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諸葛瑾は、呉の重臣として主君である孫権からも、絶大なる信頼を得た人物です。
実直で誠実な人柄を評価されたのでしょう。
さらに、呉の臣下である朱治、虞翻などの命を救うなど、様々な人をフォローした記録もあります。
しかし、諸葛瑾の息子である諸葛恪の代に、一族は滅んでいるわけです。
一族が滅んだ原因は、「諸葛恪」にあると考える人が多いと言えます。
しかし、諸葛瑾が上手く諸葛恪を教育する事が出来なかったら、家が滅びた?とは言えないでしょうか?
今回は、諸葛瑾が息子である、諸葛恪と諸葛融の教育に失敗したのではないか?と言う事を考えてみました。
尚、諸葛恪は諸葛瑾の長男であり、諸葛融は三男です。
次男の諸葛喬は、諸葛亮の養子となりますが、孔明の第一次北伐の最中に漢中で亡くなっています。
上記の画像は、横山光輝さんの三国志の一場面です。
関羽と面会した時の、諸葛瑾となります。
ただし、この画像は今回のお話しとは、ほぼ関係がありません汗
関連記事:第一次北伐で諸葛亮が魏に勝てずに失敗に終わった理由
関連記事:諸葛瑾は、孫権にも信頼厚く誠実な人!呉の臣下の命も救った人物
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目次
諸葛瑾は諸葛恪を嫌っていた!
諸葛瑾の長男である諸葛恪の性格ですが、利発で頭の回転がよかったようです。
呉の重臣である張昭が諸葛恪に対して、難題を出した時も、上手く切り返していますし、蜀の費禕(ひい)が外交で来た時に嫌味を言われた時も、巧妙に切り返しています。
諸葛恪を見ると、相手の言葉に対して、当意即妙な会話が得意だった事が分かります。
そのため、諸葛恪と論争になっても巧妙に切り返されてしまい、論破される人は多かったのでしょう。
孫権が諸葛恪に、「諸葛瑾と諸葛亮はどちらが賢いのか?」と聞いた時も、「父(諸葛瑾)が賢いと言い、叔父(諸葛亮)は仕える場所を分かっていない」と答えています。
この回答に孫権は大笑いしたとあります。
諸葛恪はとっさに聞かれても、満足の行く回答を出す事が出来たわけです。
孫権は、諸葛恪の切り返しが余りにも上手で、しかも巧妙である事から、頭の良さを認めて、将来を多いに期待していたようです。
しかし、諸葛瑾は諸葛恪のその様な態度を嫌い、将来を心配していたと正史三国志に書かれています。
実際に、諸葛瑾の予想が当たってしまい、諸葛恪の代で一族は皆殺しにされています。
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諸葛瑾が諸葛恪を嫌っていた理由
正史三国志には、諸葛瑾が諸葛恪を嫌っていたとはっきりと書かれています。
しかし、諸葛恪は諸葛瑾の事を嫌ってはいなかったのではないか?と自分は考えています。
諸葛瑾は驢馬(ロバ)に顔が似ていたと言われています。
孫権が悪戯で、驢馬を用意して諸葛瑾という名札を付けておいたわけです。
それを見た諸葛恪は、名札に「の驢馬」という文字を付け加えています。
自分の父親が馬鹿にされない様に、巧妙にフォローしたのでしょう。
諸葛恪の行動を見ると、諸葛瑾に対して、反感を抱いていない様に思います。
そうなると、諸葛瑾が一方的に諸葛恪を嫌っていた事になりますが・・・。
諸葛瑾が諸葛恪を嫌っていた理由ですが、口での切り返しは上手いが、行動が隙だらけだったからではないでしょうか?
諸葛瑾は、誠実で実直な人ですし、周りの人間に対しても、かなり気を使っていたのではないかと思います。
虞翻や朱治をフォローするなど、周りの人間に気を配っている事が分かります。
諸葛瑾は、これだけ周りの人に配慮していても、讒言された事もあるわけです。
諸葛恪は張昭や様々な人に対して、口で論破しているわけですが、その時は、勝った気持になるかも知れませんが、相手に嫌がられて何かの拍子に逆襲されてしまう事を恐れたのかも知れません。
さらに、諸葛恪は口は立つが、任務に対していい加減な所もあったようです。
陸遜に対して諸葛瑾は、次のような手紙を送っています。
「いい加減な性格の諸葛恪に、兵站の任務は重過ぎる。呉の命運が関わってくるから、直ぐに解任して欲しい」
諸葛瑾としては、諸葛恪の利発で機転が利くが、任務に対して忠実では無い事を危ぶんだのでしょう。
諸葛瑾は、地に足がついていない息子である、諸葛恪が見ていて心配だったはずです。
諸葛融ってどんな人?
