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周瑜の遺言を聞かなかった孫権・・・。

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三国志で最大の美貌を誇る男と言えば周瑜だと言う事に間違いはないでしょう。

周瑜は益州を攻略しようと考えていましたが、36歳の若さで病気となり突然亡くなってしまいました。

その時に、遺書を主君である孫権に書いています。

重病だったようなので、自分で書いたのか、自分の言葉を部下に書かせたのかは分かりませんが、孫権に遺書を残しています。

しかし、遺書を読み孫権は悲しみにふけり泣いた事になっていますが、遺書の内容を実践したとは言えません。

今回は、周瑜の遺言を聞かなかった結果、孫権がどうなったのか書いてみたいと思います。

もちろん、孫権に不幸?が起きた事は言うまでもありませんw

 

 

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目次

周瑜の遺言

周瑜の遺書の内容ですが、人は誰でも死ぬから悲しまないで欲しいとか、孫策に用いられて・・・。という文面もあり諸葛亮の出師の表や春秋戦国時代の楽毅の燕の恵王に送った文言などと並ぶほど名文だと思っています。

しかし、周瑜の遺言の部分で孫権が守るべき事は下記の3つでした。

曹操は赤壁の戦いで敗れたが、強力なので北方の防備をおろそかにしない様に。

自分の後任は魯粛にするのがよい

劉備は虎狼の心を持っているので、決して気を許してはならない

この3つが大事な部分だと私は思っています。

曹操に関しては、防備を疎かにしたわけではありませんが、孫権は合肥に度々攻めますが、張遼の活躍もあり何度も破れています。

しかし、孫権は大軍を擁していた事で油断もあったと思いますが、仕方がない部分もあると思っています。

問題は、魯粛の後任と劉備に対する警戒感です。

 

 

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関羽に江陵を取られる

赤壁の戦い後に周瑜が曹仁を苦労の末に破って手に入れたのが江陵です。

周瑜の遺言では、魯粛は後任にする事が書かれていました。

この時に、孫権はさっさと魯粛を後任にして江陵に入れてしまえばよかったわけです。

しかし、孫権の家臣には程普がいて、魯粛よりも先に仕えていますし、赤壁の戦いでは周瑜に次ぐ身分にいました。

そのため、程普よりも先に、魯粛を江陵に入れる命令がしにくかったかのかも知れません。

その当時、程普は江夏太守をしていましたが、孫権は程普に江夏太守と江陵太守を兼任させようとしました。

程普は本拠地を江陵に置くのか、江夏に置くのか迷い判断が遅くなってしまったわけです。

その時に、劉備は関羽に命令して、江陵にいた周瑜の部下たちを追い出してしまいました。

もちろん、これには孫権は激怒しますし、悔しい思いをした事でしょう。

劉備陣営からして見れば、周瑜がいない孫権など恐れるに足りないと思って舐めていたのかも知れません

孫権の方も周瑜の遺言の通り魯粛をさっさと江陵に入れてしまえばよかったのでしょう。

しかし、孫権としてみれば魯粛は身近に置いておきたかったのかも知れません。

ただし、程普が江陵で失敗した事を考えて、孫権はすぐに陸口に魯粛を向かわせています。

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失敗をすぐにフォローするには、流石だと思いました。

 

劉備に益州を奪取される

周瑜の遺言の中では、劉備は虎狼の心を持っているから気を許してはならないとありました。

しかし、孫権は劉備の言葉を信じて、孫瑜の軍勢が益州に向かうのを引き上げさせたりもしているわけです。

さらに、江陵も関羽に取られてしまっています。

後の、天下三分の計が出来上がるわけですが、周瑜の遺言を聞いていれば、天下二分の計が出来上がった可能性があります。

天下二分の計は周瑜だけではなく、甘寧、呂蒙、魯粛などは狙っていた可能性が高いです。

この時に、劉備よりも先に益州を手にする事が出来れば、いち早く南北朝時代が訪れる事になったはずです。

南北朝時代は、魏が晋に乗っ取られる事になりますが、晋は呉も倒して天下統一しました。

しかし、その後の政争もあり北は異民族も入ってきて混乱状態になりますが、晋の皇族の一人が建業に入り皇帝を名乗ります。

これが東晋になるのですが、領土は三国志の呉と蜀の地です。

これと同じように、孫権が劉璋を倒し蜀を取っていれば北の魏、南の呉という図式が成り立ったでしょう。

そうならなかった一つの原因は、周瑜の遺言に従っていなかった可能性もあります。

劉備は劉表や袁紹の元にいた時は、危害を加えたわけではないので、大人しい虎やオオカミだと思ったのかも知れません。

周の幽王のように「オオカミ少年」の王様では困りますがw

 

関連記事:究極のオオカミ少年・周の幽王【西周王朝の滅亡】

 

魯粛が劉備に失望したと思う

この時の劉備の行動を目の当たりにして、魯粛は劉備に失望したと思われます。

魯粛はどちらかと言えば、親劉備派の人間でした。

劉備に対しても、色々と便宜を図ったりしています。

しかし、劉備の関羽に江陵を取らせる行為や蜀に入る行為などは失望した可能性があるでしょう。

面倒を見たのに裏切られた気持ちもあったかと思います。

後に、魯粛は関羽や劉備に対して、荊州返還の交渉をするわけですが、火種はこの辺りから既にあったはずです。

 

関連記事:魯粛と関羽の会談【勝ち過ぎはよくない】と言う事

 

後に荊州を失う原因にもなる

劉備の行動は、後に荊州を失う事に繋がっているように思います。

魯粛が孫権の命令で陸口に向かう途中で、呂蒙に招かれて会談を行っています。

これが「呉下の阿蒙に非ず」に繋がっているのですが、魯粛は呂蒙の実力を認める事になります。

後に、魯粛が亡くなると呂蒙は後任となり陸遜などの活躍もあり関羽を倒して荊州を奪い取っているわけです。。

この時まで魯粛は呂蒙の事を「武芸だけの人」と思っていた節があるので、魯粛と呂蒙がここで会談を行わなければ、魯粛の後任に呂蒙はならなかったかも知れません。

ただし、呂蒙は孫権に気に入られていますので、結局は頭角を現し魯粛に認められて後任になった可能性もあります。

それでも、歴史というのは、色々なところで動いているんだなと感じますね。

 

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