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戦国時代

徳川秀忠は関ケ原では遅参して、【大坂の陣では暴走】している事実

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徳川秀忠と言えば、関ケ原で大遅刻をした事で有名です。

徳川幕府2代目将軍として、政治家として様々な実績がある事も事実です。

しかし、徳川秀忠の史実の生涯を見ると、明らかに戦下手です。

ちなみに、関ケ原のチョンボは有名ですが、大坂の陣でも失態を侵していますw

ただし、今度は遅刻ではなく、先を急ぎ過ぎた為の失敗です。。。

今回は徳川秀忠の戦下手を中心としたお話です。

 

 

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徳川秀忠とは

徳川秀忠と言えば、どの様なイメージでしょうか?

父親である徳川家康に逆らえなかった人とか、関ケ原では真田昌幸が守る上田城を攻略できずにいますし、戦下手が目立つように思います。

しかし、実際の徳川秀忠は政治家として、優れた手腕を見せているわけです。

武士を統制するための決まりである「武家諸法度」や「禁中並び公家諸法度」の制定にも貢献しています。

さらに、徳川家康の死亡後は、徳川幕府を安定させる為に、多くの大名を取り潰しています。

関ケ原の戦いで、大活躍した福島正則も改易されていますし、徳川家康の側近として活躍した本田正純も対象になっています。

身内で言えば、家康の6男である松平忠輝や兄である結城秀康の息子である松平忠直も改易されたわけです。

改易と言うと、負のイメージが強いですが、これにより力のある大名の権力を取り上げる事で、徳川幕府の権力を増したとも言えます。

さらに、外国との貿易出来る場所を、平戸と長崎だけに限定したのは、徳川秀忠です。

鎖国と言えば、徳川家光を思い浮かべる人も多いですが、実際に元を作ったのは徳川秀忠とも言えます。

徳川秀忠は、1623年には嫡男である徳川家光に位を譲っています。

もちろん、春日局の働きかけもあった事は事実です。

しかし、その後も大御所となり実権を握り続けています。

徳川家光の言葉で「生まれながらにしての将軍」という言葉がありましたが、父親である徳川秀忠がしっかりと江戸幕府の政権を安定させたからこそ言えた言葉ではないでしょうか?

この様に、徳川秀忠は政治家としては、非常に有能な人物だったわけです。

しかし、皆もご存知のように、徳川秀忠にも欠点があったわけです。

それが「戦」なわけです。

守成という国を守り発展するには、優れた手腕を持つのですが、戦はまるでダメだった事が分かっています・・・。

 

 

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関ヶ原の戦いが勃発

関ヶ原の戦いと言えば、天下分け目の戦いとして有名です。

徳川家康は最初、会津の上杉征伐に向かいました。

しかし、石田三成、毛利輝元、宇喜多秀家らを中心に、前田玄以、増田長盛、長束正家などの三奉行が西方で挙兵します。

これを聞いた徳川家康は、上杉攻めを中止し、小山評定で徳川方になっている諸将を説得しています。

さらに、江戸に引き返してから征西を始めているわけです。

家康の本隊は海沿いである東海道を進み、秀忠の別動隊は中山道を進んだわけです。

その数は、3万8千の大軍で、しかも徳川家の精鋭部隊を与えられていました。

普通で考えれば、大軍を擁していますし、大軍に敵なしとばかりに、突き進めばいいと考えるかも知れません。

しかし、信州上田城に真田昌幸・信繁(幸村)親子が守っていたわけです

 

真田昌幸に騙される

真田昌幸は、表裏一体の者とも言われていて「曲者」だった事は間違いありません。

最初は、徳川家康率いる会津征伐に参加しておきながら、石田三成ら西軍に鞍替えした武将でもあります。

尚、真田昌幸の嫡男である、真田信幸は東軍に入っています。

徳川秀忠は、信州の小諸城に入ると、真田昌幸に降伏勧告をしています。

この時に、真田昌幸の兵士は2000しかいなかったのもあり、降伏勧告をしたのでしょう。

真田昌幸は、降伏を受け入れて日にちを設定し、会見する事になりました。

しかし、会見するのに、城兵を説得するのに時間が掛かるなどの言い訳もあり、引き延ばされていますw

その後、真田昌幸と会見を行ったわけですが、真田昌幸は徳川秀忠に宣戦布告してきたわけですw

しかも、一説によると真田昌幸はわざと、徳川秀忠に無理難題を言い挑発までしたと言われています。

この行動は、真田昌幸が籠城戦の為の準備をするための時間稼ぎだったのでしょう。

この真田昌幸の行動に対して、もちろん徳川秀忠は激怒するわけですw

というか、真田昌幸の役割は徳川秀忠を関ケ原に遅刻させるのが目的なので、倒す必要はなく、攻めあぐねてくれればいいわけです。

経験値の差がモロに出てしまったと言う奴なのでしょうw

相手を怒らせるのは、こちらに攻めて来てくれるための手段でもあったはずです。

 

