三国志

麋竺は、誠実な人だと思う!諸葛亮よりも厚遇される

2021年4月5日

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宮下悠史

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麋竺と言えば、三国志の中では、それほど目立つ存在ではないように思います。

弟である糜芳の方が、傅士仁らと共に関羽を裏切った事から有名ではないかと考えています。

もちろん、悪い意味で有名になってしまったような気もしますが・・・。

今回は、徐州で陶謙に仕えて、劉備が徐州の主になるのに、大きな役割を担った麋竺を紹介します。

尚、麋竺は、徐州においては絶大なる資産家であり小作人が1万人いたとされています。

実際に、私が住んでいる田舎町の人口が1万人ほどなので、街全体が麋竺の資産と同じ状態だと言う事を指します。

ちなみに、劉備は、資産家の麋竺の財力を持って態勢を立て直したりしているわけです。

これが可能だと言う事は、よっぽどの金持ちだったと言う事でしょう。

ちなみに、劉備は益州を手に入れると、麋竺を席次順では諸葛亮の上位に置いています。

如何に、麋竺を信頼していたのか分かるような気がします。

尚、麋竺という人物は、誠実な人だとは思いますが、それほどやり手という人物には感じません。

麋竺は正史三国志では許糜孫簡伊秦伝に下記の人物と共に伝が立てられています。

許靖糜竺孫乾簡雍伊籍秦宓

陶謙に仕える

陳寿の書いた正史三国志によると、徐州の牧である陶謙に招かれて別駕従事になったとあります。

代々資産家で利殖に努めていましたが、名声が高かったのか仕官したと言う事でしょう。

麋竺が仕官した陶謙という人物ですが、三国志演義では劉備に徐州を譲った優しそうなお爺さんというイメージかも知れません。

しかし、史実での陶謙はかなり粗ぶった行動もしているわけです。

徐州には闕宣という、自分で天子を名乗ってしまうような人がいました。

後漢の朝廷から見れば明らかに、逆賊になるのですが、陶謙は闕宣と手を組み曹操と対峙しています。

しかし、用済みと思ったのか闕宣を殺害し、闕宣の勢力を全て吸収してしまったわけです。

他にも、後に呉の孫権の重鎮となる張昭が仕官に応じないと投獄するなどもしています・・・。

正史三国志では「感情のままに動き道義に背く人物」とも書かれていました。

このため陶謙は性格にも難があり、使えるのが難しそうですが、麋竺は自分に持っていないものを持っていると思ったのか仕官しています。

後に劉備に仕えるわけですが、劉備の方も戦場で死んだふりをしたり、督郵を200回杖で殴るなど荒ぶった行動が多いわけです。

しかし、陶謙や劉備には不思議な魅力があり、それに巻き込まれてしまったのが麋竺ではないかと考えています。

劉備を徐州の主にする

陶謙が亡くなると、死亡する直前で劉備を徐州の主にするように、遺言したとされています。

陶謙が本当に劉備を跡継ぎにするように、遺言をしたのかは麋竺しか分からないという説もあります。

陶謙の死ぬ間際にいたのが、麋竺だけだという説もあるからです。

陶謙は、生前に曹操に攻められて何度か苦杯を味わっているわけです。

もちろん、曹操の父である曹嵩が陶謙の領内で殺害されてしまった事件なども原因としてあります。

曹操を相手に陶謙は苦しい立場になってしまうわけですが、これを救ったのが劉備です。

劉備も早々に敗れたりしましたが、殿を務めると関羽や張飛が、曹操配下の曹仁を撃退するなど活躍もしています。

これにより難がさった陶謙ですが、数日後に発病してしまい、劉備を徐州の主にするように麋竺に言い残して死んだとされています。

陶謙には、二人の子供がいましたが、それらを後継者とせず劉備を後継者に指名した事で、麋竺も驚いたかも知れません。

麋竺の悩み

麋竺ですが、この時に悩んだ事は間違いないと思います。

劉備は、陶謙の援軍としてきましたが、本当に徐州の主にしてよいのか?という事です。

