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関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなかった!

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関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなかったとする説が出始めています。

こういう事を言い始めると、「そんなのはトンデモ説だ!」とか思うかも知れませんが、実際に一次資料を見ると石田三成が西軍の首謀者ではないようです。

※1次資料とは、当時の人が書いた日記や書状などによる資料・関ケ原の戦いで言えば関ケ原の前後の人の日記や大名とのやり取りの書状などを指す

通説

通説だと、関ケ原の合戦の2カ月前に、石田三成の居城である佐和山城に大谷吉継が訪れて家康打倒の話を打ち明けられたとされています。

石田三成「家康打倒の兵を挙げるつもりだ。お主にも協力してもらいた」

大谷吉継「やめておけ!万が一にも勝ち目はない」

このように言い、三成を諌止したとされています。

しかし、石田三成は引き下がらずに、熱意を持って大谷吉継を説き伏せました。

そして、西軍が結成される事になり、総大将には豊臣政権の五大老でもあり中国地方の大大名である毛利輝元と決まり、実践指揮官は石田三成が務める事になった。

この通説だと徳川家康排除を石田三成が考案した事になるので、西軍の首謀者は石田三成となります。

 

 

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石田三成が西軍の首謀者ではない理由

石田三成が西軍の首謀者ではない理由ですが幾つかあります。

まず石田三成が西軍の首謀者になる資料ですが、江戸時代になってからの資料で多く見受けられます。

当時の一次資料では石田三成の名前が全然出てきません。

それらについて解説します。

 

【内府ちかひの条々】に三成の名前がない

石田三成は徳川家康打倒のために【内府ちかひの条々】を諸大名に公布しています。

内府ちかひの条々では、家康を13カ条に及び罪を糾弾し諸大名に戦いを呼び掛けています。

内府ちかひの条々は、実際に1次資料として残っていて重要な資料になっています。

しかし、内府ちかひの条々には石田三成の署名がありません。

ただし、石田三成と同僚の五奉行である長束正家、増田長盛、前田玄以の連署があります。

これは西軍参加への諸大名に対して書状を出して味方になるように、説得していたのは長束正家、増田長盛、前田玄以の三奉行だと言う事が分かります。

石田三成が首謀者であれば、石田三成の名前を書かないわけには行かないでしょう。

それとも、石田三成は評判が悪すぎて、名前を書くと味方してくれないと考えたのでしょうか?

石田三成の名前が書けない余程の理由があったのか、どちらかでしょう。

しかし、普通で考えれば内府ちがひの条々は、西軍参加をしぶる諸大名に向けて書かれたもので、積極的に動いていたのが3奉行だという証拠になります。

 

 

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京都の公家の日記に石田三成の名前がない

関ケ原の戦い当時の京都の人達が書いた日記が残されています。

当時の京都は文化の中心地でもありますし、最も情報が集まる場所でもありました。

朝廷の女官が書いた日記で御湯殿上日記がありますが、それによると毛利輝元が豊臣秀頼の後見人になったと書かれています。

さらに、関ケ原の合戦直後に書かれた公家の日記である言経卿記には、徳川家康が勝ち宇喜多秀家が敗北したとあります。

当時の京都に住んでいた人々の日記から石田三成が出てくるのは、処刑された時だけです。

つまり、当時の人は石田三成が関ケ原の戦いを仕組んで首謀者だとは誰も考えていなかった事の証明になります。

石田三成は西軍の中心人物だとも認識されていませんでした。

それでも、西軍の首謀者を石田三成にするのであれば、関ケ原の戦いが終わって江戸幕府の人々が資料を探していたら、実は石田三成が首謀者だと言う事が分かったとなるのでしょうか・・・。

