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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

戦国時代

豊臣秀頼は有能だけどセコさが足りないと思った。

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一昔前の、豊臣秀頼のイメージと言えば、淀君に逆らえないマザコン男だとか、軟弱なイメージがありました。

しかし、近年の研究では文武両道で非常に有能な人物だと考えられるようになってきています。

今の時代だと、「豊臣秀頼」の事を無能とか気楽に呼ぶと、歴史に詳しい人なら「分かってないな~」と言われてしまう事になってしまうかも知れませんw

私は豊臣秀頼は有能だとは思いましたけど、「せこさ」とか「したたかさ」が足りないと思いました。

ちなみに、三国志の司馬懿仲達と徳川家康の記事を書きましたけど、本当はこの記事を書きたかった為に書いておいた記事ですw

こちらも、お読みいただくとさらに理解力が深まるでしょう。

自分が真面目過ぎちゃうな~と思う人も参考にしてくれるとありがたく思います。

尚、上記の画像はNHK大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀頼を演じた中川大志さんです。

 

関連記事:司馬懿は悪なのか?それとも正当防衛?【曹爽を出し抜く演技】

関連記事:徳川家康の天下人への布石は【忠誠と裏切り】に有り!?

 

 

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目次

豊臣秀頼の体型は他の武将を圧倒していた

豊臣秀頼は肖像画などだと、軟弱そうなイメージがあるかも知れません。

しかし、実際の豊臣秀頼は身長が196cmで体重が161キロあったそうです。

かなり太っていたように思うかも知れませんが、力士のような体型だったのかも知れません。

尚、当時の日本人の平均身長が155cmだと言う事を考えれば、かなり大柄な体格だと言えます。

豊臣秀吉は140cmの小男だったとも言われています。

それを考えると、秀吉の子じゃないんじゃない?と思うかも知れません(実際にそういう説もある)

しかし、母親の淀君は165cmの身長があったとも言われていますし、淀君の父親である浅井長政は180cmを超える大男だったとされています。

ただし、浅井長政も肥満体型だった説が濃厚ですw

豊臣秀頼は母親の血を濃く受け継いだのかも知れません。

余談ですが、武田家の重臣で武田四天王の山県昌景などは身長が130cmしかなかった説もあります。

それを考えれば豊臣秀頼が如何に大柄な体型をしていたのかが分かります。

尚、大相撲の横綱白鵬と豊臣秀頼は身長と体重はほぼ同じです。

如何に、凄い体つきをしていたのかが分かります。

豊臣秀頼が戦場で敵に襲い掛かってきたら、怖くてみな逃げ出すかも知れませんw

大坂の陣で豊臣秀頼が出撃して敵をなぎ倒すところを見たかったw

 

 

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兵学・儒学など、あらゆる学問に精通していた

豊臣秀頼ですが、頭が悪いようなイメージがある人もいるようです。

しかし、実際の豊臣秀頼は、当時の一流の学者から兵学・儒学など様々な学問を学んでいます。

当たり前なのですが、天下人豊臣秀吉の後継者なのですから、徹底した英才教育が行われています。

さらに、豊臣秀頼は字が上手く諸大名も秀頼が書いた字を欲しがったという記録が残っています。

神童として騒がれてもいたようです。

ただし、三国志ファンなら分かるかと思いますが、神童と言うと孔融を思い出してしまわないでしょうか?

頭は悪くはありませんが、変わったい人材(迷惑系含むw)を好み最後は曹操に処刑されています。

そのため、豊臣秀頼に対して神童という言葉を使うのに、躊躇いがありましたが、一応使っておきましたw

 

関連記事:太史慈が圧倒的な武勇で孔融を救う 

 

