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【泣いて馬謖を斬る】諸葛亮の行為は、批判されていた!?

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「泣いて馬謖を斬る」という言葉をご存知でしょうか?

故事成語として、ニュースなどでも使われる事があります。

意味としては、「可愛がっていた部下が失敗した時に、仕方なく処分する」などを指します。

「泣いて馬謖を斬る」の話ですが、蜀の劉封も可愛そうですが、馬謖も可哀そうな所があるような気がします。

「泣いて馬謖を斬る」は、三国志で蜀の諸葛亮孔明が、部下である馬謖が命令に背き街亭の戦いで、魏の張郃に敗れて処刑した故事に由来しています。

諸葛亮は自分の命令を違反した事で、馬謖を処分したわけですが、一般的には軍規の大切さを将兵に分からせる為とも言われています。

さらに、諸葛亮と馬謖が仲が良かった事で、諸葛亮は涙を流したとも、それをみた蜀軍の全兵士が泣いたともされています。

一般的には、法の大切さを教える為の美談として、語られる場合が多いようです。

しかし、諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」を批判する人がいる事実もあるわけです。

泣いて馬謖を斬るの出来事が、なぜ批判されるのか?を紹介します。

尚、馬謖は「馬氏の五常白眉最も良し」で有名な馬良の弟でもあります。

兄である馬良は正史三国志によれば、夷陵の戦いで戦死しています。

上記の画像は、横山光輝さんが描く漫画三国志の一コマですが、馬謖の失態に対して、諸葛亮の痛々しさが伝わってくる描写になっています。

 

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馬謖を斬らなければならなかった理由

「泣いて馬謖を斬る」という故事ですが、そもそもなぜ馬謖を斬らなければいけなかったのか?を解説します。

元々諸葛亮と馬謖は、非常に仲が良く気が合ったようです。

さらに、意見交換などを始めると、諸葛亮と馬謖は夢中になってしまい深夜まで及んでしまったとされています。

諸葛亮は、南征を成功させて孟獲を降伏させると、魏の領土を侵し北伐を始めています。

街亭の戦いで、魏と戦う武将を選ぶ時に、馬謖を任命したわけです。

馬謖と言うのは、これ以前に特に戦いに参加した記録もないので、初陣のような形だったのかも知れません。

当時の蜀には、戦においてはベテランである魏延や呉懿(呉壱)がいたので、彼らが選ばれると思っていた人が大半でした。

そういう空気が流れる中で、諸葛亮は馬謖を大抜擢しました。

尚、諸葛亮は馬謖の事を大いに気に入っていましたが、劉備は馬謖を評価していませんでした。

劉備は諸葛亮に遺言するわけですが、馬謖と諸葛亮が仲がいい事を危惧し「馬謖は口だけで役に立たないから、重要な任務を与えてはいけない」と言っています。

 

街亭の戦いで大敗する

街亭の戦いで、馬謖が総大将となり副将は経験豊富な王平が選ばれました。

街亭に行く馬謖に対して諸葛亮は「山頂に布陣してはならない」と戒めています。

山頂は孤立しやすく水源が絶たれやすい事を危惧しての発言だったようです。

しかし、街亭に馬謖が到着すると、山頂に陣を築いています。

王平は何度も反対をしますが、馬謖は聞く耳を持ちませんでした。

馬謖は、諸葛亮の言葉よりも、高地を占拠する事で戦いを有利に進める事を選んだわけです。

しかし、魏の張郃が攻めてくると、水源を絶たれてしまい、馬謖の軍は苦しめられて大敗しています。

ただし、王平は負ける事を意識していた為、敗退する時も、陣太鼓を鳴らして敵に伏兵がいると思わせて、魏に追撃を許しませんでした。

それに大して馬謖は、踏みとどまる事も出来ずに大敗してしまったのでしょう。

趙雲や鄧芝も箕谷において、曹真に敗れていますが、撤退戦が見事だった為に、踏みとどまり大敗はしていません。

馬謖は、撤退戦の時も何も出来なかったので、処罰がされる事が確実になったのでしょう。

勝敗は兵家の常とも言いますが、馬謖の敗退の仕方も大問題だったわけです。

 

 

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泣いて馬謖を斬る

街亭の戦いで破れた、馬謖に対して諸葛亮は処分しなければならなくなりました。

命令違反があった為に、諸葛亮は馬謖を処刑する事にしたわけです。

街亭の戦いでは、多くの兵士が死亡した事もあり、責任を馬謖に取らせる事にしたのでしょう。

しかし、諸葛亮と馬謖は大変仲が良かったために、諸葛亮は涙して馬謖を斬ったと記録があります。

ただし、涙をした理由ですが、「劉備の遺言を聞かずに、馬謖を見抜けなかった自分の不甲斐なさに涙した」とも言われています。

馬謖を斬ったのは、諸葛亮の個人的な人情よりも、法を重視した結果だとも考えられています。

尚、諸葛亮は法に関しては、かなり厳格な人で法が緩ければ、戦場では死人が逆に増えるとも考えていたようです。

そのため、身内びいきをして馬謖を許しては、軍規が緩み全体に悪影響が出るとも考えたのかも知れません。

そのため、泣いて馬謖を斬った可能性も十分にあります。

ただし、正史三国志の蜀書・馬良伝の馬謖の部分には、「馬謖は投獄して死に」という言葉があり、処刑されたとは書かれていません。

この言葉だと、馬謖は獄に繋がれていた時にショックで食べ物が食べれなくなり餓死したとか、獄の中で自害したようなニュアンスにも思えます。

馬謖を斬った記述があるのは、諸葛亮伝や王平伝などです。

 

