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魯粛と関羽の会談【勝ち過ぎはよくない】と言う事。

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赤壁の前に孫権と劉備は曹操と対決するために手を組みました。

手を組んだと言っても、劉備軍は流浪の民の軍勢でもあり、主力は孫権が担っていたわけです。

周瑜の活躍もあり赤壁で勝利しますが、荊州の領有を巡って対立していきます。

劉備は荊州を借りる形で手に入れ、劉璋を益州から追い出して、益州を取りました。

しかし、孫権としてみれば荊州を返してもらいたいわけです。

もちろん、癖の強い孫権は荊州返還運動を始めますw

そこで、魯粛が関羽と交渉するわけです。

 

関連記事:魯粛【赤壁の戦い勝利の大立役者】

 

 

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劉備借荊州

中国の諺で「劉備借荊州」というのがあります。

この意味ですが、「借りた物を返さない」という意味です。

実際に、劉備が益州を取った後に、孫権は諸葛瑾(諸葛亮の兄)を使者として劉備に送りました。

内容は、もちろん「益州を取ったんだから荊州を返してくれ」です。

しかし、劉備は「涼州」を取ったら返すと言い、荊州を返そうとしません。

これに孫権は、もちろん激怒するわけです。

劉備が返す気がないのであれば・・・と魯粛や呂蒙などの軍勢で奪還に動きました。

 

魯粛が関羽と対峙

この動きに対して荊州を劉備から任されている関羽が動きます。

魯粛の軍と対峙するわけです。

魯粛の方は1万の兵で関羽と対峙しますが、残りの兵を呂蒙に任せています。

呂蒙の軍は、長沙、桂陽、零陵を奪取しました。

零陵は劉備に対して忠誠が強い郝普が守っていましたが、呂蒙は計略を持って零陵を落としています。

この頃の呂蒙は「呉下の阿蒙にあらず」と言った状態で、戦略や策略も身に着けていた事が分かります。

 

 

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劉備が救援に来る

荊州が孫権に攻められたと言う事で劉備も関羽の救援に公安まで来ています。

劉備としては、魯粛には赤壁の戦い前などに恩がありますし、魯粛は親劉備派なので揉めたくはなかったでしょう。

しかし、荊州も孫権に返したくない状態です。

この時の、劉備は5万の兵を率いていたようなので、魯粛や呂蒙の軍は4万ほどですし、劉備軍の方が数は多かったわけです。

しかし、益州は取ったばかりで不安定な部分もありますし、曹操が漢中の張魯を攻めたので、出来ればさっさと帰りたい状態でした。

劉備の方も泣き所があったわけです。

 

単刀赴会

ここにおいて劉備側の代表である関羽と孫権側の代表である魯粛が会談を行う事になります。

四字熟語でいえば「単刀赴会」の元になった話です。

三国志演義などでは、刀一つで敵陣に乗り込む関羽の勇気を称賛するエピソードになるわけですが、実際に会談の主導権を握ったのは魯粛の方です。

個人的には、魯粛と関羽が一騎打ちになり魯粛が関羽を倒したら面白いなと思うのですがw

 

魯粛と関羽の会談が始まる

魯粛と関羽の会談ですが、主張が違っているわけです

関羽の主張は下記の通りです

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関羽「赤壁の戦いの折に劉備主従は烏林に進み敵を破ったが何も褒賞を貰う事が出来なかった。褒賞として荊州があってもいいのではないか」

つまり、赤壁の戦いの事を言い荊州を返したくないと言ったわけです。

しかし、魯粛は次のように述べています

魯粛「赤壁の戦いの前に劉備主従は曹操に敗れて流浪の状態だった。軍勢でいえば一部隊にも満たなかったが、それを哀れに思い救ったのは呉だ。劉備主従では曹操に対抗する事も出来なかった」

このように述べています。さらに、劉備主従は魯粛が助けてくれたから、滅びなかった恩もあるので、魯粛と事を立てたくなかったようです。

尚、関羽の家来が「土地は徳のある者につくべきだ。」と劉備のものだと主張しましたが、魯粛は一喝しています。

三国志では気弱なイメージがある魯粛ですが、実際には、かなり豪胆な人物です。

 

関連記事:魯粛と周瑜【魯粛は決して怒られ役ではない】

 

実際に、魯粛と関羽の会見は魯粛に分があったようです。

武辺者の関羽では外交でいえば魯粛の足元にも及ばなかったようです。

 

劉備が荊州の一部を返還する

関羽の一存だけで決める事は出来ないので、劉備に使者を立てる事にしました。

これで決まったのが、長沙、桂陽は孫権に返還する事です。

この時に、劉備は成都に帰って益州を安定させたり、漢中の曹操に備えたりしなければなりませんでした。

その事を考えると、孫権陣営や魯粛は時間を引き延ばせば劉備が折れて零陵も孫権に返還する事は可能だったでしょう。

さらに、零陵は呂蒙が既に奪取しているので、孫権も支配地域になっているわけです。

しかし、魯粛は零陵を劉備にわざと返還しています。

これには理由があり、孫権が全部取ってしまうと劉備は孫権に対して恨みを抱く事になるからです。

これを避けるために、バランスを取り魯粛は零陵を返還したようです。

このバランス感覚があるところも魯粛の優れた点なのでしょう。

さらに、呂蒙も戦略家として急成長していますし、この当時の呉は周瑜が死んでしまったにも関わらず人材の宝庫でした。

 

勝ち過ぎは良くない?

最近、戦国大名である今川義元が再評価されています。

それによると、北条氏と戦った時に、相手の恨みを買うからと徹底的に叩かなかった事を評価されていました。

駿河の国の一部を北条に取られたわけですが、駿河を取り返した時点で兵を引いた事です。

これは勝ち過ぎて相手に恨みを買わないように配慮したとされています。

これと同じことを魯粛は考えたのかも知れません。

長沙、桂陽、零陵を取る事も出来たけど、劉備をここで一気に滅ぼす事は出来ないから、零陵は劉備に残したのでしょう。

何が何でも勝てばいいと考えるよりは、相手の恨みを買わないようにする事も大事だという事を教えてくれます。

昔、麻雀放浪記を執筆した阿佐田哲也氏が勝ち過ぎる人に「たまには小さく負けてごらん」と言っていたのも印相的でした。

勝つだけじゃなく相手の事も考える事が大事だと魯粛の外交からは見て取る事が出来ます。

魯粛が優れた人材である事が分かりますね

歴史上では一時的には勝ったけど、相手の恨みを買い反撃にあい酷い目にあった人も少なくありません。

現代社会でもよくある事ですよね。

冷遇していた人が転職して、他の会社に行き凄く活躍している場合などです。

織田信長辺りも一時的には勝ったけど、本能寺の変で死んだ事を考えれば勝ち過ぎていたのかも知れませんね。

 

 

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