スポンサーリンク
大坂夏の陣は野戦で豊臣方と徳川方は雌雄を決する事になりました。
大坂城の堀が埋められてしまったため、野戦で決着をつけるしか無かったわけです。
大坂夏の陣の一つのポイントになるのが、豊臣秀頼の出陣ではないかと思います。
豊臣秀頼が自ら戦場に赴く事で兵士の士気が上がり戦を優位に進める事が出来るというわけです。
真田幸村などは、豊臣秀頼への出撃を積極的に依頼したようです。
しかし、最後まで豊臣秀頼は出陣する事がありませんでした。
これは大坂夏の陣の敗戦の理由の一つになるのですが、今回は色々な角度から「なぜ豊臣秀頼は出陣しなかったのか?」を調べてみたいと思います。
尚、通説だと淀君、大蔵卿局、大野治長が止めたとか、豊臣秀頼が初陣だったため優柔不断で出陣するかを迷っているうちに、戦の大勢が決まってしまった、などはよく言われています。
しかし、近年、豊臣秀頼が再評価されているわけですので、別の角度から意見を書いてみたいと思いました。
個人的には、出陣する必要がなかった説が好きですけどw
関連記事:徳川家康の天下人への布石は【忠誠と裏切り】に有り!?
スポンサーリンク
目次
徳川方の流言
これも有名どころですが、徳川家康が豊臣秀頼に流言を放ち、出陣を拒否させたという説です。
つまり、大阪方の武将が裏切ったから、今、豊臣秀頼が出撃してしまったら「すぐに討ち取られてしまう」という偽の情報を流しました。
豊臣秀頼が信じたかどうかは分かりませんが、偽の情報が流れた事は確かでしょう。
徳川家康の家臣には、本田正信もいますし、智謀に長けた武将も多くいた事でしょう。
秀頼は策を好むような人物には見えませんが、家康は策略が好きな性格をしています。
偽情報で内部崩壊して勝てるのであれば、これほど楽な事はありません。
義に反するとか、そういう行動にも映るのかも知れませんが、家康であれば普通に採用してもおかしくはないはずです。
しかし、豊臣秀頼が出陣しなかった事実はあるので、この説も信憑性はあるでしょう。
ただし、大坂夏の陣の状況を考えれば、豊臣方の兵力は5万、徳川方の兵力は15万もいます。
そのため、裏切り者が出た時点で、豊臣方は負けですので、豊臣秀頼には偽情報で踊らされて欲しくなかったかなとは思います。
スポンサーリンク
太り過ぎていて馬に乗れなかった
豊臣秀頼は身長が191cm・体重が160キロもあったとされています。
そのため、太り過ぎていて馬に乗れなかった?説もあるわけです。
当時の日本の馬は、木曽馬やポニーのような小さい馬しかいませんでした。
中には、大きめの馬もいたかも知れませんが、基本的には小さい馬しかいません。
尚、戦国時代を題材にした映画だとサラブレッドの馬が普通に出てきますし、騎馬隊も存在しています。
しかし、日本は遊牧民族ではないため、騎馬隊は存在しませんし、戦闘の時は馬から降りて戦うのが普通です。
大将クラスは馬に乗っていますが、あくまで移動手段として乗っているだけです。
話しを戻しますが、大坂夏の陣の時に、191cm160キロもあるような巨漢の豊臣秀頼が乗る馬が合ったかどうかは不明です。
しかし、前田慶次の松風、真田幸村の野風、呂布や関羽の赤兎馬、北斗の拳のラオウにおける黒王のような馬が存在していた可能性はありますw
豊臣秀頼が名馬に乗りゲーム三国無双のように暴れ回ったら凄いと思いますけどw
しかし、豊臣秀頼に乗る馬が無くて出陣しなかった説はあります。
スポンサーリンク
ただし、戦国武将全員が馬に乗れたわけではなく、立花道雪のように半身不随になってしまった武将は「輿」に乗って采配を振るっています。
関ケ原の戦いの時の大谷吉継も「輿」に乗って指揮を執ったようです。
龍造寺隆信は駕籠に乗って采配を振るったと記録があります。
ただし、龍造寺隆信は肥満体過ぎて馬に乗れなかったと宣教師ルイスフロイスにはっきりと書かれていますw
しかし、豊臣秀頼専用の愛馬にまたがって戦闘をしたら、カッコいい気もしますけどね!
