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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

鎌倉時代

北条時宗は元寇で精神が疲弊しきっていた。

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北条時宗についてお話してみたいと思います。

尚、上の画像は後にも出てきますが、弘安の役(2回目の元寇)の2年前(1279年)のモンゴル帝国の領土となります。

北条時宗と言えば、18歳で鎌倉幕府の執権(鎌倉幕府の実質的な最高権力者)となり文永の役、弘安の役の2度に渡る元寇を乗り切った事で有名です。

NHK大河ドラマの主人公にもなりましたよね。

北条時宗ですが、人によっては「元寇のために生まれてきたような人」とも評価されています。

実際に、北条時宗を見てみると生涯に渡ってフビライとのやり取りや戦闘に追われています。

この時に、モンゴル帝国が膨張期にありましたし、巡り合わせの悪い執権だとも言えるでしょう。

もう少し平和な時代であれば、ストレスは少なかったかと思いますが、得体の知れない対外戦争の時期だったので、想像を絶するストレスがあったようです。

 

 

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元からの国書が届く

元のフビライは日本に国書を送ってきます。

当時のモンゴル帝国は拡張期にありました。

次々に他国の領土を占領して、モンゴル帝国を拡大されていたわけです。

中国も北の方は、遼や金などの国を滅ぼして既に元(モンゴル帝国)の領土になっていました。

元から1回目の国書が送られてきた時点では、中国の南の方には南宋があり、張世傑などの将軍が元軍に対して活躍していた時期でもあります。

その時に、元から日本を統治する鎌倉幕府に親書が送られてきたわけです。

内容は、日本と通商を結びたいという内容だったとされています。

当時の鎌倉幕府は南宋と深い関係にあり、硫黄(日本は火山国のためよく取れる)を輸出していました。

硫黄を「てっぽう(てつはう)」などの武器として使っていたりしたわけです。

元としては、南宋との貿易を辞めてもらい、元と硫黄の取引をしようと持ち掛けました。

通商を認めてしまえば南宋に対して背信行為になりますし、認めないと元軍が攻め寄せて来る可能性が高かったわけです。

鎌倉幕府の執権である北条時宗は、どうすればいいのか?朝廷(天皇)に相談しますが、公家や貴族たちは、あたふたするばかりで打開策を出す事が出来ません。

結局、北条時宗の元に返ってきてしまうのですが、鎌倉幕府側としては、これに対して返書を書かずに無視する事に決めます。

フビライとしては、硫黄を手にするだけではなく、日本を支配下に置きたかった現状があるようです。

フビライはさらに、日本に使節団なども送ってきましたが、北条時宗は使節団を斬首してしまい宣戦布告をします。

北条時宗が使節団を斬った理由として、当時の鎌倉幕府は南宋の僧侶たちを外交顧問として情報収集をしていました。

南宋の僧侶たちから元がいかに酷い国か聞いていたわけです。

これが、元を拒絶した理由の一つとされています。

 

 

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文永の役が起こる

激怒したフビライは日本に対して遠征軍を派遣する事を決定します。

属国である朝鮮半島の高麗に対して、兵士1万人を準備するように命令します。

そして、総勢3万の軍勢で日本に攻め込んできました。

これが文永の役です。

3万という人数が少ないように思うかも知れませんが、文永の役(1274年)当時は、中国の南の方では南宋が健在でした。

1273年に南宋の襄陽の地が陥落してしまい、南宋は決定的な抵抗力を失ったとはいえ、まだ南宋の逆襲が怖い時期です。

そのため、全兵力を日本に注入させる事は出来ませんし、その他の地域でも戦争を抱えていた状況です。

その中で出せる兵力が3万だったのでしょう。

別項でも書きましたが、竹崎季長や少弐景資、白石通泰らの活躍で撃退します。

 

北条時宗の苦悩

北条時宗は、南宋滅亡をこの目で見て来た無学祖元の元に通っていた記録が残っています。

無学祖元は元南宋の僧侶です。

無学祖元は、北条時宗に莫煩悩の言葉を与えています。

莫煩悩とは自我や偏愛を捨てよと言う事です。

この時の北条時宗は日本でも体験した事もないような出来事(元寇)により、かなりストレスが溜まっていたようです。

一度目の文永の役では防衛戦に勝利したとはいえ、いつ攻めてくるか分からない元やフビライに対してのストレスは相当なものだったのでしょう。

さらに、手柄を立てた武士などには、御恩と奉公により恩賞を与えなくてはいけません。

しかし、防衛戦では元から領土を奪い取ることが出来ないため鎌倉幕府の財政は悪化していきます。

これらに対して、北条時宗はかなり頭を悩ましていたようです。

 

弘安の役が起こる

文永の役が起きた時は、規模が小さかったのですが、弘安の役の頃になると南宋は滅亡して中国は完全に元の支配下に置かれました。

そして、14万という大軍を擁して、日本に攻めてきたわけです。

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今度は日本側も東国の武士も終結させて九州の防衛をしています。

