三国志・キングダム・春秋戦国時代などの歴史を紹介します。

三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

未分類

凧の起源は、中国の春秋戦国時代に軍事目的として開発された?

スポンサーリンク

凧の起源や開発した人などの話しを紹介します。

凧と言うのは、日本では正月の遊びとして有名です。

ちなみに、私が住んでいた田舎では、正月には凧を揚げて遊ぶのが一般的でした。

1月なので、寒空の中、綺麗な凧を上げて遊んだのを今でも覚えています。

ただし、最近、私の田舎でも少子化が深刻で子供が少ないせいか、凧揚げをしている人をほぼ見た事がありません・・。

今となっては、凧で遊ぶ子供は減少している可能性もあります。

尚、ここで凧の記事を書こうと思った理由ですが、「凧の物語」をいうネット上のニュースを見たからです。

項羽と劉邦の最終決戦とも言われている、垓下の戦いで韓信が用いた説もあるようです。

下記が凧の物語の記事なので、合わせて読んでみてください

凧の物語

尚、凧の起源は春秋戦国時代にあるみたいですが、考案したとされている魯班とも墨(墨子)とも言われているようです。

二人とも発想力があり軍事に関して、様々な物を発明したようで、その一つが凧だったとされています。

 

 

スポンサーリンク

 

目次

魯班とは

魯班は、春秋戦国時代の人で、魯にいた人物だったようです。

様々な奇怪な器具を作ったりして、周囲を驚かせていたのでしょう。

魯の昭公の子である公輸子と魯班は、同一人物だとする説もあります。

この話が本当だとすると、魯班は公子で絶大なる権力を持っていたと考える人もいるかも知れません。

しかし、この頃の魯は三桓と言われる大臣の力が強く、昭公自身が権力奪回のために戦いを挑んだが返り討ちにされている事実もあります。

さらに、昭公は国外で亡くなっています。

そのため、絶大なる資金などは魯班は持ってはいなかったのではないかと思われます。

尚、城攻めで使われている雲梯は、公輸子が開発したとする説もあります。

雲梯は三国志の時代でも使われているので、名前くらいは知っている人も多いでしょう。

城壁を昇るための移動式のはしご車のようなものです。

ちなみに、もう一人の凧の開発者と呼ばれている墨子と公輸子は楚王の前で模擬攻城戦を行った話も残っています。

 

 

スポンサーリンク

 

墨子とは

墨子も凧を考案した人物だと言われています。

墨子については、日本でも有名なので名前くらいは知っている人も多いはずです。

墨子は「非戦」を説いた事でも有名な人物です。

非戦というと、「戦争はやめましょう!戦いは死者が出るからしてはいけません!」と発言する人に思うかも知れません。

しかし、墨子の場合は戦争にならないためには「絶対に陥落させる事が出来ないと、思わせる様な守りを構築する事が重要」だと説いているわけです。

墨守とも呼ばれていますが、墨子の集団は高い築城技術を持っていて、難攻不落の城を作り出す事に長けていたとされています。

現代で言えば、核の廃絶を唱えるよりも、核武装して相手に絶対に攻め込まれない国を作る事を重視する人になるのでしょう。

墨子も凧を考案したとは言われていますが、どのように軍事目的で使用されたかは、定かではありません。

 

公輸子と墨子の対決

楚王と公輸子が、宋の城を攻めようとしている話を墨子が聞きつけて、楚王と公輸子を相手に会見する事になりました。

楚王は、公輸子が開発した雲梯を使い宋を攻め取ろうと考えていたわけです。

墨子は、宋の城を築城していて、自分の城は落とせないと言うわけです。

そこで、公輸子と墨子で模擬戦争を楚王の前でしたわけです。

公輸子の攻撃を墨子が悉く防ぎ、ついには公輸子は何も出来なくなってしまいました。

戦っても、墨子の作った城を陥落させる事は出来ないと公輸子は悟りますが、最後に一つだけ方法があると言います。

それはこの場で墨子を殺してしまう事だと言うわけです。

スポンサーリンク

しかし、墨子は自分の弟子が既に宋の城で守りを固めているから、自分が死んでも結局は、城を落とせないと言い楚王も納得して宋を攻めるのをやめた話が残っています。

尚、この話には皮肉な話だと思える部分が後に起こっています。

春秋戦国時代の末期に楚の宰相として、春申君がいたわけですが、この時代に魯は楚によって滅ぼされています。

これは私の想像になってしまうのですが、この戦いで公輸子が開発した雲梯も使われたのではないでしょうか?

