戦国時代(日本)

畠山義就を知れば応仁の乱が分かる

2021年4月18日

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宮下悠史

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畠山義就(はたけやま よしなり)は応仁の乱で一貫して西軍として戦い中心人物でもあります。

現在、巷では応仁の乱がブームになっています。

しかし、応仁の乱は敵味方が入れ替わったりして、分かりにくい所も多い事でしょう。

畠山義就を中心に応仁の乱を見ると非常に分かりやすいです。

畠山義就という人を私はかなり評価していて、この人が最初の戦国大名ではないかと思っているほどです。

今回は畠山義就の戦い続けた人生を紹介します。

畠山義就は不屈の人とも言えるでしょう。

跡継ぎに指名される

畠山義就は12歳の時に跡継ぎに指名されています。

なぜ、指名されたかですが、父である畠山持国の気まぐれであったとも、お気に入りだったとも言われています。

本来は、畠山義就の母親は身分が低く畠山家の跡取りにはなれないはずでした。

それを考慮すると、畠山義就の母親が畠山持国に気に入られた可能性もあるでしょう。

尚、畠山家は、細川家、斯波家と並び管領になれる家柄です。

将軍に次ぐ幕府ナンバー2の管領には、先ほどの3家しかなることが出来ません。

つまり、畠山義就は名門出身の御曹司だったわけです。

しかし、畠山義就が家督を継いだことが後の応仁の乱を引き起こす原因にもなっています。

細川勝元に嫌疑を掛けられる

当時は土一揆(つちいっき)が頻繁に起きていました。

土一揆というのは、借金の帳消しを求める民衆の活動です。

しかし、デモを起こすだけでは収まらずに、略奪も初めてしまいました。

土一揆というと余り強そうなイメージが無いかも知れませんが、実際には幕府軍が敗れて撤退する事もあったほどです。

畠山義就は土一揆に対して、鎮圧をしようとしませんでした。

逆に土一揆の人々に耳を傾ける事で、地方の勢力を味方につけて幕府に貢献しようと考えていたとも言われいます。

しかし、この畠山義就の行動に関して、疑いの目を向ける人物がいました。

同じ管領の家柄である細川勝元です。

細川勝元は畠山義就の権力を削ぐための行動に出ます。畠山義就を幕府の命に背いたとして追放してしまいます。

そして、自分に近い畠山政長を畠山氏の当主に据えました。将軍足利義政も畠山家の当主が畠山政長になる事を承認しました。

畠山義就が細川勝元に反旗を翻す

畠山義就にしてみれば、当主の座も奪われてしまったので細川勝元に対して深い恨みを抱きます。

河内国において、細川勝元打倒の兵を挙げたのです。

しかし、細川軍は大軍であり常識で考えれば畠山義就はすぐに鎮圧されると思われていました。

戦いが始まってみると、畠山義就は奮戦して簡単には勝たせてもらえません。

畠山義就の元には地方の武士や土豪が集まって士気は高かったわけです。

地方の武士などは、京都だけで決めてしまう幕府の体制が許せませんでした。

しかし、畠山義就は地方の武士にも耳を傾けた為、人気が高かったのです。

細川勝元も中々、畠山義就を討伐出来ずにさらなる大軍を繰り出しました。

ここにおいて、畠山義就も死を覚悟したわけですが、地方武士の一人が畠山義就を名乗り討死しました。

その後の、畠山義就は地方武士の手引きにより村で匿われて過ごしています。

この時の畠山義就は復権の機会を伺っている状態でした。

山名宗全と同盟を結ぶ

細川勝元を討つチャンスは思っていた以上に早くやってきます。

細川勝元と友好関係にある山名宗全が細川勝元を討つ決断をしたのです。

山名宗全は味方を増やすために、畠山義就も味方につけるべく書状を送ります。

これに呼応して畠山義就は5000の兵を集め上洛します。

尚、山名家は信長の時代になると没落していて目立った活躍は出来ていませんが、この頃は8カ国の守護を務める大大名です。

さらに、畠山義就は地方の武士には人気がありましたが、中央の武士で支持してくれる者はいませんでした。