関ケ原の戦いで石田三成が敗れる

豊臣秀頼の人生のターニングポイントの一つは関ケ原の戦いでしょう。

これにより日本で一番の実力者は徳川家康となります。

石田三成や毛利輝元ら西軍が敗れた事で、石田三成は処刑されていますし、毛利輝元は大幅減封されています。

豊臣秀頼も200万石を超える石高がありましたが、摂津・河内・和泉の65万石に落とされています。

ちなみに、歴史研究家の本郷和人さんは関ケ原の戦いで家康が戦ったのは、豊臣秀頼であったと言っていたのが印象的でした。

関ケ原の戦いの後に、徳川家康が豊臣秀頼を盛りたてずに、自分が天下を取ったのであるから、戦ったのは豊臣秀頼だという解釈です。

しかし、一次資料などを見ると、関ケ原の戦いが終った時点では、天下人は豊臣秀頼だと当時の人は思っていたようです。

宣教師の日記でも日本のエンペラー(皇帝)は豊臣秀頼だと書かれています。

豊臣秀頼が成人になれば徳川家康は政(まつりごと)を返上すると思っていた人が非常に多かったのです。

 

関連記事:関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなかった!

 

豊臣秀頼が豊臣家の権勢を知らしめる

豊臣秀頼の方も徳川家康に対抗心もあったようですし、次の天下人になるのは自分だと思っていた節があります。

秀吉の7回忌を主催したり、出雲内社の遷宮を命じたり、信濃の善光寺や奈良の法隆寺の改修を命じています、

この頃の人は仏教の事をかなり信じていましたし、豊臣家の力がまだまだ健在だとアピールした形です。

 

帝鑑図説を翻訳して出版する

豊臣秀頼は帝鑑図説を自ら翻訳して出版しています。

帝鑑図説は、中国の伝説の王様である五帝の堯や瞬の事やキングダムでもお馴染みの春秋戦国時代、三国志、五胡十六国などが描かれた書物です。

ちなみに、王様としての善行や悪行が掲載されていて、諸大名も秀頼が出版した帝鑑図説を読んだ記録が残っています。

帝鑑図説には「君主の私利私欲は民を不幸にする」と書かれた文章もあり、暗に徳川家康を指しているんじゃない?と思える所もあります。

家康に対して、「私利私欲で起こすな」とくぎを刺しているのかも知れません。

 

秀頼と家康が面会する

1611年に後陽成天皇が退位して後水尾天皇が即位しました。

この時に徳川家康は天皇や公家たちを守ると称して5万の軍勢を集めて京都の二条城にやってきました。

二条城に豊臣秀頼を招いています。

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ここで豊臣秀頼が家康の所に行けば、徳川家康が豊臣秀頼を呼びつけた事になり、徳川家康が豊臣秀頼よりも偉いと言う事を世間にアピールする事になります。

淀君は秀頼が家康に面会するのは反対でした。

淀君の考えで言えば「家康の方が大坂まで会いに来るべき」と考えたのでしょう。

しかし、この反対を振り切って豊臣秀頼は徳川家康と面会をしました。

これには加藤清正や福島正則らのはからいもあったようです。

関ケ原の戦い以降では、はじめて豊臣秀頼と徳川家康は面会しました。

家康は秀頼を呼び寄せる事が出来て大そう機嫌がよかったそうです。

その後、家康は秀頼に鷹を送っています。

お礼の手紙をするわけですが、豊臣秀頼は巧妙な手紙を書き自分を敬うような文章を送ったたようです。

文章を書くにしても才能がかなりあった事が分かります。

和歌なども一流の腕前なだけに、非常に綿密な手紙を送っています。

 

徳川家康は豊臣秀頼を警戒する

徳川家康は豊臣秀頼を会った時に、カリスマ性を感じたようです。

そして、豊臣秀頼が賢いと悟り警戒するようになります。

ちなみに、徳川家康は豊臣秀頼を評して「秀頼は賢い人物だ。いつまでも人に仕え命令に従う男ではない」と語ったともされています。

しかし、このセリフは中国の三国時代に曹操が司馬懿に語った言葉と同じだと思いましたw

もしかして、家康はパクったのでしょうかw

私は、秀頼と家康の会見を見ていて思ったのですが、秀頼は司馬懿を見習うべきだったのではないかと考えています。

司馬懿は政敵である曹爽を騙すために、見舞いに来た使者にボケ老人の振りをしています。

これと同じように、馬鹿な振りをして警戒されないようにするべきだったかなと思いました。

加賀100万石を継いだ前田利常などは江戸幕府から疑われないために、バカ殿を演じていたりします。

鼻毛を伸ばし始めるなどの極端な行為まで始めたわけですw

警戒心を解くためとは言え「やり過ぎかな」と思いましたw

こういう「したたか」なところを豊臣秀頼も見習った方がよいかと思っています。

 

