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三国志で楽進という武将が登場します。
楽進は実在した人物で、史実では大活躍する名将なのですが、なぜか評価される事が少ないです。
ちなみに、三国志というコーエーが発売しているシミュレーションゲームがありますが、三国志1でのデータは「知力33 武力53 魅力40」という明らかなる凡将でした。
わざわざ戦争に連れて行くだけの人物ではなく、後方要因でしか使えないような能力値設定です。
近年の三国志シリーズでは武力系の能力値が80を超える事もありますが、一級の武将と比べると見劣りするデータと言えます。
しかし、史実の楽進を見ると明らかに名将軍なわけです。
なぜ、楽進が凡将になってしまうのか、私が思った事を書いてみたいと思います。
尚、最後に書きますが、最大の理由は三国志演義での楽進の最後にあるように思えてなりません。
楽進の究極の引き立て役になるところを見たい方は下記の目次の【8三国志演義の楽進の最後】をクリックしてお読みください。
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目次
文官から武官になる
楽進の体型は小柄だったと言われています。
曹操(楽進の君主)も楽進を見た時に、小柄な体型なので帳下の吏(記録係)に命じました。
つまり、戦闘が主な仕事である武将ではなく文官に任命したという事です。
ある時、曹操は兵士が必要になり、楽進に自分の故郷に帰り兵士を集めてくるように命令します。
楽進はその時に、兵士を集めてきたわけですが、1000人の兵士を集めて戻ってきました。
これを見た曹操は「楽進は武将としても使える」とみて、楽進は武将デビューしたわけです。
もしかしてですが、記録係をしていた時に、優秀だったので、兵士を集められるか曹操が楽進を試した可能性もあるでしょう。
楽進は文官を続けていても、評価された可能性もあるかと思っています。
呂布や袁術との戦いでは一番乗りを果たす
呂布配下の張超や袁術配下の大将軍・橋蕤戦では一番乗りの武功を挙げています。
呂布は一時期は兗州の大半を支配下に治めるほどの勢力拡大を成しています。
しかし、曹操軍は反撃に出て盛り返すわけですが、曹操軍反撃の躍進を支えたのが楽進の一番乗りの功績でしょう。
ちなみに、楽進は体は小さいが戦場での一番乗りは多い武将です。
元寇の時の竹崎季長のように一番乗りしたけど、敵を倒せなかったわけではなく、一番乗りして、さらに敵を打ち破っています。
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呂布を滅ぼす
198年の下邳で行われた呂布包囲戦でも別将を破る活躍をしています。
下邳で行われた呂布との戦いでは、呂布の酒癖と部下への扱いの悪さばかりが取り上げられています。
魏続・宋憲・侯成ら呂布の武将たちのよって捕らえられて曹操に斬られた話ばかりがクローズアップされているのです。
しかし、実際には野戦なども行われて、曹操は苦戦しながらも呂布を破ったようです。
この時に、曹操自身も負傷した資料もあるので激戦だった事は間違いないでしょう。
この戦いでも楽進は敵を破る活躍を見せています。
その他にも、劉備討伐でも敵を打ち破り手柄を立てて校尉に任じられています。
官渡の戦いでは大活躍
官渡の戦いでは、袁紹配下の淳于瓊を斬る活躍をしています。
三国志演義だと、淳于瓊は酒ばかり飲んでいて、職務放棄したダメな奴ですが、実際の淳于瓊は遥かにまともな人物です。
許攸が曹操に寝返り兵糧の場所を教えてしまう事は史実にもありますが、それでも淳于瓊は職務放棄などはしていません。
曹操が攻めてきた時は、奮戦していますし一時は、曹操の方が旗色が悪くなってしまったほどです。
淳于瓊は史実では、曹操も惜しむほどの人材なわけです。
その淳于瓊を斬ったのが楽進になります。
ただし、淳于瓊は捕らえられて、曹操の元に連れてこられたが、許攸は曹操に斬るように進言したために殺された記述もあります。
そのため、楽進は淳于瓊を斬ったのではなく、捕らえたのかも知れません。
しかし、正史の三国志を見る限り天下分け目と呼ばれる官渡の戦いで大活躍した事は間違いないでしょう。
襄陽で関羽を破る
208年の赤壁の戦いでは、孫権の大都督周瑜と魯粛などの活躍もあり曹操軍は破れてしまいます。
戦線を襄陽まで後退させるわけですが、襄陽の守備を任されたのが楽進です。
三国志の中でも屈指の名将である関羽も襄陽に攻め込んできますが、見事に楽進は撃退して攻撃だけではなく、守備の上手さも見せてくれています。
他にも、異民族討伐にも活躍したり、異民族相手にも楽進は暴れています。
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名将関羽とも互角以上に戦った実績が楽進にはあるのです。