第2次上田合戦が始まる

第一次上田合戦は、1582年に行われています。

織田信長が本能寺の変で倒れて、徳川家康は命からがら三河に逃げ帰るわけです。

しかし、三河に到着すると、信長の領土のはずである甲斐・信濃を自分の国にするために切り取りを始めたわけですw

上杉景勝、北条氏政、徳川家康で信濃を領土化しようとして、真田昌幸は生き残りの為に、寝返りを数多くしているわけです。

徳川家康は兵を向けたのですが、真田昌幸のゲリラ戦法の前に敗退しています。

そのリベンジもあり、徳川秀忠も燃えていた事でしょう。

最初に、真田信之に砥石城の攻撃を命じています。

ここを守っていたのは、真田信繁(幸村)だったのですが、真田同士で戦うのはよくないと言い開城しました。

真田信繁は、そのまま上田城に引き上げています。

その後、小諸城から徳川秀忠は上田城を落とすつもりで進撃しています。

城を落とすには、10倍の兵力が必要と言われていますが、下手をすれば徳川軍は20倍近くの兵士がいるわけです。

徳川秀忠は、上田城近辺の稲の刈り取りを始めました。

民衆が困る事をやれば、真田昌幸が怒って城を出て戦うという手法です。

予定通り、城から真田昌幸は討って出たわけです。

すかさず徳川秀忠は攻撃命令を出すと、真田昌幸はあっけなく敗れて敗走しました。

この軍勢を追撃しまくったのですが、上田城に近くになると、大量の鉄砲の玉や弓矢に攻撃されてしまい多数の死者を出す事になりました。

さらに、撤退しようとすると、追撃されてしまい、さらに伏兵が出て・・・wさらに、神川が決壊(真田軍の仕業)していて、大混乱となり多数の死者が出たわけですw

この様に、散々な結果になってしまいましたw

徳川秀忠は初陣だったわけですが、初陣にしては相手が悪かったのかも知れません。

 

関連記事:徳川家康の天下人への布石は【忠誠と裏切り】に有り!?

 

関ヶ原の遅参する

徳川秀忠は、意地になって来たのか、上田城攻略を諦める事をしませんでした。

真田昌幸に騙された事が余程許せなかったのでしょう。

家臣は上田城は放っておいて、「徳川家康と合流するべし」という意見も多かったようで、大軍と言えども意思の統一が出来ていなかったようです。

しかし、徳川家康から書状が届くわけです。

もちろん、内容は「さっさと来い!」ですw

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ここにおいて、仕方がなく徳川秀忠は上田城を後にして、関ケ原を目指す事にしました。

信濃や美濃は、山奥で隘路が続きますし、さらに利根川の反乱や天候不順などにより、進軍は困難を極めました。

関ヶ原の到着したのは、3月19日です。

関ヶ原の戦いは、3月15日に行われていた為、結局は関ケ原の戦いに間に合わなかったわけです。

家康が激怒した事は言うまでもないでしょうw

尚、関ケ原の戦いの時に「信康(切腹した家康の長男)がいてくれれば・・・」と言ったともされています。

信康は武勇に秀でていたとも言われていますので、松平信康が生きていれば、こんな失態は侵さなかったのかも知れません。

家康としては、後の外様大名になる勢力よりも、譜代の大名に手柄を立てさせて政権を盤石にしたかった狙いもあったはずです。

それを考えると、秀忠の遅参は落胆した事でしょう。

後に徳川秀忠は、先に述べたように多くの大名の改易を行っています。

戦の失敗は、政治(大名の改易)で取り返したと思っているかも知れませんねw

 

関連記事:関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなかった!

 

大坂の陣で暴走??

大阪冬の陣では、豊臣家を滅ぼすために、徳川家康は出陣する事になりました。

徳川家康は豊臣秀頼と二条城で会見した時に、秀頼と秀忠を比べたら、秀頼に軍配が上がるから、自分が生きているうちに潰しておかねばならないと考えたのかも知れません。

この時に、秀忠にも出陣要請が来ています。

しかも、前回を上回る6万の大軍を率いて、大坂城に目指す事になりました。

この時の徳川秀忠は、関ケ原の戦いでの汚名挽回をしたかったのか、迅速すぎる程の行動に出たわけですw

当たり前ですが、戦国時代は新幹線も無ければ、車もありません。

そのため徒歩で歩いて行かなければならない分けです。

徳川秀忠は、1日に多い日ですと、70キロを走破したと言われています。

参考にですが、織田信長が明智光秀に本能寺の変で亡くなると、羽柴秀吉は明智光秀を討つために中国大返しをやっています。

この時に、羽柴秀吉は10日で200キロを走破したそうです。

その後、山崎の戦いで明智光秀を討ち果たしています。

走行距離で言えば1日に20キロほどとなります。

それに対して、大坂の陣の時の、徳川秀忠は1日で70キロも走破してしまったわけですw

現代のマラソン選手であっても、1回のマラソンで42,195キロを走ります。

明らかに早すぎるスピードで目的地を目指しているわけですw

さらに、武器や弾薬、兵士なども置き去りにして、尋常ではない速度で進んでいますw

一人だけ早く戦場についても、意味がないはずなのですが、この時に徳川秀忠は何を考えていたのでしょうか?