関連記事:司馬懿は悪なのか?それとも正当防衛?【曹爽を出し抜く演技】

 

大坂の冬の陣で大坂城の堀を埋められてしまう

大阪冬の陣では、徳川勢が20万に対して豊臣勢は10万だったとされています。

数の上では2倍の差がありました。

軍議では真田幸村などは野戦を主張したのですが、豊臣秀頼側近の大野治長などは籠城戦を主張しました。

しかし、結局は太閤秀吉が作り上げた巨大な城である大坂城に籠り籠城する事になったわけです。

大坂冬の陣では善戦しますが、徳川方の大砲が天守閣に当たり女中が数人死んだりもしました。

淀君が騒いだ?事もあり和平を結びます。

その時に、堀を埋める事を条件に和睦をしました。

外堀は徳川方が埋めて、内堀は大阪方が埋める事にしましたが、徳川家康は無理やり外堀も内堀も全て埋めてしまったわけです。

ここでも徳川家康の「したたかさ」が出ています。

 

 

大坂夏の陣で自害する

堀を埋めらて和睦はなったはずだったのですが、すぐに徳川家康と戦う事になりました。

豊臣方に堀を掘りなおすなどの作業があった事が原因です。

そして、大坂夏の陣は野戦で勝敗を決する事になりました。

この時の豊臣秀頼は「城を明け渡すのは臆病者のする事、決戦を覚悟する」と意地を見せたそうです。

さらに、自分も大坂城の桜門の前に陣を張り出撃する準備をしていました。

秀頼自身が出撃する話もあったので、豊臣方の士気は上がり、毛利勝永や真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、木村重成などが善戦した事で戦況を有利に進める事が出来ていました。

さらに、豊臣秀頼自身も出撃する時を待ちます。

しかし、ここで「味方が裏切った」という情報が入ってきます。

味方が裏切ったから、「秀頼が出陣すれば、すぐに討ち取られてしまう」という情報が入って来たのです。

もちろん、流したのは徳川家康です・・・。

その策に引っ掛かってしまい、豊臣秀頼は結局、出陣する機を失ってしまい結局は出陣しませんでした。

私としては、191cm160キロの体重を生かして、槍を振り回して戦って欲しかったのですがw

豊臣秀頼は千姫を徳川家康に送り届けた後に、母親である淀君と共に自害しています。

ここにおいて、豊臣家は滅亡しました。

余談ですが、真田幸村が豊臣秀頼を連れて薩摩(鹿児島県)に逃げのびたとする言い伝えもあります。

 

関連記事:大坂夏の陣で豊臣秀頼が出陣しなかった理由

 

豊臣秀頼はせこさが足りないと思った

豊臣秀頼も生涯を見て来たわけですが、「セコさ」とか「ズルさ」が足りないと思いました。

父親である豊臣秀吉は明智光秀を討つために山崎の戦いに出陣する時に、「信長様は生きている」と織田家の家臣たちに勝手に宣伝しています。

もちろん、信長は死んでいますが、秀吉は容赦なく偽情報を流しているわけです。

これにより織田家の多くの家臣が秀吉も元に集結して、明智軍の2倍以上の兵士が終結しています。

こういう「したたかさ」が秀頼にはないと思いました。

豊臣秀頼の生涯を見ると、「正々堂々」としているとは思いますが、「せこさ」が足りないのは残念に思いました。

中国の歴史書なども読んでいたようなので、司馬懿の事も知っていたでしょう。

どうも真面目過ぎてしまって、たぬきオヤジの家康にやられてしまっている感が強いです。

二条城で家康と対面した時は、「馬から落ちてみる」とか「バカの振りをしてみるとか」してみれば良かったのかも知れませんw

そして、家康が死んだ時に、政権奪還を企めば良かったのではないかと思います。

ただし、家康自体がセコい行動をするので、思考を読まれて見破られてしまい、どちらにしろ攻めてきた可能性も高いかなとは思いました。

しかし、最近の研究で豊臣秀頼も評価が変わっているというのは、「良い傾向」だと個人的には思っています。

 

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