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諸葛亮の話で若い頃に、自分は管仲や楽毅に匹敵する人材だと言っていた話があります。
管仲・楽毅と言うのは、春秋戦国時代に活躍した名宰相と名将です。
管仲は、春秋時代に斉の桓公を補佐して、春秋五覇の一人に押し上げています。
楽毅の方ですが、戦国時代の燕の昭王に仕えて、弱国である燕が合従軍を結成して、強大なる斉を打ち破りました。
楽毅は、白起などと並び、春秋戦国時代でも屈指の名将と呼べるでしょう。
今回は、本当に諸葛亮が管仲や楽毅に匹敵するほどの人物なのか紹介したいと思います。
尚、諸葛亮に比べると、管仲や楽毅がどの様な人物なのか分からない人も多いはずです。
その事も考慮して、管仲や楽毅などについても解説します。
余談ではありますが、諸葛亮が司馬徽(水鏡先生)の門下生時代に、自分は管仲・楽毅の様な人材だと言うと、徐庶や向朗、龐統などは認めたとされていますが、他の人には「何を言ってるんだあいつは?」とおかしな目で見られた話もあるようです。
諸葛亮は、かなり変わった青年だったのでしょう。
関連記事:劉備に臥竜鳳雛(諸葛亮・龐統)がいても天下統一出来なかった理由
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目次
諸葛亮と管仲を比較してみると
管仲ですが、名宰相として有名な人物です。
後に主君となる斉の桓公の命を狙った事もありましたが、友人の鮑叔の助けもあり斉の桓公の宰相となっています。
司馬遷が書いた史記の列伝の2番目に「管晏列伝」があり、管仲と晏嬰の事が書かれています。
管仲に対する記事は、簡単な事しか書かれていませんが、2番目に書かれていると言う事で、司馬遷の評価は高かったのではないかと感じています。
尚、孔子は管仲の事を「小さい」と酷評した事もありました。
斉の桓公が覇者(諸侯同盟の長)止まりで、天下統一して王者にする事が出来なかったのを非難したのでしょう。
しかし、別の所では「管仲がいなかったら、我々は戎に蹂躙されていた」とも述べているわけです。
孔子も何だかんだで、管仲の事は評価していた事が分かります。
実際の管仲の政治ですが、謎の部分も多いわけです。
しかし、管子にあるように「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」を考えると、民衆の為の政治を心がけたのでしょう。
管仲の考えでは、飢えている人に礼節を説いても無駄で、人々が恥を知るには、人々を富ませる事が大事だと言っています。
国を富ませるにも、民衆を富ませなければならないと主張したわけです。
管仲は周王に対する礼の考えなどにも精通していますし、曹沬の事件、燕の荘公の山戎との戦いに見る様に、災いを福に転じるのが長けていたとされています。
それらを考慮すると、管仲は春秋戦国時代で、最も活躍した政治家ではないかと感じています。
諸葛亮ですが、何度も北伐の軍を起こしていますが、それにより国が乱れたとか、反乱が勃発したなどの話も聞きません。
さらに、厳しい法律で国を治めたとも考えられていますが、諸葛亮が死んだ時は、李厳や廖立の様に絶望した人もいますし、民衆は嘆き悲しんだ話があります。
中には、李邈のような諸葛亮の死を喜んだ人間もいるようですが、厳しいながらも国内をしっかりとまとめ上げた事が分かります。
それを考えると、確かに諸葛亮は政治力でいえば、管仲に匹敵する人材だったと感じる部分が多いです。
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諸葛亮と管仲は軍事に差があるのか?
問題は軍事なのですが、管仲の軍事に関する記述は余りありません。
しかし、燕が山戎に攻められた時に、斉の桓公と救援に向かって戦いに勝利した記述もありますし、楚の成王と諸侯の軍を率いて対峙した記録も残っています。
管仲は軍事に関しても、失敗した話もありませんし、過失なく行ったのではないかと思えます。
それに比べると、諸葛亮は南征は成功させましたが、魏を相手にする北伐となると、全く勝利を収める事が出来ていません。
魏から領土を奪う事が出来なかったわけです。
管仲は政治と軍事・外交など全て高い能力を持った、オールラウンダーですが、諸葛亮は管仲に比べると軍事的な能力が劣っているのかも知れません。
実際に、正史三国志を書いた陳寿は、諸葛亮が臨機応変の欠けたとする記述を掲載していて、諸葛亮の軍事能力に疑問を抱いていた事が分かります。
それを考えれば、諸葛亮は政治力においては、管仲と互角かも知れませんが、軍事においては能力的に劣っている可能性があります。
諸葛亮は管仲に比べると、万能ではないと感じました。
諸葛亮と楽毅を比較
諸葛亮と楽毅を比較する前に、楽毅がどの様な功績を挙げた人物なのか紹介します。
楽毅は戦国時代の武将で、最初は中山国に仕えていました。
しかし、当時は趙(戦国七雄の一国)に武霊王が即位し、全盛期を迎えようとしていた時期です。
武霊王は、胡服騎射を採用して連年のように、中山国を攻めていました。
中山国には、後に名将と呼ばれる楽毅もいたわけですが、国力の差がありすぎたのか、結局は中山国は滅亡しました。
中山滅亡後に楽毅は、紆余曲折はありましたが、燕の昭王に仕えています。
燕の昭王は、斉に対して酷い恨みを抱いていました。
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当時の斉は、西の秦と並ぶ強国で、東西で帝を名乗った事があるほどの国です。
