スポンサーリンク
細川政元は、応仁の乱で細川勝元の死後に東軍の総大将になった人物です。
誰それ?という人も多いかと思いますが、「半将軍」とも呼ばれていて、日本でも屈指の権力者になった人物でもあります。
しかし、「修験道」にハマったり、自分探しの旅に出るなど奇行が目立った人物でもあります。
尚、江戸時代の書物で戦国三大愚人として、細川政元、今川氏真、大内義隆として取り上げられています。
今川氏真や大内義隆は公家の文化に染まり過ぎた為に、国を滅ぼしたイメージが強いです。
しかし、細川政元の場合は、ある意味、この二人よりも個性が強いと言えるでしょうw
関連記事:畠山義就を知れば応仁の乱が分かる!【不屈の人・畠山義就】
スポンサーリンク
目次
幼少期は聡明だった。
細川政元は、幼少期は聡明だったとされています。
しかし、幼少期から聡明だと聞くと、大人になってから、パッとせずに奇人になってしまう人も多く見受けられるような気がします。
三国志の孔融なども、その一人かと感じています。
小さい時から聡明だと、変な方向にブレてしまうのかも知れませんw
尚、幼少期の細川政元の名前は「聡明丸」ですw
応仁の乱で東軍の大将を務めた細川勝元は、死ぬ間際に「細川家は聡明丸がいるから安泰だ」とまで言ったとされています。
ちなみに、細川政元は生まれたのが1466年です。
応仁の乱の1年前に生まれているわけです。
そのため、幼少期は父親である細川勝元の幕府内での権力闘争を嫌というほど、見たのかも知れません。
細川勝元「〇〇殿が我が軍に入られた!聡明丸、これで我が方の勝ちじゃ!」
聡明丸「父上おめでとうございます。これで乱が終結するんですね」
数日後
細川勝元「〇〇が西軍に寝返った。乱はまだまだ終結せぬ」
聡明丸「まだ、おわらないんですね・・。」
こんな会話が、日常茶飯事で行っていたのかも知れませんw
さらには、父親である細川勝元が応仁の乱も集結していないのに、出家して隠居すると言い出しますし、敵方である西軍総大将の山名宗全は、切腹未遂の事件まで起きています。
他にも、将軍足利義政も息子である、足利義尚に位を譲り引退しています。
畠山義就みたいに、最後まで戦い続けた人もいますが、足利義政もストレスの限界だったのでしょう。
これらの話しが、幼少の頃から細川政元の耳に入ってくるわけです。
それを考えると、細川政元の今後の奇人ぶりに、大きく人間形成をしたのではないかと感じられます。
尚、応仁の乱も終結していないのに、細川勝元は病死(暗殺説もある)してしまいました。
それにより、細川政元は8歳で家督を継いでいます。
しかし、1年後には将軍足利義政の正室である日野富子の活躍もあり、細川政元と山名政豊(山名宗全死後の西軍の総大将)の間で和睦が行われ、応仁の乱は終結を見せます。
ただし、この時に細川政元はわずか9歳です。
そのため、配下の武将や側近が交渉に当たったと思われます。
応仁の乱は、勝者がいない戦いとも呼ばれています。
しかし、室町幕府では、その後も細川家が権力を握り続けているところを見ると、勝者は東軍と言えるのではないでしょうか?
人により味方は違いますが、細川家が権力を守り切ったと考えるのが、妥当ではないかと感じています。
スポンサーリンク
室町幕府の中枢から外される
室町幕府は、将軍の下に管領という役職がありました。
管領は、室町幕府の征夷大将軍に次ぐ役職でナンバー2となります。
細川家、畠山家、斯波家の、3家のうちのどれかが管領に就任することになっています。
もちろん、三管領の意向で次期将軍が決まる事もあるわけです。
1489年に、室町幕府9代将軍である足利義尚が、近江の六角高頼を征伐する際に、陣中で亡くなっています。
ここにおいて、次期将軍を誰にするかで揉める事になります。
細川政元は、足利義尚の従弟であり天竜寺に出家していた、清晃(足利義澄)を推薦します。
しかし、足利義尚の母親である日野富子と管領家の畠山政長は、足利義視の子である足利義材(義稙)を推薦しました。
ここに幕府内の権力闘争が起きますが、細川政元は破れ去り、足利義材が室町幕府10代将軍に就任します。
足利義材と、細川政元は事あるごとに対立してしまいます。
足利義材は、細川政元を政権内部から外そうと画策します。
これにより畠山政長が管領となり実権を握り大きな権力を手にしたわけです。
細川政元は、政権の中枢から外されてしまいました。
権力闘争で敗れ去ったわけです。
明応の政変
細川政元は、室町幕府の政権の中枢からは外されてしまいましたが、小さい頃から応仁の乱などで、政争には慣れていたのかも知れません。
後に、明応の政変と呼ばれる事を実行に移します。
畠山家が内部紛争を起こし、将軍である足利義材と畠山政長は河内の国に出陣しました。
この情報を事前にキャッチしていた、細川政元は足利義材と畠山政長に対する反対勢力を味方に付けています。
足利義材と畠山政長が京都を離れると、細川政元は反対勢力を糾合して京都を掌握します。
さらに、足利義材を龍安寺に幽閉して将軍を辞めさせ、畠山政長を攻めて自害させる事に成功します。
そして、かつて自分が将軍に就けようとした、清晃を還俗させて、11代将軍に就任させて、足利義澄と名乗らせています。
細川政元は、用意周到なクーデターを起こし、見事に政権を奪取したわけです。
ちなみに、足利義澄は元服前ですので、幕府の実権は細川政元や伊勢貞宗らが握る事になります。
尚、日野富子も明応の政変の時には、細川政元に加担しています。
この辺りは、非常に上手だなと感じました。
ここまでの、細川政元を見ると、政争には明け暮れていますが、戦国三大愚人とは思えません。
しかし、この辺りから変な行動が目立ち始まるわけですw
烏帽子が大嫌いだった?