蒋琬が諸葛亮を批判

馬謖は、街亭の戦いで破れた馬謖を漢中に戻ると即座に処刑してしまいました。

これに関して蒋琬が、諸葛亮の事を批判するような事を言っています。

蒋琬「天下がまだ平定されていないのに、智謀の死である馬謖を殺してしまうのは、楚の成得臣(子玉)を殺して、晋の文公(重耳)を喜ばせるのと同じではありませんか」

この話は、重耳が城濮の戦いで子玉を破った時の話しです。

戦いでは、先軫の意見を取り入れて子玉に勝ちましたが、子玉を討ち取ってはいませんでした。

重耳は、「戦いに勝って心が安らかになるのは、聖人だけだ。城濮の戦いでは勝ったが、子玉はまだ生きている。だから心が憂えるのだ」と言い放っています。

しかし、子玉は戦いで負けて、楚の成王の元に戻ると、楚の成王は子玉を誅しています。

子玉が死んだ事を聞いた晋の文公は、ここにおいてようやく不安がなくなったのか、安堵したという話が残っています。

重耳と言う人は、晋の内乱に巻き込まれて他国を亡命する事、19年にも及んだ苦労人でもあります。

晋の文公として即位したのも、60歳を過ぎてからです。

亡命生活の間にも、一度は勝っても逆襲されたり、敗れ去り死に至った人を何人も見てきたのでしょう。

屈辱をばねに、相手が意地を見せる事を恐れての言葉だったのかも知れません。

蒋琬は、諸葛亮が馬謖を斬る行為は、楚の成王が子玉を殺してしまう行為と同じで、魏を喜ばせるだけなのでは?と言ったわけです。

尚、蒋琬としては、馬謖を漢中ですぐに斬らずに、蜀に護送して、しっかりと取り調べをした上で、蜀の皇帝である劉禅に上表して判断を仰ぐようにするべきだったのでは?と言いたかったのかも知れません。

劉禅は、暗愚と言われていますが邪気はない人にも思えます。

そのため、劉禅に上表すれば馬謖は助かった可能性もあるはずです。

蒋琬の意見に対しては、諸葛亮は次のような発言を行った記録が残っています。

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「呉王闔閭を覇者にした孫武が勝利を得る事が出来たのは、法の執行が明確だった為です。晋の悼公の時代に、悼公の寵臣である楊干が法を乱した時に、魏絳が即座に斬りすてました。法を疎かにすれば国が弱まり賊を討つ事は出来ません」

孫武と言うのは、孫子の兵法書の著者としても有名です。

晋の悼公は、春秋戦国時代の人で晋の最後の名君と呼ばれている人物で、魏絳はその下で活躍した名宰相といえます。

尚、魏絳の子孫が春秋戦国時代の「魏」の君主となっています。

話を戻しますが、諸葛亮の言葉に対して、蒋琬がまた反論をしたという話も聞いた事がないので、蒋琬としても諸葛亮の話に納得が出来る部分もあったのでしょう。

諸葛亮は、人よりも法律を大事にする人だった事が分かります。

ただし、蒋琬としてみては、諸葛亮にも任命責任はあり、戦いに敗れた責任を馬謖に擦り付けたように見えた可能性もあります。

そこから出た言葉が、先の発言だったのかも知れません。

 

習鑿歯も諸葛亮を批判

東晋時代に、習鑿歯(しゅうさくし)という人物がいて、諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」について、痛烈に批判しています。