博多湾に防塁を20キロにわたり構築もしています。

博多湾に元軍を侵入させないための手段です。

弘安の役の時の元軍は東路軍と江南軍の二手に分けて日本を攻める作戦を立ています。

東路軍は、モンゴル軍と高麗軍からなる4万で朝鮮半島から侵攻してきます。

それに対して、江南軍10万は旧南宋の兵士が主流で、海から日本に向かい東路軍と合流し日本を攻める予定でした。

東路軍は順調に集合地点に集結しますが、江南軍がいつまで経っても来ません。

結局、東路軍は1カ月も待たされて疫病まで蔓延したと言われています。

さらに、食料が無くなりそうになった頃に江南軍が到着しました。

江南軍に関しては準備不足で到着に間に合わなかったという説が有力です。

江南軍の将軍が病気になり遅れたという話もありますが、フビライに対する苦し紛れの言い訳だとする説が根強いです。

ここで鎌倉武士と元軍の対決になるわけですが、ここで台風が直撃してしまい元軍は大損害を引き起こしたようです。

弘安の役は、京都の公家や貴族の日記などからも本当に暴風の台風が起こった可能性が高い事が分かってきました。

歴史が始まって以来の大嵐が来たと貴族の日記もあるほどです。

そして、元軍は大損害を被り2度目の元寇は失敗しました。

ただし、全てが台風のお陰で勝ったわけではなく、局地戦などでも日本の勝利もありましたし、弘安の役では日本軍は日本の地を元軍に踏ませる事はありませんでした。

尚、日本軍は日本人だけしかいないので、言葉の壁などはありません。

元軍は、モンゴル、高麗、南宋などの多国籍軍なので、命令系統の異常などもあったようです。

数は多かったけど、統率力は低かったとされています。

さらに、日本は負けたら国が亡ぶので必死に戦ったのに対して、南宋軍の兵士は元に服属してから日も浅くやる気もありませんでした。

そのような要因もあり、日本は元軍に勝利したとされています。

余談ですが、北条時宗はこの時に、祈祷師700人を集めて祈祷を行ったとされています。

それが神風に繋がったともされていますが、実際は祈祷師とは余り関係がないような気もするわけです。

ちなみに、この時の神風が太平洋戦争中の軍部で使われたのは、非常に残念に感じました。

 

第3回目の元寇が計画されていた

多くの日本人は、2回の元寇で日本への侵攻は諦めたと思っているようです。

歴史に詳しい人の場合は、3回目の元寇の計画があった事は知っています。

しかし、多くの人は弘安の役(2度目の元寇)が終わった後も、クビライが日本に使節団を送って来た事を知りません。

弘安の役で元軍は敗れ去り撤退したにも関わらず、使節団を北条時宗に送り服属を迫る国書を送っています。

つまり、クビライは日本への侵攻を全然諦めてはいなかったのです。

 

北条時宗の苦悩とクビライの死

北条時宗は、弘安の役が終わった3年後に34歳の若さで死去しています。

死因に関してですが、元寇による過度のストレスが原因だとされています。

生涯の大半をクビライとのやり取りに費やした北条氏の執権でもありました。

尚、モンゴル帝国ですが、南宋を完全に滅ぼした1279年をピークに領土の拡張が止まっています。

南宋を滅ぼしてからは、今までが嘘だったかのように戦争に勝てなくなっていきました。

ヨーロッパではポーランドに負けたり、ベトナムに3回遠征しますが、結局は勝つことが出来なかったわけです。

それでも、クビライの領土拡大の野心は諦めきれずに亡くなる1294年まで日本征服は考えていたようです。

元による日本の侵攻はクビライの死をもって終焉を迎えます。

ただし、元寇が鎌倉幕府の財政を圧迫したなどで、鎌倉幕府の滅亡を早めたとも言われています。

 

北条時宗の評価

北条時宗は、頑張ったと個人的には思います。

まず、強大な力を誇る元に対して屈服しなかったのは、凄い事だと思っています。

南宋を完全に滅ぼした1279年には最大版図となり、東ヨーロッパの一部までも支配下に置いています。

上の図は1279年時の南宋征服時のモンゴル帝国の勢力範囲です。

如何に強大な戦力を持った国なのか分かる事でしょう。

これだけの大国は人類史上初ですし、超大国だったわけです。

この国に戦争を仕掛けられる身としては、心労はかなりあったはずです。

この時に、北条時宗が頑張って屈服しなかったこそ、今の日本があったのかも知れません。

北条時宗がもしモンゴル帝国の属国になっていたならば、日本の鎌倉武士も外国に派兵されていた可能性も高い事でしょう。

それを考えれば、北条時宗は日本を守った英雄ともいえるのではないかと思っています。

未曽有の国難の時に優れた執権があったと感じています。

 

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