そもそも出陣する予定がなかった
豊臣秀頼は、そもそも出陣する予定がなかった説もあります。
豊臣秀頼は大坂城の桜門前に本陣を置いたとあります。
一番後方にいた事は間違いないでしょう。
豊臣秀頼は大阪方の総大将であり指揮官でもあるわけです。
つまり、戦況に応じて臨機応変の決断をしなければいけません。
豊臣秀頼が出陣して本陣を開けてしまったら、いったい誰が大阪方の指揮を執るのでしょうか?
淀君?大野治長?などになってしまうのでしょうか?
もちろん、上杉謙信や三方ヶ原の戦い以前の徳川家康は陣頭指揮を執ったような記録もあるようです。
しかし、大将と言うのは、一番後方にいて臨機応変に指揮を執るのが役目でもあります。
そのため、そもそも出陣する予定が無かったのではないか?とも思えてしまうわけです。
三国志の孫策は武勇に優れていてよく前線に出る事がしばしばありました。
すると張紘からは「大将は三軍の命です。気軽に最前線に立つべきではありません」と窘められた記録があります。
つまり、総大将は前線で戦うのではなく、後方で指揮を執るのが一番の仕事なので、出陣する予定も無かったのかも知れません。
ちなみに、前線に出て豊臣秀頼が討ち取られてしまったら、すぐに大阪方は総崩れになってしまったはずです。
しかし、大坂夏の陣の時は、戦力差がありすぎるので、玉砕先鋒でないと勝つことが出来ない状態であった事も事実なのかも知れません。
豊臣秀頼は白鵬と同じだけの体格もあったわけですから、一回くらいは出撃して華々しく戦場で散ってもよかったかな?とも考えてしまう所もあります。
豊臣秀頼がも出陣していたら?
豊臣秀頼がもし出陣していたら、豊臣方が勝てたのか?ですが、私には分かりません・・・。
しかし、討ち取られたとしたら悲惨な目に合っていたかも知れません。
楚漢戦争の「項羽と劉邦」で有名な項羽は戦場で散りました。
敵の目の前で自刎したわけですが、項羽の首には懸賞金が掛けられていた事もあり、項羽の遺体を兵士が引きちぎって手柄にしようとした話もあります。
項羽の遺体の取り合いとなり、死傷者が数十人も出たとされています。
項羽の遺体は、最終的に遺体は5つに割れてしまい5人で褒賞を分け合ったようです。
ちょっと、残酷な気がしますが、出陣して討ち取られてしまったら豊臣秀頼も同じ目に合っていたのかも知れません。
しかし、ここで豊臣秀頼が徳川家康を討ち取ってしまったら乱世が続いた可能性もありますし、今度は「江戸の陣?」が起きた可能性もあるでしょう。
それを考えれば、大坂の陣で乱世が完全に終わって良かったのかも知れません。
私としては、徒歩で槍を持って豊臣秀頼が出撃して、体格に任せて敵を倒しまくって欲しかったのですがw
ありえね~って思った人が多そうですねw
あと、三国志の劉備のように戦場での死んだふりも見たかった気がしますw
豊臣秀頼が普通の兵士の格好をして出陣して、死体の山に隠れていた所を、真田幸村が発見して薩摩に逃れたと言うのも面白い気がします
まずありえない設定ですけどw
関連記事:劉備の死んだふり事件についてwヒーローとしてあるまじき行為??
戦国時代:戦国時代の記事一覧はこちらから