つまり、雲梯という兵器は、最後は自分の祖国を滅ぼす兵器にもなってしまったのではないかと考えられます。

これは、非常に残念な話でもあるような気がしてなりません。

尚、凧というのは、公輸子や墨子が軍事目的で開発されたとは言われていますが、どのように使われたのかは分かっていません。

この話を信じるのであれば、公輸子は城を攻めるために凧を作り、墨子は城を守るために凧を用いたと考えるのが妥当かなとも感じました。

ただし、楚漢戦争時代に韓信が項羽との戦いにおいて、使ったともされているようです。

 

凧と四面楚歌

項羽と劉邦の最終決戦と言っても良い、垓下の戦いで韓信が使ったとする説もあるようです。

最初に紹介したニュースに書いてあったのですが、垓下の城を囲んだ時に、四面楚歌という戦術が採用されています。

項羽は楚の出身であり、城の外から楚の歌が流れて来る事で、「楚の地も漢に取られてしまった。とか、楚人の多くも劉邦に味方してしまった」と絶望してしまったとされています。

さらに、楚の諸将や兵士も楚の歌が聞こえてくると、大半が脱走してしまい、項羽の軍は崩壊してしまったわけです。

この時に、韓信が牛の皮で作った凧を揚げたとされています。

凧には笛が取り付けられていて、風が吹くと笛が鳴りだし、その音に合わせて劉邦軍は楚の歌を合従したそうです。

これが中国における凧の軍事利用の話しなんですが、凧に笛を付けてならすとか、そんなにうまい具合に行くのか?と疑問に思ってしまうわけです。

本当に凧に取り付けた笛で音を鳴らす事が出来たのであれば、これこそが「神風」と呼ぶべきでしょう。

私自身が実権をしていないので、嘘だとは思いませんが、信憑性については疑問を感じられた次第です。

 

日本の忍者も凧を使っていた。

日本でも忍者が凧を使っていたという話があります。

日本の忍者の場合だと、凧に人間が取り付けられていて、空から手裏剣を投げたりして攻撃したりするわけです。

他にも、凧を自在に操って逃亡したりもします。

実際にですが、凧に人間が乘るのは無理だと考えられます。

しかし、実際に凧は戦場でも使われていたようです。

凧を揚げて敵の視線を上にくぎ付けにして、その間に敵の目を掻い潜って逃げるなどもしたようです。

ただし、これを考えると、凧を揚げている人は逃げる事が出来ませんよね?

そのため、凧を揚げる人は死を覚悟しなければならなかったのではないでしょうか?

みんなを逃がすために、犠牲になる人が凧揚げをしたのかも知れません。

あと、この記事を書いている時に思ったのですが、パラシュートは凧の発展したバージョンかなとも思いました。

空から落ちる時に、パラシュートが開けば安全の落下する事が出来ます。

凧を飛ばした事がある人なら分かるかと思いますが、凧って落下する時は、無残に落ちて地面に激突したりするわけです。

安全に落とせる方法は何か?と考えた時に、パラシュートが浮かんだのかな?とも思ってしまいました。

これは、私の勝手な妄想なので、何とも言えませんけどね・・・。

尚、いつもは戦いや武将の記述を中心に書いていますが、たまには凧の起源を探してみたり、そういう記事もいいかなと思いましたw

また、面白いと思える説などがありましたが、色々と解説したいと思います。

 

春秋戦国時代:キングダムの記事一覧はこちらから

 

スポンサーリンク

-未分類

Copyright© 三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書 , 2024 All Rights Reserved.