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【隗より始めよ】燕・昭王の復讐劇

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【隗より始めよ】は最近では、あまり使われない言葉だと思います。

実際に私も日常生活において使った記憶がありません。

しかし、これって諺になるのか名言になるのか分かりませんが、非常に価値がある言葉です。

【隗より始めよ】という言葉が誕生したいきさつである、燕・昭王の復讐劇を紹介したいと思います。

尚、【隗より始めよ】の話しはキングダムでも外伝とかで書いて欲しいと思っています。

目次

隗より始めよの意味

隗より始めよの意味ですが、最近では、「出来る事から始めよう」くらいの言葉でしかありません。

しかし、本当に大事なのは、この意味ではなく【隗より始めよ】が誕生した物語の背景と燕・昭王のヘッドハンティングの技術にあると思います。

経営者などで、「優秀な人材が集まらない」と嘆いているのであれば、燕・昭王の人材活用術を手本にするべきかも知れません

 

 

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斉に騙される

燕の太子平が斉に騙された事から始まる物語です。

燕の昭王の父親は、「燕王噲(かい)」です。

燕王噲は、宰相である子之に国を任せっきりにしてしまいました。

しかし、子之に全て任せるにあたって、斉が論客を何人も燕に入れて燕王噲を上手に説得したわけです。

斉の狙いは、宰相の子之に全権を任せてしまえば、太子平や大臣などは心配になり国が乱れると判断したからです。

子之は権力欲の権化とも呼ばれ評判もよくない人物でした。

斉の策はあたり、太子平が打倒子之を旗印に立ち上がります。

子之と太子の間で戦争が起きますが、ここで太子平の元に斉から書状が届きます。

内容は、太子に協力して子之を討つというものです。

太子平はこれを見て喜び斉の援軍を呼び寄せて城門を開きました。

しかし、斉軍は太子平を救う気はなく、子之だけではなく燕王噲までも殺してしまうわけです。さらに、燕を平定して支配下におきます。

しかし、2年後に斉が去り太子が立ちました。これが燕の昭王(異説あり後述記載)です。

もちろん、燕の昭王としてみれば斉に裏切られたわけですから恨みを持つことになりました。

尚、この時の斉王は宣王です。

 

 

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隗より始めよ・燕・昭王の人材登用術

斉に裏切られた事で昭王は深い恨みを抱く事になりました。

しかし、当時の斉は西の秦と並んで2大強国でした。

そのため、燕が頑張っても復讐をする相手である斉とは国力の差がありすぎます。

燕の昭王は優秀な人材を多数集め富国強兵に努め斉に復讐しようと考えます。

そこで郭隗という人物に相談します。

燕・昭王「優秀な人材を集めるのにどうすればよいか?」

郭隗「それではまず、隗(郭隗)より始める事になさいませ」

燕・昭王「??」

郭隗「私は世間では中くらいの人材です。私を師と仰ぎ豪邸を建てなさい。」

郭隗「私程度の人材でも優遇されると分かれば、優秀な人材は次々に集まるでしょう」

燕・昭王「分かりました。先生を師と仰ぎ豪邸を建てましょう」

これが不屈の名言として名を馳せている「隗より始めよ」という言葉となりました。

その言葉通りに燕の昭王は郭隗に豪邸を建て師と仰ぎました。これを見た各地の人材は競って燕に来たという話です。

キングダムで登場し李牧や龐煖(ほうけん)に敗れ去った劇辛もこの時に燕に来ました。

ただし、劇辛は当時では武将として名高い人だったようです。

その他にも、陰陽家として名高い鄒衍(すうえん)なども来ています。

しかし、最大の釣り物は魏から来た楽毅でしょう。楽毅は中山国の武将でした。

中山国が武霊王に滅ぼされた時に、中山を離れ趙や魏にいたりしたわけですが、結局は燕の昭王に仕える事になりました。

余談ではありますが、楽毅は三国志の諸葛亮孔明もゆかりが深い人物で「管仲・楽毅」にも匹敵する人物と言っていた話が残っています。

ただし、史実での諸葛孔明を見ると戦闘では楽毅の方が遥かに上手に感じます。

 

楽毅が合従軍を率いて斉を討つ

燕の昭王は生涯に渡って斉への復讐を考えていましたが、それがついに現実になる時がきます。

燕・秦・韓・魏・趙の5カ国と同盟する事に成功し、斉を攻めるわけです。

この五カ国を率いて楽毅が斉に一大決戦を挑みます。

楽毅は斉を済西の戦いで破ります。燕以外の5カ国はこれで国元に帰りますが、燕だけは残って斉の各地を討伐する事になりました。

楽毅は次々に城を落とし、斉は許と即墨の2城を残して全て燕の支配下になりました。

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尚、この時に楽毅の活躍を妬み燕の昭王に悪くいう人もいたようです。