それに比べて、燕は辺境にあり、超弱小国です。
過去に斉に騙されて国を壊滅状態にされてしまった事から、斉を打倒できる人材を探していたわけです。
燕の昭王は、郭隗(かくかい)の「隗より始めよ」の政策により、優秀な人材を広く求めていました。
この時に、楽毅の他にも劇辛や鄒衍などの人材を集める事に成功しています。
燕の昭王は、国力を充実させると、燕・趙・秦・魏・韓からなる合従軍(連合軍)を結成しています。
合従軍の総大将になったのが楽毅でした。
楽毅は連合軍を率いて、斉と一戦し勝利を得ます。
ここで燕以外の軍は、国に帰ってしまったのですが、燕軍だけは斉に残り各地を平定しました。
楽毅は斉の70城を落とし、斉の城は莒と即墨の2城だけになってしまったと言われます。
楽毅は一戦して勝った勢いで斉を壊滅状態にしてしまいました。
それほどの名将なわけです。
余談ですが、呉の最末期に晋の杜預は、呉を破りました。
この時に、杜預は楽毅を例に出して、呉に進撃する命令を下し、呉の滅亡に大きく貢献しました。
杜預の部下の中には、撤退を進言する者もいましたが、杜預は「今の状態は楽毅が斉を破った状態と同じだ。竹を割くようなものだ。」と言い、呉に進撃して滅亡させています。
これが破竹の勢いの語源に当たるのですが、楽毅が斉を破った戦いは、まさしく破竹の勢いでした。
しかし、斉を滅亡させる直前で、燕の昭王が亡くなってしまい、後を継いだ燕の恵王に疑われて楽毅は趙に亡命しています。
燕はせっかく奪った城を即墨にいた田単に全て取られてしまったわけです。
楽毅は斉を破って、斉の大半を占領してしまった事から、春秋戦国時代でも指折りの名将となっています。
キングダムと言う春秋戦国時代の漫画がありますが、公式ガイドブックによると楽毅が「SS評価」されていて、もっともすぐれた将軍となっていました。
関連記事:【隗より始めよ】燕・昭王の復讐劇
諸葛亮は軍事では楽毅の足元にも及ばない?
楽毅は政治に関しては記録がないので比べようがありませんが、軍事に関しては大功があるわけです。
諸葛亮と楽毅を比べると、軍事能力で言えば圧倒的に楽毅が上だと自分は考えています。
もし仮に諸葛亮が楽毅に匹敵する人材であるのならば、第一次北伐の時に長安以西を制圧するとか、それ位の功績が欲しいなと思いました。
正史三国志を書いた陳寿は、諸葛亮の評で「管仲や蕭何のような人材」と言っています。
諸葛亮は管仲や楽毅に匹敵する人材だと言った訳ですが、陳寿も諸葛亮は軍事で楽毅に及ばないと考えていたのではないかと思います。
戦場でも臨機応変という部分において、諸葛亮は楽毅の足元にも及ばなかったのかも知れません。
関連記事:第一次北伐で諸葛亮が魏に勝てずに失敗に終わった理由
諸葛亮は蕭何に一番近いと思うのだが・・・
今回は、諸葛亮を管仲や楽毅に劣っているような話になってしまったようにも思います。
しかし、実際に諸葛亮の才能を考えると管仲や楽毅とは違っているように思えるわけです。
諸葛亮が最も能力的にマッチするのは、漢の劉邦を支えた蕭何ではないかと自分は考えています。
先ほど述べたように、正史三国志を書いた陳寿も諸葛亮は「管仲や蕭何」の様な人材だと言っているわけです。
蕭何ですが、漢の三傑と呼ばれた韓信・張良と肩を並べる人材となっています。
韓信は将軍として奇策を持って、数多くの戦場で大勝しています。
張良は、様々な策略を劉邦に述べて、劉邦はその策略や戦略を実行した事で天下を取っています。
それに比べると、蕭何は地味なような気がするわけです。
しかし、蕭何は戦場には出ませんでしたが、劉邦の本拠地をしっかりと治めていますし、劉邦は項羽に何度も破れましたが、兵站が切れる事はありませんでした。
劉邦は蕭何の功績を認めて、相国(臣下の最高位)としていますし、最大の功績を挙げたと認めています。
諸葛亮も本来得意なのは、戦場で臨機応変に戦うのではなく、国を公平によく治める事ではないかと思います。
逆に、戦場で作戦を立案したりするのは、龐統や法正の方が優れている様に思いました。
三国志の蜀でいえば、龐統や法正あたりがもう少し長生きしてくれて、諸葛亮は後方を守っているのが、一番合っているのかなと感じています。
素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る
兵站と言うと地味な事に感じるかも知れません。
しかし、兵糧が兵士に届かなければ戦争を行う事が出来ません。
項羽が劉封に敗れた原因の一つに、兵站が続かなかった事があるように思います。
項羽は何度も、彭越に兵站を切られてしまったりもしています。
漢の時代に呉楚七国の乱がありましたが、この戦いで最初は呉王劉濞の軍勢は勢いがありましたが、周亜夫に兵站を切られてしまい敗れています。
それを考えれば、兵站を途切れさせないようにするという事はかなり重要なのでしょう。
諸葛亮は北伐で何度も兵糧が尽きて撤退していますが、前線で法正辺りがいて、諸葛亮が後ろで兵站を司れば、もう少し戦えたのかも知れません。
余談ではありますが、「素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る」という言葉があります。
これによれば、戦いのプロは兵站を語るのが正しいらしいです。
自分もこれを見習い、プロっぽく兵站を語っていきたいと思っておりますw
自分が言ってしまうと「腐れ儒者がまた変な知識を得た」位にしか思われないんですけどねw