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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

三国志

孫権の偉大さが分からない方へ

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孫権は三国志の中でも有能な人物と評価される事が多いです。

守成の名君などの忍耐強さを評価される事があります。

三国志のゲームでも能力値は高めに設定されていますし、ゲーム会社の方からも評価されている事が分かります。

しかし、実際の孫権の史実での活躍を見ると「どこが凄いのか分からない?」と思える部分が多々あるように思うわけです。

実際に、私も孫権は失敗も多いですし、凄さが分からなかったりもしました。

それでも、乱世の三国時代にあって、その一角にいるわけです。

名君でなければ国を滅ぼしてしまう事でしょう。

今回は、孫権の凄さが分かりにくい点と、凄さについて考えてみました。

尚、上記の画像はKOEIさんの「爆笑三国志」から拝借しました。

非常に孫権をよく描けていると関心してしまった次第ですw

 

 

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目次

孫権は戦下手である

孫権の凄さが分かりにくい点の一つとして戦下手だと言うのがあります。

兄である孫策は軍隊を指揮するのが非常に優れていて、太史慈・劉繇・王朗などの群雄を打ち破って勢力を拡大していきました。

父親である孫堅も徐栄には敗れたり怪我も多いですが、すぐに回復して戦場に向かい敵を打ち破っています。

それに対して、孫権が軍隊を指揮して勝った事があるのか?と思えるほどです。

合肥の戦いでは、圧倒的に有利にいながらも魏の張遼・李典・楽進に敗れていますし、孫権自身が捕虜になる寸前でした。

この事からも孫権が戦下手だと思えるわけです。

尚、三国志のゲームなどでも初期の頃に比べて、武力系の能力値が低下しているのは、戦下手を製作者側が考慮したのだと思われます。

孫権は、「出れば負け軍師」と言われた郭図ほどではありませんが、「出れば負け将軍」な所もあるように思いますw

ただし、孫権を戦場で見た曹操が「孫権のような息子が欲しい」と言った記録があるので、そこまでは酷くないのかも知れません。

しかし、孫権の戦下手は確実でしょうw

逆に戦だけであれば袁紹の方が上手いのでは?とも感じるわけです。

 

 

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難しい性格をしている

孫権と言えば部下をよく信頼したなどの話しも聞きます。

諸葛瑾が諸葛亮との兄弟の関係を利用してやり取りをした時に、孫権の周りでは「諸葛瑾が蜀に内通している」という噂が立ちました。

孫権はそれらの事に聞く耳を持たなかったという話を聞いています。

これを聞くと孫権って部下の事をよく信頼してる人格者だよな~と思うかも知れません。

しかし、別の話しでは驢馬に「諸葛瑾」という名札を付けておいたという話もあるんです。

諸葛瑾は驢馬のような顔をしていたらしく、諸葛瑾をからかって孫権がやったそうですw

諸葛恪が「諸葛瑾の驢馬」と書き換えた話が残っています。

この話を諸葛恪が機転が利くと言う話になっているのですが、孫権の性格も表していると思いますw

諸葛瑾にした事は、邪念はないにしても明らかにからかっていますし、人によっては怒る行為です。

とても人格者が行う行為には見えないわけですw

夷陵の戦いの後に、蜀からは鄧芝を派遣して呉との友好を修復しようと呉にやってきました。

この時に、孫権は「釜茹での刑」の準備をして鄧芝に会ったとされていますw

鄧芝を試すための行動でもあったはずですが、これも孫権の性格を表していると思いました。

さらに、孫権は酒癖が悪く酒によって家来を斬ってしまった事もあります。

宴席では孫権には近づくなというのが、呉の臣下の合言葉になっていたようですw

他にも、重臣である張昭には赤壁の戦いの後に「あなたの言う事を聞いていたら大変な目に合っていた」と言ってしまったそうですw

張昭は赤壁の戦いでは、降伏派の筆頭だったので、非常に恥じたとされています。

張昭の性格的な所もありますが、孫権は相手が言われたくない事も容赦なく嫌味として言ってしまうようです。

この辺りも孫権は性格が悪いと言える気がしますw

このように孫権には性格的な問題も抱えているわけですw

 

読書家ではあるが、どの様に役立てたのかは不明

孫権といえば読書家としても有名です。

「易」などの占い系は嫌いだったようですが、春秋左氏伝、六韜、孫子、呉子、韓非子、論語、国語など数多くの本は読んでいたようです。

さらに、自分が覚えるだけではなく、呂蒙や蒋欽などにも読書を進めています。

その結果として、呂蒙は関羽討伐において見事な戦略を立てて蜀から荊州を駆逐しています。

しかし、孫権が読書が好きだったと言っても政治でどのように役立てたのかは一切分かりません。

記録が残っていないだけかも知れませんが、本を実践で生かした形跡をイマイチ感じる事が出来ないわけです。

さらに、孫権の性格などを考慮すると、春秋左氏伝によく登場する君子などからは、「孫権の行動は礼に合致していない」と批判されそうにも感じるわけですw

読書家としてインプットは得意ですが、アウトプットは苦手だったのかも知れません。

 

関連記事:関羽は死んで当然だと思った件!【威張られたい奴はいない】

関連記事:【呉下の阿蒙に非ず】呂蒙が武将から知将に覚醒する

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致命的なミスを犯さない

孫権ですが、孫策が築いた地盤を引き継いだわけですが、致命的なミスは犯さなかったのではないかと思います。

合肥の戦いのように大軍を率いて攻めながらも、城を落とせなかったり、張昭が死んだ辺りからおかしくなり老害になっていきますが、国を滅亡させるような致命的なミスは犯さなかったように思います。

そのため国を保てたのではないでしょうか?

