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趙雲は不遇の人生を送っていた?

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趙雲と言えば、どのようなイメージがあるでしょうか?

一般的なイメージは武勇で言えば、張飛や関羽とも互角に渡り合うだけの武勇を持っているとか、そういうイメージが強いはずです。

強いだけではなく、沈着冷静な頭脳も持っていて、オールマイティで活躍出来るイメージがある人が多いと思います。

三国志のゲームなどでは、張飛や馬超、黄忠などが武力ばかりが高いのに対して、趙雲や知力や時には政治力まで高くなっています。

能力値でいえば全てを足した能力値が全武将の中でナンバーワンにも輝いたりする事があるわけです。

しかし、趙雲の生涯を見ると、不遇の人生を送っていたのかな?と思えるわけです。

それを今回は紹介します。

 

 

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目次

外見はカッコいい事は間違いない

趙雲の外見はカッコよかったようです。

正史にも容姿端麗であったと書かれています。

しかし、後に三国志演義が出来ると、なぜか「顎が重なり」という表現があります。

これは、趙雲が「二重顎」だった事を指すのでしょうかw

それとも、当時の中国の美形とされている顔立ちは二重顎だったのかな・・・。

その辺りは分かりませんが、無理やり2重顎にされてしまったのは、不遇の人生の一環でしょうw

ただし、これは死後の事なので、生きている間の不遇の人生とは無関係ですね。

問題は、劉備の評価の低さなどです。

 

劉備から評価されない

趙雲と言えば劉備からは絶大なる信頼を得ているようなイメージがあります。

長坂の戦いでは、劉備が捨てた阿斗(後の劉禅)と甘夫人を保護していますし、一騎掛けなどは壮絶なる武勇だと思います。

太史慈の黄巾賊の包囲を破った時にも匹敵するでしょう。

 

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しかし、趙雲は劉備に評価されないのか、出世しないわけです。

三国志演義だと関羽・張飛・黄忠・馬超らと共に五虎将軍になっています。

しかし、正史の三国志を見る限りでは、五虎将軍という称号はありません。

関羽・張飛・黄忠・馬超の4人は前将軍・後将軍・左将軍・右将軍と同格の位を与えられています。

当時の劉備陣営で言えば元帥クラスの役職を与えられているわけです。

しかし、趙雲は劉備の新鋭隊長くらいの役職しか与えられていません。

さらに、劉備は後に皇帝になりますが、その時も趙雲は全然出世していないのです。

三国志ファンの間では、反骨の相のある魏延や失敗を擦り付けた李厳などは嫌いな方が多いはずです。

 

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しかし、趙雲やその魏延や李厳などより役職が低いわけです。

長年劉備に従って来たにも関わらず、評価が低い事が分かります。

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三国志正史を書いた陳寿は役職は低かったけど、功績は関羽・張飛・馬超・黄忠に匹敵すると考えて列伝で一まとめにしたのだと考えられます。

生前は、不遇の人だったのでしょう。

 

 

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戦いに敗れて降格も経験している

諸葛亮孔明の北伐にも、趙雲は参加しています。

第一次北伐では、【泣いて馬謖を斬る】の故事が有名ですが、実はこの戦いに別動隊として趙雲も参加しています。

趙雲と鄧芝がタッグを組み魏の曹真に挑んだわけですが、あえなく敗退して撤退しました。

しかも、この時は兵力においては趙雲ら蜀軍の方が多かったとされています。

馬謖の陰で目立たなかったのかも知れませんが、実は趙雲も敗北していたのです。

ただし、趙雲は部下をよくまとめた為、大敗には至らなかったと記述があります。

しかし、この敗戦により趙雲は降格していますし、街亭の戦いで敗れた馬謖は首を斬られています。

 

趙雲の最後は地味

趙雲の最後ですが、陳寿の書いた三国志正史には簡単な記述があるだけです。

第3次北伐の前に趙雲の息子であるて趙統と趙広が、趙雲の死を諸葛亮に報告したという記述だけとなります。

これから判断するに、病没になるかと思います。

戦場で長年活躍したので、体にガタが来てしまったのかも知れません。

趙雲が五虎将軍にもなって、正史よりも活躍の場においても、趙統と趙広が諸葛亮に死を報告にいくだけです。

ただし、諸葛亮がそれを聞くと「自分は片腕をもがれてしまった」と言っているので、蜀における趙雲の貢献度が分かります。

しかし、魏の楽進のように、引き立て役にならなかっただけ良かったと考えるべきかも知れませんw

 

関連記事:楽進が名将にも関わらず評価されない件【究極の引き立て役】

 

なぜ、趙雲は出世出来なかったのか?

趙雲は活躍の割には、出世出来なかったのは立ち位置にあるのではないかと思います。

魏でいうと、許褚や典韋のように劉備の親衛隊としての役割が強く、大出世出来る様な場所にいなかったのが原因だと感じます。

日本でいえば、徳川家康における服部半蔵という所でしょう。

主君の身辺警護が第一の任務になってしまう為に、戦場の将軍として華々しく活躍出来る様な機会が少なかったのかも知れません。

しかし、後世の人は趙雲の事を評価していて、名将趙雲という事になったのでしょう。

出世はしませんでしたが、趙雲は満足していたのかも知れません。

もちろん、本人に聞いてみないと分かりませんけどね。

しかし、待遇に不満で文句ばっかり言っていた記録も残っていないので、劉備、劉禅、諸葛亮などの蜀のために頑張っていた事は間違いないでしょう。

まあ、ここで趙雲が不遇にかこつけて、文句ばかり言っていたのが諸葛亮に伝わり、諸葛亮が処刑したする記録が見つかれば、さらに評価は大きく変わる事でしょうw

そういう物が出てこない事を祈るのみですw

 

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