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キングダムの名シーンとして、斉王建と秦王政の秘密同盟の密約があります。
秦に他国が攻められても、斉は他国を助ける事はせずに傍観する宣言です。
他国が自分から降伏の使者として来るはずがないとか、そういう風に感じている人もいるようです。
しかし、史記には始皇10年に斉王が秦に来朝した事が記載されています。
今回は、斉秦同盟が事実上の降伏も含めて本当にあったのか考えてみました。
尚、キングダムでは蔡沢が斉王建と李牧を秦に連れて来た事になっていますが、実際にはそういう事実はありません。
蔡沢も史実では、いつ死んだのかも分からない状態です。
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目次
斉王建が秦に来た事は間違いない
斉王建が秦に来た事は、史記にも書いてあるように間違いないでしょう。
しかし、秦という国は、過去の楚の懐王が来た時は、捕らえて幽閉してしまった過去があります。
秦は虎狼の国とも呼ばれていますし、趙の恵文王も行くのを渋った過去があるわけです。
関連記事:藺相如が恵文王を守り秦・昭王をやりこめる
その国に、斉王建がよく出向いたなと感じました。
ただし、斉王建が何をしに秦に来たのかがはっきりとしません。
秦斉同盟を結びに来たのか、それとも秦の征服戦争に対して関与しない約束をしたのか、はっきりとしないわけです。
史記でも、斉王建が使者に来た事と趙の使者が秦に来た事しか話がないわけです。
尚、キングダムでは趙の宰相李牧も秦に来た事になっていますが、李牧が来たという記述もありません。
さらに言えば、趙が7カ国同盟の不戦条約を提案した話もありませんし、秦が却下した話も存在しません。
ちなみに、キングダムの斉王建は蛇が好きなように描かれています。
斉王建が本当に蛇が好きでいつも口の中に入れているのか、見たくて斉王建を秦に呼んだと言う記述も存在しないわけですw
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秦が他の五国を攻めても助けなかった事実
秦が他の五国(趙・魏・韓・楚・燕)を攻めても、斉が助けなかった事実はあります。
斉の大臣の一人は「今は斉と秦は国境を接しないから安全ですが、趙・魏・韓・燕・楚が滅びてしまえば、秦の標的は斉になります。今のうちに、秦以外の5国を援助した方がいい。唇滅びれば歯は寒いわけです」
と進言した者もいたわけですが、斉王建は他国を援助する事はありませんでした。
そのため斉は暫くの間ですが、平和が訪れました。
斉が傍観をし続けて、本当に動かなかった事実を考えると斉王建と秦王政の密約があったのでは?と考える人も多い事でしょう。
ちなみに、斉王建は春申君が主催した合従軍も離脱した事になっていますが、信陵君が主催した合従軍(秦軍を破る)にも参加していません。
関連記事:函谷関の戦いの史実【最後の合従軍】
そのため斉が傍観を決め続けていたのは、始皇10年(紀元前237年)よりも前からです。
私の見解としては、斉が傍観を決め込むようになったのは、斉の襄王(斉王建の父)の頃からではないかと思っています。
田単が斉を去った辺りから戦争を全く行わなくなったように思えるからです。
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国策として他国を助けたりもしなくなったのかも知れません。
斉のスパイは秦に買収させられていた
史記によると、斉は多数の間者(スパイ)を秦に入れていたようです。
しかし、秦は斉のスパイを買収してしまい、秦にとって都合の悪い情報は斉に入れないようにしていたわけです。
仮にですが、秦が趙を攻めたとしても、秦としては斉には趙に援軍は送って欲しくないでしょう。
そこを間者を上手く利用して、斉は他国を援助せずに傍観を貫いたわけです。
つまり、史記によると斉王建は間者に踊らされて国を失った事になっています。
斉王建は名君なのか暗君なのか?
斉王建が名君なのか暗君なのか?ですが、キングダムで見れば間違いなく名君だと言えるでしょう。
民の事をしっかりと考えていますし、堂々とした雰囲気も醸し出されています。
さらに、秦王政が統一後にどのように国を治めるのか?という問いに対して「法」と言う言葉を引き出しています。
その答えに納得した斉王建は、口約束ではありますが傍観宣言をしました。
ただし、秦王政が民に対して牙を剥くような事があれば、斉は容赦なく反撃する事も伝えています。
これらの行動を考えれば、間違いなく名君と言えるでしょう。
しかし、先ほども述べたように、間者の偽情報を信じてしまい、それで全く動かずに傍観していたら暗君と言えるのかも知れません。
こればっかりは本人に聞いてみないと分からないのですが、多く人は史記の言葉を信じて暗君だと考えているようです。
何もせずに国を滅ぼされて、最後は幽閉されてしまったのが斉王建だという認識です。
尚、斉王建の母親である君王后は賢かったという話も残っています。
余談ですが、斉王建が蛇を好んだ?という記録はどこにも存在しませんw
当たり前ですが、常に口の中に蛇が入っている人なんているはずもないですからねw
斉王建の子孫はどうなったのか?
斉王建の子孫ですが、楚漢戦争になるとキーポイントになる一族となりました。
田儋は斉王を名乗り田栄を宰相にしています。
田儋は斉王建の直系の子孫ではありませんが、一族である事は間違いありません。
因みに、田儋は戦国時代の魏の末裔である魏咎を助けに行きましたが、章邯に討たれています。
関連記事:章邯は秦の最後の名将!!
項羽が秦を滅ぼすと田假が王になりますが、田假は斉王建の弟です。
しかし、田栄、田都、田安らの一族でもお家騒動みたいな事もありました。
漢の韓信が斉に攻めて来る頃には、田広が斉王になっていましたが、韓信の前に敗れさっています。
この時に、田広は楚の援軍に駆けつけた龍且と共に韓信と戦っています。
歴史小説家である宮城谷昌光さんが理想の人物として田横を挙げています。
田横が劉邦に呼び出される道中で自刎した事は有名です。
斉王建が降伏した後も、田氏は斉において絶大なる影響力を持っていた事は間違いないでしょう。
しかし、一族が秦に対して反旗を翻している事を考えれば、秦では冷遇されていたのでしょう。
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