戦いで大敗をしても、呉軍が総崩れにならなかったのも孫権の手腕なのかも知れません。

国を滅ぼすような致命的なミスを犯さなかったり、時と場合によっては魏に服従したりと柔軟にやっています。

この辺りが守成の名君だとか、越王句践の様な忍耐強さを持っているという評価をされる原因なのでしょう。

経営者などで言えば出口戦略が上手かったのではないかとも考えられます。

さらに、赤壁の戦いの前のように、魯粛しか魏との戦いを主張する人がいなかったのに、意地を見せて戦いを挑んだなどのピンポイントでの覇気の強さなども孫権の持っている魅力だと感じます。

 

運がいい

孫権を見ていると、運の良さも感じるわけです。

父親である孫堅は土地は残してくれませんでしたが、程普・黄蓋などの優秀な家臣を残してくれました。

さらに、兄である孫策は土地も残してくれましたし、新しい有能な家臣団も残してくれたわけです。

曹操が荊州の劉琮を降伏させて、呉に迫ると赤壁の戦いが起こりますが、名将周瑜の采配により曹操を打ち破っています。

その後、周瑜は亡くなってしまいますが、魯粛が活躍しています。

関羽が北伐を初めて呉に脅威となると、今度は戦略的な知将に変化した呂蒙が関羽を破り荊州を奪ったわけです。

さらに、劉備が関羽の弔い合戦に出てくると夷陵の戦いで陸遜が大活躍しています。

このように孫権は家臣に恵まれていましたし運がいい様にも思えるわけです。

運がいいと言うと、「運だけの人か~」とガッカリするかも知れませんが、歴史などを見ると運がいいと言うのは非常に重要な要素です。

春秋戦国時代の名宰相である管仲であっても、斉の桓公がいて鮑叔が推薦してくれなかったら活躍は出来なかったでしょう。

三国志でも劉備が無名時代に関羽や張飛と知り合いになれなかったら蜀の国が作れたかも分かりません。

諸葛亮との出会いなども運がよかたっと言うべきでしょう。

家臣ばかり言ってしまいましたが、君主でもよい臣下でしかも話を聞きたいと思える人が近くにいたのは、運がいいと言う事だと思います。

ただし、「運をよくするにはどうすればいいか?」と聞かれると私にも分かりませんw

しかし、運をよくするためには「幸せのツボ」を買ってみたり、お金が貯まる黄色の財布を買う、占い師に30万つぎ込むではないと考えていますw

 

改心する

孫権のよい部分ですが、改心すると言う事だと思います。

失敗もしますけど、悔い改める行動をすると言う事です。

張昭は名士でもありましたし、孫策に孫権の事を頼まれていたという事もあり、かなり煩く言ったようです。

もちろん、孫権自身も張昭の事を「煩い奴だ」とも感じていたようで、完全に対立してしまうような事もありました。

この時は、孫権が悪いと思って張昭の家まで謝りに言っています。

しかし、張昭は意地を張って出てこないわけですが、家に火を着けてしまった話もありますw

その後は孫権と張昭は仲直りしたようです。

ただし、翌日には張昭に煩く言われて、切れ気味だったと思いますがw

これを見ると春秋戦国時代に趙の宰相をやった平原君にも近いような気がしてきました。

平原君もかなり失敗をしているわけですが、人の意見を聞いたり悔い改めていたりしているわけです。

その辺りは孫権に似ているように思います。

孫権は酒癖も悪く部下を斬ってしまう事もありますが、酔いが冷めると酷く後悔していた話も残っているわけです。

ただし、これにより酒癖が治ったという話は聞いていませんw

しかし、反省が出来る点は孫権の美点ではないかと思っています。

 

偉大な人はどこが優れているのか分からない

孫権は名君と呼べるかですが、私は名君ではないかと思っています。

やはり呉の国を発展させた功績はありますし、国を崩壊させる事もありませんでした。

もちろん、後継者問題で皇太子派と魯王派を作ってしまったりと失敗もしています。

諫めた陸遜が憤死するなどの事も起きています。

他にも、幼い孫亮を後継者にして、諸葛恪を太傅に任命して後を託したが諸葛恪が失敗したなどの話しもあるわけです。

しかし、乱世の時代に家臣に支えられながらも国を保った人物なので名君と呼べると私は考えています。

宮城谷昌光さんの小説三国志で孫権が亡くなるシーンで、孫弘が「孫権の事をどこが優れているのか分からない」と考える場面があります。

宮城谷昌光さんが「偉大な人とはそういうものだ」という解説がありました。

この言葉は当たっているのではないかと、私は思いました。

偉大な人というのは、どこが優秀な分からないけど、国を保った人なのでしょう。

ちなみに、私もどこが優秀なのか分からない人だと思います。w

それを考えれば自分も偉大な人の第一歩を踏み込んだかも知れませんw

自分の場合は、単なる無能な奴の可能性も高いですが・・・。

 

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