合肥の戦い
合肥の戦いにも、楽進は参戦しています。
この時に、張遼、李典、楽進の3人で合肥の守備を任されていました。
しかし、この3人は不仲だったわけです。
3人とも数々の戦功を挙げたりしていましたが、昇進するにつれて不仲になっていったのかも知れません。
しかし、この戦いでは3人が協力して見事な連係プレイで孫権の大軍を撃破しています。
尚、合肥の戦いは、張遼、李典が出撃して、楽進は城を守るのが役目でした。
張遼ばかりがクローズアップされがちな戦いではありますが、実際には楽進が城をよく守ったからこそ、張遼たちも活躍出来たわけです。
実際に、楽進が城を陥落させてしまったら、張遼たちも大敗していた可能性も高いでしょう。
ちなみに、孫権が撤退する時は、楽進も追撃して戦果を挙げています。
右将軍に任命される
楽進は、これまでの戦績を評価されて右将軍に任命されています。
ちなみに、後に劉備が王になった時に「関羽、張飛、馬超、黄忠」の4人を「前将軍、後将軍、右将軍、左将軍」に任命しています。
この前後左右の4将軍は同格で余程、活躍した将軍でないと任命される事はありません。
それに魏の楽進がなったわけです。
ちなみに、この時に夏侯惇が不備があり前将軍になっていません。
楽進が右将軍、于禁が左将軍になっていて、この2人が魏の将軍の中でトップに位置にいました。
尚、三国志演義で五虎将軍の一人に数えられる趙雲は、右将軍まで昇進していないので、位でいえば趙雲よりも楽進の方が出世した事になります。
右将軍になったのが215年の話しで3年後の218年に楽進は死去してしまいます。
これらを見ると、生涯にわたり楽進は戦場で活躍して、特に失敗もありません。
さらに、戦場では大活躍しているわけです。
それにも関わらず楽進って地味で評価されていない事が多いような気がするのです。
張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃は、正史三国志では同等の将軍として評価されていて、同じ伝に記録されているほどです。
その中でも、張遼に続き2番目に評価されています。
私は、なぜ楽進が地味なのか?評価されないのかを考えてみましたが、最終的な理由は三国志演義の楽進の最後にあると思いました。
三国志演義の楽進の最後
正史三国志の記録を見る限りですが、楽進は戦場で死んだわけではなく、畳の上(?)で死んだようです。
三国志演義の楽進は弓矢の達人として出てきます。
呂布の武将である成廉を射殺したり、袁紹の軍師の一人である郭図を射殺したりと活躍もあります。
しかし、三国志演義では濡須口の戦いにも参戦した事になっているのです。
三国志演義の楽進の最後を知るためには、呉の武将である淩統と甘寧を知っておく必要があります。
淩統の父親は淩操といい勇猛果敢な武将であったが、黄祖配下の甘寧に射殺されています。
後に、甘寧は黄祖を見限り孫権配下になるのですが、淩統は父を射殺した甘寧に対して恨みを持っていました。
三国志演義では、甘寧と淩統が斬り合いになるところを呂蒙が機転を利かせて止めたエピソードもあります。
つまり、淩統と甘寧は非常に険悪な仲だったのです。
濡須口の戦いでは、その淩統と楽進が一騎打ちを始めます。
最初は、互角に戦っていたのですが、曹操が見物に来て曹休に淩統に矢を放つように命じます。
矢は淩統の馬にあたり淩統は落馬してしまいます。
淩統は絶対絶命のピンチに陥ります。
楽進としてみれば「勝った!!」と思って槍を淩統に向けて刺し殺そうとしたわけですが、その瞬間にどこからともなく矢が飛んできたのです。
弓矢を放ったのは呉の武将である甘寧です。
その矢は、楽進の顔面のど真ん中にあたり楽進は絶命してしまいます。
三国志演義では、それ以来、淩統は父親を射殺された恨みを水に流し甘寧と深く交わったとされています。
これが三国志演義でも楽進の最後です。
しかし、このシーンは楽進の死をクローズアップしたものではありません。
あくまでもメインは、淩統と甘寧の因縁と友情のはじまりのシーンです。
三国志演義の作者である羅漢中は明らかに、楽進を引き立て役に使っています。
この「究極の引き立て役」に使われてしまった事が、史実の楽進の評価を下げているのではないでしょうか?
楽進は人が良さそうな感じもするので、余り気にしないのかも知れませんが、名将に対するこの扱いはちょっと酷いなと感じました。
これが無ければ三国志のゲームでも武力や統率系、知力、政治力など様々な能力で今よりも高い能力を与えられたかな?とも感じています。
尚、蒼天航路という正史三国志を題材にした漫画がありますが、そちらの楽進が史実の楽進に近いと思った方がよいでしょう。
まあ、史実の三国志を元に書かれた漫画なので、当たり前なんですけどね。