つまり、畠山義就にとっても中央で初めて自分を支持してくれる人物が山名宗全だったわけです。

畠山義就もさぞかし嬉しかった事でしょう。

細川勝元を打ち破る

畠山義就は山名宗全と同盟を結び上洛したわけですが、細川勝元も油断していた所もあり簡単に上洛を成し遂げています。

そして、細川勝元を追い出し山名宗全が実権を握りました。

さらに、畠山義就は細川勝元に擁立された畠山政長も攻撃して破り、幕府からも畠山家の当主として認められています。

幕府の重臣として畠山義就が復帰する事が決定しました

畠山政長は逃亡しています。

ただし、この戦いは京都の戦乱の幕あけでした。

事態が之で収集すればよかったのですが、ここから応仁の乱が始まるわけです。

応仁の乱が始まる

山名宗全が実権を握り自体は収拾したかに思えたのですが、細川勝元が黙っていませんでした。

山名宗全に敗れた後に、兵を集め戦いの準備をしていたのです。

細川勝元は4万の兵を集めて、突如として山名宗全に襲い掛かります。

山名宗全は油断していたため、兵も少なく対処する事が出来ていません。

それでも、畠山義就が5000の兵を率いて反撃に出ます。

京都にある小川を挟んで対峙したようですが、畠山義就は奮戦します。

普通で考えれば、市街戦でもあり勝ち目はないと考えられますが、畠山義就は持ちこたえました。

しかし、ここで衝撃的な事態になります。

足利義政が東軍を支持

細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の戦いを室町幕府将軍の足利義政は中立を保っていました。

しかし、細川方が優勢と聞くと東軍支持を明確に打ち出します。

これにより、山名宗全や畠山義就などの西軍諸将は政敵になってしまったわけです。

政敵になってしまった事で、士気も下がりますし、逃亡する武士もいました。

西軍が完全に負けてしまうと、畠山家の当主も細川勝元に近い畠山政長になってしまう事でしょう。

天下の反逆者になった事で西軍は大きく動揺しました。

しかし、思いがけない援軍が西軍に加担する事になります。

大内政弘が大軍を率いて上洛

西軍はピンチだったのですが、思いがけない援軍が京都にやってきます。

長門の国(山口県)を本拠地にし4カ国の守護を務める大内政弘です。

この時まだ22歳という若武者が瀬戸内海に500隻の大軍団を集結させて上洛しました。

大内政弘は4カ国の守護ではありますが、幕府内の役職が不満で兵を率いて京都に上洛したわけです。

大内政弘の軍勢3万が西軍に加わった事で、西軍は息を吹き返します。

西軍は東軍の拠点を次々に奪い返します。

しかし、この頃から膠着状態に入ります。

尚、援軍に来た大内政弘に対して、畠山義就は家宝の【信國の太刀】を送ったという話が残っています。

家宝であっても、平然と相手に送れるところに畠山義就の魅力があるような気がします。

総大将が迷走??

東軍にも西軍にも加勢が入り東軍16万、西軍11万の大軍が京都で激突する事になります。

しかし、この頃から自分の陣地の守りを固めだして迂闊に攻め入らなくなり、事態は膠着状態に入っていきます。

ただし、謀略戦などは行われていて、西軍の武将である朝倉孝景を越前守護に任じる代わりに東軍に寝返らせるなどの行為はやっています。

応仁の乱がきっかけで全国に戦乱が波及して行く事になります。

かつては、室町幕府の将軍は諸大名の仲裁をする事で強力な権威を持ってきましたが、応仁の乱によって失墜していきます。

山名宗全が切腹未遂

応仁の乱が続くと、それに嫌気がさしたのか山名宗全が細川方に降伏する意向を示す様になります。

しかし、血気盛んな畠山義就や大内政弘が許すわけもなく猛反対されています。

ここでの山名宗全のストレスは想像を絶したようで、何と山名宗全が切腹までしようとした資料まで見つかっています。

切腹未遂で終わりましたが、この時の山名宗全の年齢は60歳を超えていますので心労が辛かったのでしょう。

さらに、痛風になり切腹ができなったという話も伝わっています。

細川勝元が出家??

