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孫乾の史実・後漢末期で最高の学者の弟子だった!

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孫乾(そんけん)は劉備のお使い役というイメージが強いわけです。

イメージの中では、かなり多くの群雄に外交官として活躍したように思えるかも知れません。

それか、劉備が敗れる度に、受け入れ先の交渉を行っている印象かも知れませんが・・・w

しかし、史書の中で、外交を行った記録は、袁紹と劉表に劉備の受け入れを依頼した事だけです。

三国志のゲームなどでは、魅力90に政治力も80程あり、外交と政治に卓越した人に思うかも知れません。

しかし、陳寿の書いた三国志正史に孫乾列伝はありますが、記述としては少量でしかありません。

そのため、ゲームなどの能力値は高すぎるのでは?と思ってしまう事も多々あります。

ただし、実際の孫乾を見ると無能と言うわけではありません。

今回は、お使い役として有名になっている孫乾が史実では、どのような人物なのか紹介します。

尚、三国志演義などでは、孫乾と関羽、張飛、趙雲などの掛け合いなどは比較的好きですw

ちなみに、三国志には「孫権、孫堅、孫謙(孫静の子)などがいるため「乾いた(そんけん)」と呼ばれる事も少なくありませんw

意外に思うかも知れませんが、孫乾は後漢で最高の学者と呼ばれている鄭玄の弟子となっています。

 

 

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鄭玄の弟子となる

鄭玄伝に孫乾の記述があります。

それによると、孫乾を州に推挙したのが鄭玄だという事です。

鄭玄という人は、後漢時代末期で最高の学者と呼ばれた人物です。

張角という太平道の教祖が黄巾の乱を起こしますが、何進(かしん)が大将軍となり軍事の最高責任者になっています。

この時に、何進は鄭玄を招聘しようとしていますし、後には孔融も鄭玄の事を絶賛しているわけです。

鄭玄の息子は、黄巾賊に囲まれた孔融を助けに行っていますが、そこで殺されています。

ただし、孔融は太史慈と劉備の活躍で救出されています。

そういう因果はありますが、禰衡などの変わった人材を好む孔融すら鄭玄の事は絶賛しているわけです。

鄭玄としてみれば「孔融に絶賛されても嬉しくない」という感じだったのかも知れませんが・・・。

尚、鄭玄は若い頃に、盧植と学友だったという話があります。

若い頃の劉備や公孫瓚は盧植の門下生だった事もあり、孫乾とは気が合ったのかも知れません。

孫乾の師匠である鄭玄と劉備の師匠である盧植が知り合いだったからです。

尚、鄭玄には3千人を超える弟子がいたとも言われていて、孫乾が推挙されると言う事は、かなり学問では優秀な人物だったのかも知れません。

袁紹は後に、鄭玄を招いているわけですから、そういう縁もあり袁紹は劉備を受け入れやすかった可能性もあるでしょう。

劉表にしてみても、訪れたのが鄭玄ブランドを持っている孫乾だった為に、劉備を拒まなかったのかも知れません。

 

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劉備に仕える

陶謙が亡くなり劉備が徐州の牧となると、孫乾は招かれて配下となっています。

ここにおいて、麋竺などとも知り合った事でしょう。

劉備は呂布を徐州に入れてしまった為に、袁術と前後を塞がれてしまい大変な事になってしまいます。

この時は、資産家麋竺の助けも大いにあったわけですが、孫乾も劉備を見放さずに、励まし従っているわけです。

劉備は諸葛亮を手に入れるまでは、軍師と呼べるような人材はいませんでした。

孫乾も多分ですが、学者としては有能だったかも知れませんが、軍略を述べたり奇計を使ったりするのは苦手だったのでしょう。

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ただし、鄭玄にならった文化人としての教養は高く、外交においては巧みに相手に説き伏せたり出来たのではないかと考えています。

袁紹や劉表に劉備の受け入れを依頼した時も、巧みに劉備を受け入れる事のメリットを説き伏せたのではないかと感じます。

もちろん、どのように説き伏せたのかは、記録が残っていないので分かっていませんが・・・。

 

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劉表の手紙に孫乾が登場

袁紹は官渡の戦いで破れて、数年後に死亡してしまいます。

後継者をちゃんと決めずに死亡してしまった為に、長男である袁譚派と三男の袁尚派に分かれて骨肉の争いを始めたわけです。

それを好機と定めた曹操は袁譚を助ける名目などで、北方に進軍しています。

この時に、劉表は袁尚に手紙を書いているわけです。

内容は下記の様になっています。

劉備や孫乾らと、この事について議論するたびに、心が痛まぬことはありません。あなた方(袁譚・袁尚)の為に悲しまない事はありませんでした。

これを見ると分かるのですが、孫乾は劉表ともかなり接していたのではないかと思われます。

劉備の窓口的な存在が孫乾だったのかも知れません。

劉表自体が学者肌な所もあり、孫乾とは気が合った可能性もあるでしょう。

 

孫乾の最後

劉表が亡くなり曹操が攻めて来ても、劉備と行動を共にしています。

赤壁の戦いなどでは、これと言って功績はないように思います。

諸葛亮は呉の孫権などと話をしたようですが、孫乾が行ったと言う記述はないです。

劉備は、赤壁の戦い後は、金旋を倒し、劉度、趙範、韓玄を降伏し荊州の四郡を手に入れています。

ここでも、孫乾の功績は確認されていません。

ただし、記録に載っていないだけで、荊州の治安や行政などには活躍したのではないかと感じています。

劉備が蜀に入ると麋竺に次ぐ厚遇を簡雍と共に受けたとあります。

劉備の方も徐州時代から、裏切る事なく従ってくれた孫乾に対して、感謝の気持ちがあったのでしょう。

しかし、その後しばらくして亡くなったとあります。

麋竺が、糜芳の裏切りにより発病してしまったのと比べると、穏やかな死ではなかったかと感じています。

黄忠が夏侯淵を破り漢中を奪取して、劉備が漢中王となった辺りか、蜀の皇帝に即位した当たりで亡くなったのではないかと思われます。

文官なので、功績は分からない点が多いのですが、鄭玄が推薦するくらいですから、人よりも優れた人材であった事でしょう。

 

インパクトのある外交を見たかった

孫乾ですが、個人的にはもう少しインパクトがある外交が見たかったような気がします。

伊籍などは、孫権に使者として行った時に「無道な主君に仕えると苦労するのか?」といきなり言われてしまうわけです。

さらに、鄧芝などは、いきなり「釜茹での刑」の準備がしてあったなどの場面もあります。

釜茹での刑も孫権が発案したわけですが、こういうインパクトのある外交がないのが少し残念に思いました。

ただし、孫乾からして見れば、「いきなりそんな態度を取られてしまうのは2流の外交官」など、ドカ顔で言ってしまうのかも知れませんがw

しかし、鄭玄の弟子であったために、外交を有利に進められたのもあるでしょう。

尚、簡単に袁紹や劉表に劉備の受け入れ先を、決めてしまったようにも見えますが、案外、古代の人物を出してきて、劉表や袁紹の徳を讃えて劉備を受け入れる事で多くのメリットがあると説いたのかも知れません。

記録に残っていないのが残念に感じた次第です。

しかし、孫乾ってどこか憎めない部分がある人だな~と個人的には思います。

ちょっと、可愛い感じがしますよね!

気のせいかも知れませんがw

 

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