習鑿歯は、襄陽記や漢晋春秋の著者としても有名な人物です。

習鑿歯は、諸葛亮が馬謖を斬る行為を見て「天下統一出来なくて当然」だと言っています。

その理由ですが、春秋戦国時代に晋の荀林父は、邲の戦いにおいて楚の荘王に大敗しているわけです。

この時の荀林父は戦い方も不味く、将兵たちもバラバラで上手くまとめ上げる事が出来ませんでした。

このバラバラの軍が楚と戦いコテンパンに敗れてしまいます。

これにより晋は覇者の座から滑り落ちてしまい、中華で最強の国は楚だと言う事を諸侯にも認識されてしまいました。

総大将の荀林父としては、面目も失いますし、法で考えれば処刑される事も十分に考えられました。

実際に荀林父は、主君である晋の景公に会うと、死を賜るように願っています。

しかし、景公はそれを許さず法を曲げて、荀林父に正卿を続けさせたわけです。

荀林父は、邲の戦いを反省として晋をまとめ上げて、後には狄を討伐するなど国勢を盛んにしました。

一度は敗れはしましたが、荀林父は意地を見せてくれたわけです。

他にも、習鑿歯は曹沫の事例も引き合いに出しています。

春秋戦国時代の曹沫(そうばつ)は、魯の荘公に認められて将軍となり一度は斉を大破しています。

しかし、その後は3度破れています。

それにも関わらず魯の荘公は、曹沫は解任させる事はせずに将軍としていたわけです。

魯の荘公と、斉の桓公が会見をする時に、曹沫は桓公を襲い匕首を喉につけて刺客となり、魯から奪った領地の返還を求めています。

斉の宰相である管仲が許した事もあり、魯は斉から奪われた領地を取り戻す事に成功しています。

曹沫も3度戦いに敗れはしましたが、見事に意地を見せてくれたわけです。

習鑿歯は、一度の失敗で諸葛亮が馬謖を斬る行為を行ったのでは、天下を取れなくて当然だと痛烈に批判しています。

さらに、習鑿歯は諸葛亮が馬謖を斬りたがっている、ようにしか思えないとまで言っています。

これを考えると、諸葛亮が馬謖を斬らなければ、後に馬謖が意地を見せてくれて活躍が見れた可能性もあるでしょう。

諸葛亮は、馬謖が気に入っていて自分の後継者として、次の丞相となるのは馬謖だと思っていた説もあります。

それを考えると「泣いて馬謖を斬る」を実行しなければ、諸葛亮の後継者は蒋琬でも、費禕でも姜維でもなく馬謖だった可能性があるのかも知れません。

ただし、歴史上を見ると挽回出来なかった人もいるわけです。

それを考えると、どちらが正しいのかは分からない部分もあるでしょう。

 

馬謖の死は当然だった?

馬謖の死は当然だったとする説があります。

この説は、正史三国志の向朗伝の記述によります。

向朗(しょうろう)ですが、馬謖と非常に仲がよかった人物です。

向朗伝によると、向朗が馬謖が逃亡するのを見逃したとする話があります。

向朗は、見逃すわけですが、馬謖は捕まってしまい処刑されるわけです。

獄に繋がれていたのに、馬謖が逃亡してしまうのであれば、殺されてもおかしくはないでしょう。

脱獄などはフォローのしようがありませんし、処刑されて当然だと言えます。

さらに、馬謖は諸葛亮に次のような手紙を送っています。

「明公(諸葛亮)は、私を我が子のように扱ってくれました。私も明公の事を父の様に思っていました。瞬は、治水においてが失敗して処刑しても、子であるを用いています。この事をよくお考えください。平生の交わりをそこなう事が無いようにしてくれれば、私は冥土に行っても、何の心残りもありません」

このように潔い手紙を送っているわけです。

瞬との話しは、自分(馬謖)は死んでも、自分の子が有能であれば使って欲しいと言っています。

これだけ立派な手紙を諸葛亮に送っておきながら、馬謖自体が逃亡したと言うのは、諸葛亮から見れば裏切り行為にも取れるわけです。

自分がこれをやられたら「ぶっ殺してやる!」と思ってしまうかも知れませんw

さらに、こういう手紙を送るのは、逃亡する為に諸葛亮を油断させる為の手紙では?と考えられても不思議ではありません。

馬謖と諸葛亮は、過去に信じられない位の対話を重ねていたはずです。

馬謖が逃亡して諸葛亮が斬ったと言うのであれば、「泣いて馬謖を斬る」の意味合いがかなり変わって来るような気がします。

諸葛亮としては「自分には人を見る目がなかった」と、自分の不明さを涙した事でしょう。

しかし、逃亡するのであれば、斬られて当然だと思われます。

 

法と人のどちらが大事なのか?

諸葛亮を見ていると、法に関してはかなり厳しいと思えてなりません。

秦の始皇帝や韓非子、李斯ほどは厳しくは無いのかも知れませんが、法に関してはかなり厳格な方です。

ただし、諸葛亮は法は厳しくても、公平さがあった為に人々からの不満はなかったとも言われています。

しかし、泣いて馬謖を斬るに関しては、法が厳しすぎると考える人もいた事実もあります。

それを考えると「法」と「人」はどちらが大事なのか?となるわけです。

これを考えると、さじ加減が大事かなと自分は考えています。

法律も厳しすぎてはいけませんし、緩すぎてもいけないと思っています。

人に対しても、温情があり過ぎても、非情であり過ぎてもいけないのでは?と思います。

実際に、優しすぎて温情があり過ぎてしまっては、舐められてしまったりして規律は緩んでしまうはずです。

逆に、法律が厳しすぎると酷吏のような人が多数集まり、秦のように社会の不満が増大し、何かの拍子に爆発してもおかしくはないです。

それを考えれば、厳しすぎても、温情があり過ぎても行かないと感じています。

ちなみに、自分の場合だと、中庸を目指しているわけですが、言っている事が気分によって左右されてしまいがちですw

日によって、全然違う事を言っていて統一感がありません・・

自分が諸葛亮であったら気分次第で、馬謖を殺害したり生かしたりしてしまう可能性も十分にあります・・・。

しかし、処刑する時だけは、ちゃんと涙を流す様に思います・・。

これが一番、最悪なのかも知れません・・。

 

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