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倭国

倭の五王と九州王朝説について

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倭の五王に関する九州王朝説というのがあって、考え方としては面白いと思いました。

ただし、九州王朝説については、様々な事を言う人がいて、その中でもユニークだと感じたものを記載してみたいと思います。

分からない人のために、倭の五王から記載しますが、分かっている人は飛ばしてもらっても構いません。

尚、倭の五王が中国に使者を送った理由ですが、404年に朝鮮半島に攻め込みましたが、朝鮮北部の高句麗・広開土王の軍勢に大敗しています。

それを外交によって挽回しようとしたのが、中国への朝貢とされています。

 

 

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目次

倭の五王とは

当時の中国は北の方は異民族の侵攻があり漢民族の国は南の方だけとなっていました。

三国志で言えば呉と蜀の領域が南朝の支配領域だと思えばよいでしょう。

その南朝(東晋、宋、南斉、梁)と倭国(日本)が交流した記録が残っています。

倭国の讃、珍、済、興、武という倭国王が中国の南朝に朝貢外交を行ったとされています。

中国の正史である宋書や梁書には下記の記述があります。

宋書によると【讃】の弟が【珍】。【珍】と【済】の関係は不明。【済】の子が【興】、【武】

梁書には、【珍】が登場せず【彌】の名前があるが、【珍】と【彌】は同一人物ではないか?と考えられている。

これを日本の天皇で考えてみると下記のようになります。

日本の天皇が誰に当たるのかは分かりません。ぴったりと当てはまる家系図になっていないのです。

これにより様々な事を言う人がいます。

多くの人は雄略天皇が【倭王武】ではないかと言われています。

ただし、こういうのは多数決で決まるわけではないので、何とも言えないところです。

文字が似ているとか、天皇の本名が○○だからなどで考える専門家が多いです。

これに対して、根本的な考え方を見直す必要があると指摘するのが、古田武彦さんが提唱した九州王朝説です。

 

 

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九州王朝説とは

九州王朝説の考え方は、近畿の大和政権に対して九州にも強大な国力を誇った王朝があったとする説です。

その九州の王が「讃、珍、済、興、武」だという考え方です。

大和の天皇家は、中国のように讃、珍、済、興、武のように名乗る習慣がない事や、「旧唐書」には、日本が倭国を滅ぼしたかのような記述があります。

そのため、近畿の天皇家が九州王朝の王を倒して領土を広げたという考え方です。

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そして、九州王朝の首都は大宰府にあったとされています。

 

磐井の乱と九州王朝

磐井の乱が527年に起きています。

通説では北部九州の豪族である磐井が、朝鮮半島の新羅と組んで大和王権に対して反乱を起こしたとされています。

大和王権の軍勢が朝鮮の南加羅・喙己呑を奪還しようとした軍勢を磐井が妨害した話です。

しかし、この話は九州王朝説では反乱ではありません。

磐井は九州王朝の王であって反乱ではないというのです。

つまり、近畿の大和王権が九州王朝に仕掛けた戦争だと言います。

ただし、この戦いで大和王権は【物部麁鹿火】に命じて磐井を斬ったとされています。

実際に私の考えでは、九州王朝があったとしても、これで終わりかなとも考えています。

しかし、人によっては壬申の乱まで九州王朝説は続きます。

白村江の戦いが倭国と唐・新羅連合軍の間で起きました。この時の倭国は近畿の大和王権ではなく、九州王朝と唐・新羅連合軍の戦いだったというのです。

これにより九州王朝は消耗して、それが壬申の乱に繋がります。

 

壬申の乱は九州王朝の話なのか?

壬申の乱は通説では、天智天皇(中大兄皇子)の死後に大友皇子と大海人皇子(天武天皇)で皇位を争った戦いです。

部隊は近畿になるのが通説ですが、九州王朝説では、九州が舞台になります。

九州王朝の王が大友皇子で滅ぼしたのが、天武天皇だというのです。

壬申の乱の後に、倭国は日本に名前が変わります。

そのため、倭国(天智天皇の家系)が日本(天武天皇)が滅ぼしたというのです。

確かに、壬申の乱の後に倭国は完全に消滅して、国名が日本に変わっています。

さらに、旧唐書の日本が倭国を滅ぼした記述を考慮しての事なのでしょう。

しかし、私は九州王朝説は面白いけど、無理があるかなと感じています。

 

九州王朝説が無理な理由

倭の5王に関しては、九州の勢力だったとしてもおかしくない気もします。

しかし、壬申の乱まで行ってしまうと、日本側の記述はしっかりと残っているからです。

空白の4世紀とも言われていますが、そこで九州に強大な勢力を持った豪族もしくは王がいて、中国王朝から安東将軍などの称号を貰ったのはありえる気がします。

しかし、壬申の乱まで九州王朝を引きずるには無理があるかなと思うわけです。

尚、旧唐書は中国の戦乱の時代に書かれたもので、完成度が低いとも言われています。編纂者が途中で変わるなどの事態も起きています。

戦乱の関係でそうなってしまいました。しかし、新唐書では、日本の天皇の記述もありますし、九州王朝説が壬申の乱まで関わっていたのは無理があると思うわけです。

新唐書には、倭国が日本に国名変更した記述もあります。

しかし、九州王朝の謎や空白の4世紀の謎を解く方法は残っていると考えています。

その事は次回に回します。

 

 

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