他にも、麋竺は徐州においては、大資産家なわけです。

つまり、徐州が荒廃してしまうようであれば、自分の資産も吹き飛んでしまう事でしょう。

そのため、本当に劉備を徐州の主に着けてよいのか悩んだはずです。

尚、陶謙が本当に麋竺に劉備を後継者にするように、指名したのか?ですが、恐らく本当に指名したのではないかと考えています。

麋竺という人の生き方を見ると、計略や策謀を使うなどは苦手な人のように思うわけです。

すごく誠実な人なので、遺言を自分の利益を考えて捻じ曲げるような、末期の趙高のような事はしないのではないかと考えています。

趙高と一緒にされたら迷惑かも知れませんが・・・。

陳登と孔融が劉備を説得する

陶謙が死亡して、劉備を後に継がせる計画ですが、時間との戦いでもありました。

というのは、当時は長安に後漢王朝の政府がまだあったわけです。

長安に皇帝である献帝がいましたし、董卓亡き後は、賈詡の進言を入れて王允呂布を討った李傕郭汜も健在だったからです。

つまり、長安の政府が陶謙の死を知れば、別の人物を送り込んでくる事も十分に考えられました。

さらに、汝南袁氏袁紹袁術も健在ですし、自分に都合の良い人物を刺史として送り込んでくる事も十分に考えられたからです。

麋竺という人は根回しをしたりすることは苦手だったのでしょう。

名士である陳登に相談すると、劉備を徐州の主にするのに賛同を得られて、陳登は劉備を説得に掛かります。

尚、陳登というのは、三国志演義で呂布を翻弄しまくった陳珪の息子です。

陳登の説得に対して、劉備は突然の事だったためか、怪しんだのか「自分には徳が無い」と言い放ち断ったとされています。

すると、陳登は孔融に説得を依頼して、劉備を説得しています。

孔融は名士として鳴り響いていましたし、朝廷にも推挙すると言う事で、劉備も徐州の主になる事を決めたわけです。

孔融は以前、黄巾賊に囲まれた時に、太史慈が包囲を破り劉備に援軍を依頼した時がありました。

この時に、劉備は3000の兵を引き連れて援軍として現れて、黄巾賊を打ち破っています。

そのため、孔融は劉備に好意があったのではないかと思われます。

ここにおいて、陶謙が麋竺に遺言したように、劉備が徐州の主となったわけです。

これを見ると、麋竺は何もしていないように思われます。

しかし、陶謙は麋竺が誠実な人物だと分かっていたから、遺言を言えたのではないかと個人的には考えています。

流石に、陶謙は曹豹が近くにいても、遺言を残さなかったのではないかと個人的には考えています。

貧困の劉備を助ける

劉備は徐州の主になったのですが、呂布が助けを求めてきます。

呂布の助けを劉備は受け入れるわけですが、後に呂布に裏切られて徐州を奪われてしまうわけです。

劉備は袁術と戦う事になったわけですが、本拠地の下邳を呂布に攻撃されて奪われてしまい、妻子は人質として取られてしまいます。

劉備の前方には袁術がいますし、後方には呂布が控えているわけです。

つまり、絶体絶命のピンチになってしまい、さらには兵士の逃亡が相次ぎ、軍としての機能しなくなってしまいます。

この時に、劉備を助けたのが麋竺です。

劉備としては、絶望したような状態だったわけですが、麋竺は劉備を励まし、さらに自分の妹を劉備の夫人となるように差し出しています。

これが後の麋夫人となります。

さらには、金銀財貨と奴婢2000人を劉備に献上したと言うから驚きです。

ここにおいて劉備は息を吹き返しますが、しかし、所詮は付け焼刃だったのか、劉備軍は崩壊してしまい呂布に降伏しています。

劉備は、小沛を呂布から与えられています。

劉備軍は、この時に自分の配下同士が殺し合い肉を食べあう状態にあったともされていますので、かなり困窮していた事は間違いないでしょう。

この状態になっても、自分を見捨てずに誠実な態度を失わなかった麋竺に感謝し、それを生涯忘れなかったのではないかと思います。

劉備に付き従う

呂布と劉備も一悶着あり、結局は劉備は曹操の元に身を寄せます。

曹操は麋竺を嬴郡太守にして、弟の糜芳も彭城の相に任命しています.