その後、足利義澄は元服し、後見人として細川政元がなったわけです。
当時の仕来りとして、後見人になる人物は烏帽子親となり、烏帽子を成人する人に被せなければなりません。
加藤清正の烏帽子親は豊臣秀吉ですし、身内の中の権力者がなるのが普通でした。
戦国時代においては、四国の長曾我部信親の烏帽子親には、織田信長が選ばれるなど、有力者がなる場合もあります。
足利義澄の後見人として、細川政元が選ばれるのは当然の結果と言えます。
しかし、細川政元は烏帽子親になる事を拒否しています。
室町幕府の将軍の烏帽子親を務めるのは、大変な名誉な事だったはずです。
それにも、関わらず細川政元は烏帽子親を拒否してしまったわけです。
その理由は「烏帽子を被りたくない」とゴネた事が原因だと言われています。
そのため元服の儀式が1週間延期になってしまうなど、周囲の大顰蹙をかっています。
つまらぬ、とこで評判を落としているわけですw
ちなみに、烏帽子帽を被りたくなかったのは、修験道が理由とも言われています。
修験道にハマっていた
修験道と言うのは、日本古来の宗教みたいなもので、山に籠って修行をしたりします。
日本人が修行と言うと、山に籠るというイメージは修験道にあるのではないかと考えられます。
これが細川政元の心を動かされて、若い時から時間を作っては修験道を行っていたとされています。
生まれた時から、応仁の乱の権力闘争に明け暮れたわけで、現実逃避をしたかったのかも知れません。
修験道の修行をしている時の、細川政元の姿は僧侶のようでもあり、山伏のようでもあったとされています。
当時の人からも、不気味がられた話が残っていますw
スポンサーリンク
このように昔から、ちょくちょくと奇人の行動が目立ったわけですw
尚、烏帽子帽を被らなかった理由は、修験道の教えに背くと考えたからだともされています。
さらに、安芸から司箭院興仙なる人物を招聘して、鞍馬寺で「天狗の法」の修行を熱心にしていたともされていますw
しかし、天狗の法は世間からみれば、不審に思うような行動であったようです。
実際に、公卿であった九条尚経に日記には、「人々は怪しんでいた」とする記述が残っていますw
確かに、「天狗の法」というだけで不気味ですよねw
自分探しの旅に出る
細川政元は、それでも「半将軍」と呼ばれる程の権力を手中にしているわけです。
しかし、細川政元には現実逃避癖もあったようですw
いきなり「仏門に入る」「修行の旅に出る」「諸国を歩いて回る」などを言い出して、京都を飛び出してしまった事もありますw
水戸黄門のさきがけの様にも感じますが、水戸黄門はご隠居と呼ばれているように、既に引退して時間のある人です。
それに対して、細川政元は室町幕府の政務の中心にいる人物です。
それが、政務を放棄して、突然の宣言をして旅に出たりしてしまうわけですw
この旅はある意味、自分探しの旅だったのではないでしょうかw
この事から室町幕府や管領である細川家は、混乱していきます。
時には、将軍である足利義澄が自ら説得に向かったそうです。
しかし、修験道にハマっている細川政元は旅に出てしまいます。
尚、細川政元は、修験道の修行で山々を歩き回っている時に、山伏などから情報を得ていて、諜報活動を行っていたともされています。
しかし、修験道を行っているうちに、諜報活動はどうでもよくなり、修行にハマりまくっていたのが実情のようです。
つまり、細川政元は現実逃避の旅?のような事を度々おこなっている事になりますw
大名が現実逃避の旅をするなんて、普通じゃありませんよね・・・。
よく政敵に殺されなかったな・・とも感じましたw
これが修験道の効果なのでしょうか?w
関連記事:水戸黄門が圧倒的な強さを誇る理由
細川政元は童貞だった?
