顧の礼は不可解にも感じますし、魏略や九州春秋の出会いの方が普通なのかな?と感じています。

三顧の礼は出過ぎた話にも感じてしまうわけです。

三顧の礼があったとして、史実に一番近いのが、魏略と正史三国志を合体させた三顧の礼ではないかと感じました。

因みに、自分が劉備の立場で諸葛亮が会いに来たとしたら、「この腐れ儒者が!」と思い、ドヤ顔で昔の武勇伝でも語り始めた可能性もありますw

諸葛亮も自分には使えたいとは思わないでしょうw

もちろん、諸葛亮さんも、私に仕える気は、最初からないと思いますが・・・。

 

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