下記のような記録が曹公集に掲載されています。

泰山郡は乱暴者が多く治めにくい場所であり、泰山郡の一部を嬴郡として、清廉で誠実、文武両道の人物を任命する事を願います。

偏将軍の麋竺は、それらを兼ね備えた人材ですので、嬴郡の太守に任命して民を慰撫するようにお願い申し上げます。

麋竺は一度は、拝受したようですが、官位を去り劉備と共に各地を転々としています。

もちろん、曹操の所だけではなく、袁紹劉表の荊州などにも行っているわけです。

荊州の劉表に所に行く時に、劉表への挨拶として使いになったのは麋竺と孫乾だと記録されています。

尚、麋竺は莫大な資産を持っていたわけですが、劉備の為に全て使ってしまい、劉備と各地を転戦した頃には、その頃の資産はほとんど残ってはいなかったのではないかと思います。

徐州を去った時点で、資産家としては終わったのかも知れません。

諸葛亮以上の待遇を受ける

劉備は荊州において、徐庶と出会いさらに、諸葛亮を陣営に加えています。

これより先は、劉備陣営の頭脳の役割は、諸葛亮と言ってもよいでしょう。

劉表が死に劉琮が後継者になると曹操が南下し、逃げる劉備を追撃する長坂の戦いがあり、趙雲や張飛が活躍するわけです。

しかし、麋竺は文官であるため、活躍が分かっていません。

もちろん、赤壁の戦いでも活躍をしたわけではないですし、劉備に何か進言した記録も残っていません。

孫権が周瑜魯粛の活躍で赤壁の戦いで、曹操を破ると劉備は荊州の一部を手に入れています。

さらに、劉璋が治める益州を奪っているわけです。

ここでも、麋竺の活躍は伝わってきていません。

しかし、益州が平定されると麋竺は、安漢将軍に任命されています。

諸葛亮は軍師将軍に任命されていて、席次で考えれば麋竺の方を上としたわけです。

龐統が入蜀の最中に死亡しなかったとしても、劉備は龐統よりも麋竺を上の位にした事でしょう。

正史三国志の麋竺伝には、「麋竺に匹敵するほどの、恩賞や寵愛を受けた者はいなかった」と記載があります。

劉備は、誠実な人柄である麋竺を高く評価したのでしょう。

麋竺が誠実な故に、劉備も安心して使える事が出来たのかも知れません。

曹操における夏侯惇の様な存在が劉備のおける麋竺だった可能性もあります。

家を焼かれずに済んだ話

捜神記という書物に、麋竺の逸話が残っているので紹介します。

麋竺の性格をよく現わしているのかも知れません。

洛から家に帰る途中に麋竺は、一人の夫人が馬車に乗せて欲しいと言い、同乗させる事にしました。

数里ほど移動すると、夫人はお礼を言って立ち去ろうとしますが、次のように語っています。

夫人「私は天の使いです。あなたの家を焼かなければいけません。あなたは、私を車に載せてくれました。感謝の気持ちでお話をしているのです。」

家を焼かれると知った麋竺は、彼女にやめてもらうように頼みますが、決心が堅く家を焼かれずには、いられない事を知ります。

すると夫人は次のように語りだします。

夫人「あなたは馬を走らせて急いで帰ってください。私はゆっくりと麋竺の家に向かいます。真昼に家事が起きるはずです」

麋竺は急いで家に帰り、家財道具を全て家の外に運び出しました。

すると、真昼に火事が起きたのですが、家財道具は全て無事だったという話です。

なぜ、麋竺みたいな誠実な人が家を焼かれないといけないのか、意味不明なのですが、話のポイントとしては、家を焼く事を決心した人でも、誠実に扱えば気分が変わる事を指しているのかも知れません。

