スポンサーリンク
以前に元寇についてお話をしました。
日本は、神風で勝ったのではなく、実力で元軍を圧倒して勝ったという記事です。
今回は、元寇の英雄である竹崎季長(たけざき すえなが)と蒙古襲来絵詞について書いてみようと思いました。
尚、書いてみようと思ったきっかけは、にっぽん!歴史鑑定という番組の「日本存亡の危機!元寇の真実」を見たからです。
元寇については、竹崎季長編と北条時宗編の2つに分けて紹介したいと思います。
今回は、竹崎季長と蒙古襲来絵詞についてです。
スポンサーリンク
目次
元寇とは
元寇は、ほとんどの人が分かっていると思うので簡単に解説します。
分かりやすく言えば、鎌倉時代に中国で強大な勢力を持っていた元が二回にわたり、日本に攻め込んできた戦いです。
2回とも鎌倉武士を中心とした強固な守りで元軍を撃退しました。
数の上では圧倒的に優勢だった元軍を撃退した戦いでもあります。
元寇において活躍したのが、竹崎季長です。
竹崎季長が一番駆けを申し出る
竹崎季長は元寇の当時、家は没落していて領地も持っていなかったようです。
元軍が攻めてきて、そこで武功を挙げれば「お家再興」になると考えたとされています。
当時の鎌倉幕府の仕組みは「御恩と奉公」で成り立っていて、鎌倉幕府に対して手柄を立てた武士は褒美をもらえる仕組みがあったからです。
1回目の元寇(文永の役)の時は、諸説はありますが日本軍3千に対して元軍は3万の兵士がいたとされています。
元は中国の北部は領地にしていましたが、中国の南部の方は依然として南宋が支配していました。
その事も、影響して文永の役は、弘安の役に比べると規模は小さかったようです。
しかし、日本軍の10倍の兵士が元軍にはいました。
日本軍の総司令官は、九州の有力御家人である少弐景資(武藤景資)が選ばれました。
少弐景資は大将軍に任命されて、防戦するわけです。
少弐景資の元に、竹崎季長が赴き自分の一番駆けを進言します。
スポンサーリンク
竹崎季長の一番駆け
竹崎季長は一番駆けを進言したわけですが、一番掛けは真っ先に敵陣に突っ込んで行く役割です。
つまり、軍の先頭を切って突撃する役目となります。
もちろん、真っ先に突っ込んで行くわけですから、死亡する確率も最も高くなります。
だからこそ、一番駆けは当時では名誉とされていました。
それを没落した武士である竹崎季長が志願したわけです。
この時の竹崎季長は自分を入れても5騎しかいませんでした。
しかし、総大将である少弐景資は、竹崎季長の一番駆けを許す事になります。
元寇の前の外国との戦争を考えると、白村江の戦いまで遡ります。
天智天皇が滅びた百済再興のために、唐・新羅連行軍に敗れた戦いです。
白村江の戦いは663年の出来事で元寇(文永の役)が1274年です。
つまり、日本が外国と戦争をするのは、600年ほど前の事になるわけです。
大将軍である少弐景資も元軍との戦いがどうなるのか予想もつかず死を覚悟していたと言われています。
竹崎季長が一番駆けを志願すると、許可しています。
実際に元軍との戦闘が始まると、竹崎季長は敵陣に真っ先に突っ込んで行き見事に一番駆けを達成しました。
上の図が、蒙古襲来絵詞の竹崎季長なのですが、よく見ると馬が弓矢に当たり負傷して血を流しているのが分かります。
実際に、竹崎季長の主従である5騎のうち3騎は負傷したとされています。
竹崎季長自身も怪我をしてピンチに陥ったそうです。
一説によると、竹崎季長は敵の兵士を一人も倒さずに怪我を負ったともされています。
個人的には、ここで三国志の英傑の如く大暴れして敵を倒しまくって欲しかったかなとも思っています。
怪我をして動けなくなっていた説もあるのですが、後詰(救援部隊)に訪れた肥前の御家人・白石通泰に救われています。
尚、ここで白石通泰は竹崎季長が一番駆けをした事を目撃していますし、竹崎季長も白石通泰の活躍を目撃しているのです。
これが後に、お互いの戦功の証人となりました。
日本軍が元軍を撃退する
文永の役では、博多の街を焼かれるなどの損害が出た記録があります。
元軍はてつはう(てっぽう)とも呼ばれる火薬を使った武器(手榴弾のようなもの)や集団戦法で日本を苦しめたけど、台風に襲われて撤退したと通説では考えられてきました。
しかし、近年の研究では、文永の役の戦闘が行われた時に、京都の貴族の日記では、京都は寒く晴れていた記録が残っています。
気象学で考えると、文永の役の時(現在の暦では11月26日)は、放射冷却があり日本全体が晴れだったのではないかと考えられるようになりました。
実際に、11月に日本が台風に襲われる可能性も低く暴風雨により元軍は撤退したのではないという考え方が有力になっています。
なぜ、元軍は文永の役で撤退したかですが、当時の船の問題があるとされています。
スポンサーリンク