諸葛融は、諸葛瑾の三男で、正史三国志の諸葛瑾伝などに記述があります。
それによると、諸葛恪は、諸葛瑾が活躍していた頃に、既に功績があり封地を与えられていたようです。
そのため、諸葛瑾の後は、諸葛融が継いだと記録があります。
諸葛恪は、「欲しいままに、楽しみごとを追いかけた」とあります。
経書なども覚えたようですが、広く浅くだったようで、色々知ってはいたが、精通はしてなかったとされています。
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諸葛融は、派手な服装を好み宴会を好んだと、正史三国志に記載されていました。
ただし、酒癖が悪かったわけではなく、人々とゲームをしたり楽しく過ごしたようで、人々はよく諸葛融になついたとされています。
諸葛融は、顧承や陳表と屯田を行うようになった時は、男女数万人が集まったとされています。
諸葛融は、親分肌なのか気さくな性格だったのか分かりませんが、人気者だった事は間違いないでしょう。
諸葛恪に巻き込まれて死亡
諸葛融の最後ですが、諸葛恪と関係があります。
孫権の太子であった孫登が亡くなると、呉では後継者争いが起きます。
孫和が継ぐのか、孫覇が継ぐのかで、家臣団が二分してしまったわけです。
この時に、陸遜が孫権を諫めましたが、憤死するという事件も起きています。
結局、孫権は喧嘩両成敗を取り両方を処分して、幼い孫亮を皇太子にしました。
これを二宮の変とか、二宮事件と呼びます。
孫亮の後見人として、諸葛恪が選ばれたわけです。
孫権が亡くなると、孫亮が幼かった事もあり、呉の最高権力者である諸葛恪が実権を握ります。
初期の諸葛恪は、魏に勝利したりして順調でした。
しかし、自ら20万の軍勢を率いて合肥新城を攻めたわけですが、魏将である張特が3000の兵士で奮戦しています。
魏の援軍もやってきて、諸葛恪は撤退するしかなくなってしまい、大きく評判を落としています。
この時に、諸葛恪が何らかの形で降格するなりすればよかったのですが、権力にしがみつこうとした事もあり、結局は孫峻に殺害されてしまいました。
諸葛恪が殺害された時に、諸葛融もターゲットにされています。
諸葛融に対して、施績・孫壱・全煕らが攻めてきますが、おろおろするばかりで何も出来なかったと、正史三国志に記載があります。
突然の事であり、諸葛融も何の対処も出来なかったのでしょう。
諸葛融の子も殺害されていますし、呉の諸葛家の家は一族皆殺しにされてしまいました。
諸葛融にしてみれば、諸葛恪に引きずられる形で滅んでしまったわけです。
諸葛融も運がなかったと言えるのかも知れません。
関連記事:合肥の戦い(253年)張特3千が諸葛恪の20万の大軍を撃破
諸葛瑾の教育に問題があったのか?
このように諸葛瑾の子供の代で、呉の諸葛家は滅びてしまいました。
一般的には、諸葛瑾は優秀だったが、諸葛恪が口だけの奴だから、滅亡したという考えが根強くあります。
諸葛恪を評価せずに危ぶんでいた、諸葛瑾も先を見越していたと評価される事もあるわけです。
しかし、見方によっては、諸葛瑾の諸葛恪に対する教育に問題があったと考えてもいいのではないでしょうか?
諸葛恪は、間違いなく才能はある人物だと思います。
口が上手い辺りは、蜀の馬謖や春秋戦国時代の趙括と重なる部分もあるように感じました。
しかし、そうした部分を諸葛瑾は危ぶむばかりで、上手く育てる事が出来なかったのかも知れません。
図を作ってみたのですが、諸葛瑾と諸葛恪、諸葛融の性格を考えてみました。
諸葛瑾 | 諸葛恪 | 諸葛融 | |
タイプ | 勤勉実直 | 天才? | 人気者 |
人との接し方 | 誠実 | 勝とうとする | ワイワイやる |
私が勝手に思っているだけですが、こんな感じになるのではないかと考えています。
諸葛瑾と息子である諸葛恪、諸葛融は人間のタイプが明らかに違うと思いました。
自分と違うタイプの息子と言うのは、考え方などから理解するのが難しいのかも知れません。
ドラえもんという超有名漫画がありますが、のび太というジャイアンに虐められている少年がいます。
のび太は、いじめられっ子ですから、「いじめられっ子」の気持ちは理解する事が出来るはずです。
しかし、いじめっ子の気持ちは理解する事が出来ないのではないでしょうか?
似たような事が起きたのかも知れません。
子供というのは、親と似たような性格で、生まれてくるかは分からないので、その辺りに子育ての難しさがあるのかも知れません。
それを考えると、諸葛瑾は諸葛恪の性格が余りにも、自分と違い過ぎてしまい、ストレスになり嫌った可能性もあります。
諸葛瑾、諸葛恪、諸葛融の3人は、性格の違いから見えている景色が、全然違っていたようにも感じました。
ちなみに、自分には子供もいませんので、よく考えてみると「子育てを語れる身分ではないでしょう・・・」
偉そうな事を言ってスマンセン・・・涙
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