 

家康の命令も跳ねのけて進み続ける

徳川家康は、この徳川秀忠の行動を目にすると、もちろん激怒するわけですw

「兵士を休ませながら、ゆっくりと前進するように」と指示を出します。

徳川秀忠という人は、後継者を決めるにも家康の指示を守ったような人物です。

基本的に、父親である徳川家康に対して従順な人となります

しかし、この時だけは何故か家康の命を背き、そのまま伏見まで突き進んだわけですw

もちろん、兵士は疲れ果ててしまい、とても戦える状態ではなかったともされていますw

徳川秀忠としてみれば、関ケ原での汚名挽回とばかりに全力でやり遂げたのかも知れません。

徳川秀忠としてみれば、また行軍中に真田昌幸が出るかと思って、ひやひやして行った可能性もあります。

当たり前ですが、この無茶苦茶な行軍に対して、徳川家康は大激怒していますw

徳川秀忠は戦下手とも言われていますが、こうした行動は戦下手以前の問題とも言えるでしょう。

この時に、秀忠を諫める部下はいなかったのでしょうか?

多分ですが、いたとしても聞く耳を持たなかったのでしょうw

 

大坂の陣は野戦で決戦をすれば勝っていた?

これは想像になるのですが、大坂の陣の前に真田昌幸は高野山で亡くなっています。

真田昌幸は、豊臣と徳川の戦争が再び起ると思っていたようです。

徳川家康を野戦で勝負を決する策を、真田幸村に授けたとも言われています。

実際の大坂の陣では、真田幸村は野戦を主張しましたが、大野治長などにより採用される事はありませんでした。

しかし、疲れ切った徳川秀忠の軍を攻撃したとすれば、案外、勝てたのかな?と思ったわけです。

実際に、豊臣家の方に攻撃が出来る準備があったのかも分かりませんが、ちょっと気になる所だと思いました。

尚、真田昌幸は既に秀忠の行動を分析していて、「あいつは真面目だから、関ケ原の事を気にして絶対に強行軍を出す」と言う事を見越していたとしたら、凄い予知力だとも感じたわけです。

しかし、天敵である真田昌幸が大坂の陣の時に、既に死んでいたのはラッキーだったのかも知れません。

別の考え方をすれば、真田幸村は大阪の陣の時に「信濃を与える」と言われても、徳川方に寝返る事はありませんでした。

しかし、真田昌幸であれば、ゴネて交渉を有利にした上で、徳川方に寝返る可能性もあるでしょうw

それを考えれば、真田昌幸が生きていた方が大坂の陣は、さっさと決着が着いたかもしれません。

歴史のIFは無いと言われますので、今となっては分からない所でもあります。

 

徳川秀忠は真面目過ぎるのか?

徳川秀忠の行動を見ると、非常にまじめだと言う事が分かります。

戦だと臨機応変が凄く重要になるのですが、それが欠けているとも感じたわけです。

第2次上田合戦の時も、上田城攻撃を命じたのは、徳川家康だとも言われています。

徳川秀忠としては、敗れたとはいえ忠実に命令を実行しただけです。

さらに、上田城を諦めてくるように家康は使者を派遣していますが、利根川の氾濫により使者の到着が遅れています。

それらを考慮すると、関ケ原に遅刻してしまったのは、一概に秀忠の責任と言えない部分はあります。

ちなみに、関ケ原に遅れた事で、徳川家康は非常に機嫌が悪く会おうともしなかったそうです。

現在の滋賀県にある大津城で秀忠は追いついたわけですが、家康は仮病を使って面会を拒否したとも言われいますw

その後、伏見城で面会が許されたという話が残っています。

家康の命令に従ってやっただけなので、面会を拒否するなどの徳川家康の行動は、よくないかなとも感じましたw

もちろん、多少の叱責はあっても構わないと思いますがw

徳川秀忠という人は、策を弄するなどの事は苦手で、どちらかと言えば内政を得意としていたのでしょう。

しかし、木を見て森を見ずという言葉がありますが、大坂の陣では、遅刻しない事だけを全力で考えた結果が、早く着きすぎて大激怒されるにつながったのだと思われます。

一点集中型の人物なのかも知れませんね。

ただし、内政においては力を発揮していますので、守成の名君という言葉が合っているのでしょう。

ちなみに、徳川秀忠は、戦国時代の群雄割拠の状態であれば生き残れなかったのでは?と個人的には思っていますw

真田昌幸辺りに騙されて、滅亡していた可能性もあるでしょうw

 

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