その辺りは、迷宮入りしていて分からない部分でもあります。

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石田三成と徳川家康は仲がよかった

通説の関ケ原の戦いだと石田三成と徳川家康は水と油のような関係で敵対されていた事になっています。

しかし、一次資料を見ると徳川家康と石田三成は良好な関係だった事が分かります。

徳川家康の家臣の回想録である「戸田左門党書」には、秀吉の死を家康に伝えたのは三成で、それから二人の仲が急速に接近したと書かれています。

京都相国寺の資料である鹿苑日録には、家康が大阪に滞在する時は、三成や三成の兄の邸宅を使用している事になっているのです。

石田三成が自分の邸宅や親族の邸宅を貸しているわけですから、仲はかなり良かったと考えられます。

さらに、徳川家康は石田三成のの息子である石田重家を家臣にしています。

石田三成自身も家康のために積極的に動いているのが分かります。

徳川家康も石田三成に近江の国(滋賀県)を防備するように命令した記録もあるのです。

これらの資料を見ると、とても敵対関係には見えません。

もちろん、表面上は良好な関係だったけど、腹の中では敵対していた可能性も考えられますが、これらの資料から推測すると無理があるように思います。

 

西軍の首謀者は誰なのか?

石田三成が西軍の首謀者でないのであれば、誰が首謀者になるのか?という問題が出てきます。

これについては様々な書籍や資料を読んでみましたが、はっきりとした事が分かりません。

通説の石田三成が大谷吉継を誘うシーンについては反対だと指摘する専門家もいます。

大谷吉継が家康打倒を石田三成に打ち明け、

石田三成は大谷吉継を止めたが熱意に負けて味方したという考え方です。

この考え方は、私は信憑性があるような気もするんです。

一次資料を基にした関ケ原の戦いですと、大谷吉継が徳川軍に対して最前線で戦って戦死しています。

大谷吉継はハンセン病に掛かっていたとも、梅毒だったとも言われています。

関ケ原の戦いの時は、病人だったわけです。

健康でいられなくなる自分を見て、最後に一花咲かせたくて戦いを挑んだと言う事も考えられないでしょうか?

最後に一花咲かせるための戦いであれば、もってこいの相手は徳川家康となってもおかしくありません。

これはあくまでも、私の想像ですが、大谷吉継は畳の上で死ぬよりも戦で死にたいとか願った可能性もあると思うです

気のせいかも知れませんが・・・。

 

首謀者の分からない戦いってありますよね。

日本史を見ると首謀者がよく分からないような戦いって存在しています。

信長包囲網は有名ですが、首謀者は誰なのでしょうか?

センゴクという漫画では「斎藤竜興」となっていますが、資料が見つかりません。

他にも、太平洋戦争でも日本の首謀者は誰だったのかも分かりませんし、応仁の乱もよく分かりません。

もちろん、畠山義就が原因だとか山名宗全や細川勝元とも言われていますが、首謀者が誰なのか?と言う事は不明です。

関ケ原の西軍も、それぞれの思惑を元に行動したようにも見受けられます。

それだけに団結心がなく自分の身勝手で動いていた節も見て取ることが出来ます。

ちなみに、「内府ちがひの条々」の連署にある三奉行は関ケ原の戦い後は次のようになっています。

長束正家は切腹

増田長盛は改易

前田玄以は所領安堵

前田玄以が所領安堵した原因ですが、家康に内通していたからだとも言われています。

つまり、自分で内府ちがひの条々で批判しておきながら、家康に内通するというウルトラCをやった事になるのです。

3奉行の動きでさえバラバラで一貫性もありません。

さらに、総大将である毛利輝元は大坂城にいただけではなく、四国や九州にも部下に出兵させているわけです。

西軍はバラバラで独自の利益を求めて動いてるため、団結力で崩壊していたのでしょう。

しかし、一次資料を見る限りでは、関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなさそうです。

石田三成は大垣城から大阪の毛利輝元に書状を出しているように、中心人物であった事は間違いないでしょう。

ただし、自ら率先して家康排除を画策したわけではないと言う事です。

 

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