山名宗全との和平については、細川勝元も望んでいたようです。

しかも、西軍の斯波義廉の家臣である朝倉孝景が東軍に寝返った時点で有利な条件で和睦する事が可能でした。

西軍の戦力がガタ落ちしたからです。

しかし、山名家と領国を接する赤松政則の抵抗があり和睦は失敗に終わっています。

各地の大名がそれぞれの思惑を持って京都に来ているため、簡単に事は収まらなかったのでしょう。

特に大大名が反対するとなると、戦争はやめられなかったようです。

しかし、こういう事態に嫌気がさしたのか、細川勝元が出家して隠居するなどの事件も起きた説もあります。

山名宗全だけではなく、細川勝元もストレスが半端なく溜まっていたのでしょう。

将軍・足利義政も引退

応仁の乱に嫌気がさしていたのは、山名宗全、細川勝元だけではありません。

室町幕府将軍・足利義政もストレスの限界でした。

足利義政に至っては、9歳の息子・足利義尚(よしひさ)に将軍職を譲り引退してしまいます。

無責任に思うかも知れませんが、将軍までもが厭戦気分で離脱してしまいましたw

もちろん、9歳の子供である足利義尚に乱を止める実力はありません。

しかし、ここで一人の女性が登場します。

日野富子が応仁の乱を終結させる

足利義尚は子供なので政治の事がよく分かりません。

政治に対しては、母親である日野富子が力を持つようになりました。

日野富子は、応仁の乱の武士達にお金を貸すなどして蓄財に励んでいます。

これが乱を終わらせる原因になります。

都の滞在費用などで武士はお金に困る者も出ていました。

それに目を付けた日野富子はお金を貸したわけです。

貸した方と借りている方では、お金を貸した方が立場が上になります。

そうなると多くの武士が日野富子に逆らえなくなってきます。

これを利用して、日野富子は応仁の乱を終結させようとしました。

多くの武士が停戦に合意したわけですが、畠山義就や大内政弘は合意しません。

そこで、日野富子は大内政弘に対して、幕府内での役職を山名家と同等にする事を約束します。

これにより大内政弘は戦う意思がなくなり都を去る決断をしました。

これにより11年も続いた応仁の乱は終結します。

河内に転戦する

大内政弘が国に帰ってしまえ西軍は完全に崩壊です。

東軍の多くの武将も国許に帰りました。

畠山義就は応仁の乱によって、何も得る物がありませんでした。

畠山義就は都を離れて、河内の国に転戦します。

応仁の乱が終わっても、畠山義就は戦い続けたのです。

そして、わずか1カ月ほどで河内の国を手中に収める事に成功しています。

畠山義就は独自の法律を作り足軽に給料を与える事にしました。

足軽は給料をほとんど貰えない代わりに略奪が許されてた存在でもあります。

畠山義就は略奪を禁じる代わりに、給料を厚くしたのです。

その代わりに、足軽を賄うための税金を作ったりもしています。

しかし、この政策が民衆に指示されて、短期間のうちに河内の国を支配する事になりました。

これにより、河内の国は畠山義就の支配下になります。

畠山義就は反幕府勢力ですので、独立国を河内に作った事になります。

戦国大名のさきがけとも、呼べる存在です。

その後、1490年まで畠山義就は生き続けました。河内に入ってからも戦いがありましたし、生涯に渡って戦い続けた人でもあります。

不屈の人

畠山義就って、戦はかなり上手いと思いますし、人心掌握も巧みだなと感じる部分が多いです。

確かに、信長、秀吉、家康に比べるとスケールは小さいと感じる人が多いかも知れませんが、不屈の人だなと私は感じました。

敗北もしたりするけど、再び、チャンスを掴み立ち上がってくるところなのです。

戦国時代の初期は名将がいないとか、有名な人がいないなどで、興味がない人も多いかも知れませんが、畠山義就は好きな武将ですね。

ただし、戦国時代後期には畠山家の存在感はありません。

応仁の乱でかなり消耗した感もあります。

尚、最初の戦国大名というと、北条早雲とか朝倉孝景だという意見が多いのですが、自分は畠山義就だと思っています。

「仏法、王法、この世の権威などの最大の敵」とか「大悪人」とも呼ばれていますが、畠山義就にしてみれば誉め言葉になるのかも知れません。

戦国時代の初期を駆け抜けた風のような存在だと感じています。

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