しかし、燕の昭王は讒言したものを斬首しています。

さらに、楽毅を昌国君に任命し領土も与えました。楽毅の労をねぎらったわけです。

ちなみに、燕を騙した宣王は無くなっていて、子の湣王(びんおう)の代になっていました。

楽毅が来ると首都である臨淄(りんし)も陥落して、湣王は亡命しました。

斉を助けに楚の援軍が来たわけですが、楚の将軍である淖歯に湣王は殺されています。

 

燕の昭王が死亡し田単が反撃に出る

楽毅にとってみれば「まさか」という事が起きます。

突然、燕の昭王が亡くなってしまったのです。

燕の次の王様である恵王から楽毅は嫌われていました。楽毅を恵王に讒言するものがいて、楽毅は趙に亡命します。

この時に、即墨で指揮を執っていたのが田単という男です。

田単は楽毅が趙へ亡命したのを聞き喜び奇策を以て燕軍を破り旧斉領を全て奪還します。

さらに、襄王(湣王の子)を王に立てて斉を復興させました。

一人の天才が去った事で燕は大敗し歴史的な偉業を逃したわけです。

ここで昭王の寿命があと5年あれば秦の最大の敵は燕になっていたかも知れません。

キングダムの話しもかなり変わっていた事でしょう。

 

燕・昭王の謎

おまけ的な記事になるのですが、燕・昭王は謎がある人物でもあります。

名君には違いないのですが、正体に謎があるんです。

史記には「燕召公世家」という燕の歴史を書いた部分があります。

そこを見ると、下記のような記述があります。

燕王噲の時に国が乱れた。宰相の子之が独裁政治を行い国が簒奪されると憂えた太子平が子之を攻め数万の使者が出た。

燕国は二つに割れて激闘を繰り返した。

斉の威王の子である宣王は燕の大乱に乗じて兵を起こした。50日でこれを破る

燕王噲が死に。斉は燕に大勝する。子之は滅亡する。2年して燕人が太子平を立てる。これを燕の昭王と為す。

このような記述があります。これを見ると不思議な点は全くありません。

燕王噲と子之が死に、太子平は生き残り、燕の実力者たちによって昭王に立てられた事が分かります。

しかし、燕の西には趙という国があります。

史記の趙の歴史を示した「趙世家」の武霊王31年の部分には下記の記述があります。

「王(武霊王)、公子職を韓より召し、立てて燕王とする」

この記述を見ると燕の昭王は公子職になります。

武霊王が韓に人質?に送られていた公子職に目を付けて趙に招き燕に送り即位させたという話です。

燕の昭王が即位するには、斉軍が撤退しなければいけません。

武霊王が趙の領地を割譲して斉に与えて撤退してもらい、自分にとって扱いやすそうな公子職を燕に送り込んだのかも知れません。

この趙世家の記述を信じてしまうと、燕の昭王は公子職となります。

さらに、史記とは別の本で史記よりも年代が古い魏の歴史を書いた「竹書紀年」という記録には下記の記述があります。

燕の子之、太子平を殺す

子之が太子平を殺したと記載があるのです。

これを信じれば燕の昭王は公子職となるでしょう。

燕の昭王は名君なのですから、この謎は誰かに説いてもらいたいです。

しかし、司馬遷の史記にしても書いてある部分によって、記録の違いは多く見受けられます。

燕の昭王の謎は解明される時が来るのでしょうか?

尚、日本で出版されている小説や春秋戦国時代の本だと昭王は太子平だったり、公子職だったりします・・・。

はっきりして欲しいですね。

 

優秀な人材を集めたい社長さんへ

中小企業の社長なかに優秀な人材が欲しいけど集まらないと嘆く人は多いかと思います。

大企業に比べると、中小企業は行きたい人が少ないです。

なぜ、少ないかと言えば待遇が悪かったり給料が安い問題などがあります。

しかし、思い切って高い給料を払って優秀な人材を集めてみてはどうでしょうか?

ただし、【隗より始めよ】の話しのポイントは、燕の昭王や郭隗が優秀な人材を見抜く目を持っていたからです。

それが一番の原因です。

優秀な人材を見抜くというのは、凄く重要な事でしょう。

特に人事課の人がいましたら、本当に優秀な人材がどのような人材なのか考えてみる必要があります。

武田信玄は「人は石垣人は城」と言いましたが、組織において人は重要です。

ちなみに、私はサラリーマンもしていましたが、窓際族でした。

気にしていませんがw

 

 

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