この話が本当か?と言えば、作り話だと思いますが、しかし、麋竺の誠実さは民間にも浸透していた事の現れなのかも知れません。

麋竺の最後

麋竺の最後ですが、弟である糜芳と大きく関わっています。

劉備は漢中を制圧すると、荊州にいる関羽は北上しています。

魏の于禁を捕らえたり、龐徳を破ったりして、曹操を震撼させています。

さらに、樊城にいる曹仁や満寵と戦い、援軍に来た徐晃とも戦っているわけです。

しかし、孫権が呂蒙陸遜の策に従って、荊州に攻め寄せてくると、麋竺の弟である糜芳は呉に簡単に降伏してしまいます。

糜芳は関羽の事が傲慢で嫌っていた為に、関羽を裏切ったわけです。

結局、糜芳の裏切りなどが決定打となり、関羽は孫権に捕らえられて斬られています。

ただし、関羽が斬られた全責任が糜芳にあるわけではなく、救援に行かなかった劉封孟達にも責任はあるのかも知れません。

弟の糜芳が呉に寝返った事を麋竺は大変恥じていますし、劉備には両手を後ろに縛り処罰してくれと言わんばかりの姿で現れたわけです。

劉備は、弟の罪を被る必要はないと諭して、今までの様に優遇していますが、怒りと恥の心から発病してしまい1年ほどすると亡くなっています。

ただし、この期間に劉備は皇帝に即位しますが、皇帝になるように許靖(きょせい)、諸葛亮らと上書しています。

病気の身ではあったわけですが、劉備を皇帝になるように勧めたのでしょう。

多分ですが、麋竺は長年従ってきた、劉備が皇帝になった事を知りこの世を去ったと思われます。

弟の糜芳は裏切ってしまいましたが、劉備が即位する所を見て満足して、この世を旅だったのかも知れません。

ただし、劉備は関羽の復讐の為、呉に攻め入りますが、陸遜に夷陵の戦いにおいて大敗してしまうわけですが・・・。

誠実さは武器になる?

麋竺ですが、正史三国志には次のように書かれています。

穏やかで誠実な人ではあったが、人を統率するのは苦手であった。そのため上賓の礼を持って待遇されたが、一度も軍を率いた事はなかった

つまり、麋竺というのは、誠実な人ではあったがお人好しであり、軍事には向かなかったのでしょう。

しかし、これについては私は悪いとは思いません。

というのは、戦いと言うのは、詐術の連続でもあり、下手に誠実な人がいけば軍は、立ちどころに敗北してしまう事も多いからです。

実際に、宋襄の仁で有名な宋の襄公や三国志劉虞などは、徳の力を戦場で見せつけようとしたために、戦いで破れているからです。

麋竺がここまで酷くはないと思いますが、戦争は相手の不意を突いたり騙したりしなければいけないので、麋竺には向いていないでしょう。

それを考えれば、戦場に行かせなかった劉備はを、麋竺に関しては人を見る目があったのかも知れません。

ただし、麋竺の弟の糜芳が関羽を嫌っていたにも関わらず、荊州の南郡太守にしてしまったのは、人を見る目があるとは言えませんが・・。

しかし、麋竺は誠実さがあった為に、諸葛亮よりも席次が上など、功績以上に評価をされた事は間違いないでしょう。

麋竺は劉備という主君に出会えてよかったのだと考えています。

策略を持って功績を挙げなくても、誠実な人柄が評価される事があるからです。

むしろ、麋竺を見ていると、策略などで功績を挙げるよりも、劉備からは高い評価を得られているような気がしてなりません。

劉備の方も呂布のように変な野心を見せない麋竺に関して、安心感があったのではないかと考えられます。

これを考えると、誠実さも大事な要素だと思いました。

ただし、呂布のように誠実に扱っても、仇で返すような人間もいるので注意したい所です。

それを考えれば、誠実に接するべき相手は見定める必要があるのかも知れません。

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