細川政元ですが、童貞だったようです。
信じられないかも知れませんが、修験道の考え方では、女性との関係を持つ事を禁じられていました。
細川政元は、忠実にそれを守っていたわけです。
しかし、女性と肉体関係を持たないと、子供が出来ないので、細川家は子孫が絶えて滅亡してしまいます。
さらに、次の後継者を巡って家督争いが起きるなども勃発してしまうわけです。
実際に、上杉謙信は自分を毘沙門天の化身だとして、女性を近づけなかったとされています。
それもあり、上杉謙信が急死すると、上杉景勝と上杉景虎(北条氏康の七男)の間で、家督争いが起きています。
上杉景勝が直江兼続の活躍もあり勝利しますが、越中や越後の北部などを失ってしまいます。
織田家の柴田勝家などに、要所の城を落とされて窮地に陥っているわけです。
このように跡継ぎがいないのは、大名家にとって非常に都合が悪い事態となります。
この世継ぎを作らなかったのが、細川政元の最後と直結しています。
ただし、衆道(男色)は積極的に行っていたようですw
それを考えると、修験道はおかしい感じもするんですけどね・・・。
男色がいいのであれば、女性も構わないと思うのですがw
跡目争いを自ら作りだす
細川政元は、この様に実子を作る事はしませんでした。
しかし、このままでは細川家は後継者がいなくなってしまい、お家撮り潰しの危機にもあったわけです。
そこで、家臣たちの進言により養子を取る事にしました。
家臣たちにとってみれば、死活問題ですので、嘆願したのだと思われます。
その結果として、九条政基の末子を養子として、細川聡明丸と名乗らせて後継者に指名しています。
しかし、後に分家である阿波細川家からも養子を取り細川澄元と名乗らせ後継者としました。
最初の後継者であった細川聡明丸(細川澄之)は廃嫡しています。
さらに、何を思ったのか、野州細川家からも養子を取り、細川高国を名乗らせたわけです。
こういう事をすると、当たり前のように家中が分裂していきます。
次期細川本家の家督の座を巡り3人で争い始めたわけです。
しかし、この時に何を思ったのか、細川政元は奥州に修験道の修行に行くと言い、京都を離れると言い出したわけですw
ここまで行くと、現実逃避と言うよりも、悟りを開いたのでは?とすら思ってしまう程ですw
細川政元が暗殺される
細川政元は奥州に行く気満々だったのですが、阿波細川家から細川澄元と家臣である三好之長が上洛してきます。
三好之長は、細川政元の修験道に、行かない様に説得します。
しかし、阿波から乗り込んできた、細川澄元と三好之長の事をよく思っていない人物がいました。
過去に廃嫡されている聡明丸(細川澄之)の派閥です。
普通に考えれば、後継者になっている阿波細川家の細川澄元を暗殺しようと考える事になるでしょう。
しかし、細川澄元の家臣である香西元長は、廃嫡された遺恨を爆発させて、暗殺のターゲットを細川政元に設定します。
香西元長にしてみれば、細川政元は奇行が目立ちますし、殺しておかないと何が起こるか分からないと考えたのかも知れません。
そして、1507年の6月23日の夜に細川政元は襲撃されて命を落としています。
自ら後継者選びで家中を混乱させた結果と言えるでしょう。
個人的には、細川政元の修験道で覚えた「天狗の法」などを使って、空中浮遊などをして脱出して欲しかったのですがw
そういう訳にも行かなかったようですw
細川政元が修験道にハマった理由
細川政元は、修験道に明らかにハマり過ぎていたわけです。
なぜ、修験道にハマり過ぎたかですが、考えてみました。
修験道が、細川政元の政治に生かしたようには、とても思えないわけです。
それどころか、修行に旅に出る度に、政治は混乱していく事になります。
それを考えると、修験道なんて全く無意味と考えるかも知れません。
しかし、細川政元は幼少の頃より、応仁の乱が勃発していますし、裏切りや寝返りなども数多く見て来た事でしょう。
確かに、成人後の政争に関しては、根回しも上手で才能があったように思います。
しかし、応仁の乱などが原因で、人間不信に陥ってしまった可能性もあるでしょう。
何を信じていいのか分からない状態の時に、修験道を知り「これだ!」と思ったのかも知れません。
細川政元に取っては、心の拠り所が欲しかったのではないかと考えています。
尚、室町幕府の13代将軍である、足利義輝は、剣豪として有名でした。
松永久秀や三好三人衆に襲われて命を落としたとされていますが、死ぬ間際に愛刀を使って敵を斬りまくったとされています。
同じように、細川政元も風呂場で襲われた時に、修験道の必殺の奥義みたいな術を出して欲しかったかなと思っていますw
水遁の術で風呂場の水が爆発するとか、火遁の術で敵を火だるまにするなど、やってもらいたかったかなと思いました。
まあ、現実的に、修験道にそういう技は無いと思いますけどねw
関連記事:大内義隆の【全盛期と滅亡】への道
関連記事:今川氏真が蹴鞠で信長、秀吉、家康をボコボコにしたw
戦国時代:戦国時代の記事一覧はこちらから