当時の船は風に逆らうのが難しく、時期的に早めに撤退をしなければ、海流により朝鮮半島に帰れなくなってしまう事が指摘されています。
つまり、一戦して九州の大宰府を陥落させる事が出来なかったので、仕方なく国に帰ったとされている説です。
尚、この説には予想以上に日本軍が強くて元軍は撤退したなども考えられるでしょう。
実際に、日本軍の抵抗が激しくて元軍は戦線を維持できなかった可能性も高いはずです。
竹崎季長が訴え出る
竹崎季長は御家再興のために、危険を冒して一番駆けを行いました。
しかし、それに対して幕府側は恩賞を出そうとしなかったと言われています。
幕府が竹崎季長に対して、恩賞を出さなかった理由はいくつか考えられます。
・外国(元)との戦争であったため新たなる領土を奪い取る事が出来なかった。
・元から戦争に勝ったけど賠償金も貰えていない
・竹崎季長率いる5騎が敵を倒していない
・外国との戦いで一番駆けをしても、恩賞につながった例が過去にない
・事務的な手違いで恩賞の報告をされなかった。
・鎌倉幕府の財政が悪化していた
などがあったとされています。
しかし、竹崎季長としてみれば命がけで一番駆けをしたのに恩賞を貰えないのは不服でした。
そこで、馬と馬具を売り払い旅費に変えて鎌倉まで行き幕府の役人に面会を求めます。
何とか、幕府の恩賞奉行である安達泰盛と面会が叶いました。
最初は、外国との一番駆けに先例がない事を理由に竹崎季長の要求を跳ねのけようとしました。
しかし、最終的には竹崎季長の情熱に負けて肥後国海東郷(現在の熊本県)の地頭に任命しています。
ここにきて、竹崎季長はようやく没落した家を再興する事が出来たのです。
弘安の役と竹崎季長
竹崎季長は、2回目の元寇である弘安の役にも参戦しています。
この時は、一番駆けをしたという記録がないので、一番駆けは他の武士に譲ったのでしょう。
しかし、安達盛宗(安達泰盛の子)の指揮下で活躍し、志賀島の戦いや御厨海上合戦で元軍の兵士を討ち取った記録が残っています。
そして、2度の元寇を通じて多大なる恩賞を受けました。
竹崎季長は、文永の役では、真っ先に敵陣に突っ込んだだけですが、弘安の役では見事に敵の兵士の首をあげています。
蒙古襲来絵詞を描かせる
その後、竹崎季長は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)なる全二巻の絵巻物を描かせています。
前巻と後巻に分かれていて、前巻は文永の役の竹崎季長の5騎での一番駆け、後巻は弘安の役が描かれています。
前巻、後巻といっても幾つかに分かれていて、少弐景資に一番駆けを願い出るところや、幕府の恩賞奉行である安達泰盛に訴え出る名シーンなどもあります。
元寇の戦場だけの絵巻物ではありません。かなりの長さがある絵巻物でもあります。
竹崎季長が蒙古襲来絵詞を描かせた理由ですが、自分の武功を後世に伝えるためとも言われています。
しかし、自分にチャンスを与えてくれた少弐景資や恩賞を約束してくれた安達泰盛の鎮魂のためとも考えられています。
蒙古襲来絵詞が完成した時には、少弐景資と安達泰盛は権力闘争(霜月騒動)で亡くなっているのです。
もしかして、少弐景資と安達泰盛への感謝の気持ちの現れだったのかも知れません。
竹崎季長と蒙古襲来絵詞を見て思う事
竹崎季長と蒙古襲来絵詞を見て思う事があります。
竹崎季長が出世出来たのは、少弐景資と安達泰盛がいたからでしょう。
竹崎季長がどんなに頑張っても、活躍を認めてくれない人の下でいたら頑張っただけ無駄に終わったと思います。
それを考えると、竹崎季長は上司には恵まれたように感じました。
話せばわかる上司がいたからこそ、活躍も出来て恩賞も貰えたと私は考えています。
現代においても、会社とかで上司との折り合いが悪く頑張っているけど、出世の見込みがなかったりする人は多いのではないでしょうか?
現代は、昔に比べると転職しやすいなども状況もあるので、頑張っていても認められなかったりする不遇な状態が続いているようであれば部署を変えてもらうように志願したりする事も大事だなと思いました。
実際に、歴史を見てみるとキングダムで信が活躍出来るのも秦王政が引き立てているからですし、蒙恬、王翦なども同じ事が言えます。
豊臣秀吉が天下人になれたのも織田信長が功績を認めて取り立てたからです。
それを考えれば歴史上の人物で誰からも推薦されずに出世した人はほとんどいないのではないでしょうか?
現在の日本のサラリーマン生活を考えてみても、自分が出世したり給料を上げるためには、自分を引き立ててくれる人の存在は不可欠でしょう。
尚、私は引き立ててくれる人がいなかったので、独立勢力になりました・・・。
それも選択肢の一つではないかと思います。周りで評価してくれる人がいなければ、自分で独立するまでかなと個人的には思っております。
それでも、竹崎季長は引き立ててくれる人がいてよかったと思いました。