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毛利隆元は、毛利元就の長男です。
毛利元就よりも早く死んでしまった事で、知名度は低いと言えます。
毛利隆元は、超ネガティブでコンプレックスがあった事が書状などから分かってきています。
ただし、実は目立たないようで、父である毛利元就や弟である吉川元春、小早川隆景よりも優秀だった説もあるのです。
ここでは、毛利隆元のネガティブ具合や活躍などをお話いたします。
尚、三本の矢のうちの一本は非常に折れやすい矢だという話でもありますw
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目次
毛利隆元はリーダータイプなのか?
先日、某歴史番組を見ていたら、毛利元就の次世代育成術の話をしていました。
息子たちをどのように教育するかの話しです。
それによると、毛利隆元は桜のような華やかな人柄でリーダータイプだと紹介されていました。
ちなみに、吉川元春は梅に例えられて武芸に優れた猛将と紹介されていて、小早川隆景は柳のような男で軍師タイプとして紹介されています。
毛利隆元は、リーダータイプとして紹介されていましたが、私が思うに世間一般でいうリーダー像とはかけ離れていると思いましたw
史実の毛利隆元を見る限りネガティブな部分もかなり多く見受けられるからです。
ネガティブ具合を見る限りでは、みんなに勇気を与えてくれるようなリーダーではないでしょうw
大内家に人質として出される
毛利隆元は15歳の時に、中国地方や九州地方に広大な領土を持つ大内義隆の元に人質として行っています。
当時の大内家は全盛期を迎えていて、大内氏の本拠地である周防・長門は「西の京」とも呼ばれていて大発展していました。
因みに、応仁の乱の時に、ピンチの陥った西軍を救い、山名宗全や畠山義就らと共闘した、大内政弘は大内義隆の祖父に当たる人物です。
名門であり当時の最先端の文化を持った大内家に毛利隆元は人質として3年間過ごしています。
この時に、様々な教養を身につけたようです。
ここで一般的には、毛利隆元は政治のセンスを磨いたとされています。
しかし、後に人質生活が終り吉田郡山城に戻ってくると、能や芸にばかり熱中していたようですw
大内氏の元では、政治を学んだのではなく、遊びを覚えただけなのかも知れませんw
別名として、教養を身に着けたとも言いますが・・・。
しかし、それ見ていた毛利元就は「公家の様な事ばかりするな!戦争、計略、謀略、武芸を学べ」と、怒りの叱責があったようですw
毛利元就とすれば、修行の意味もあり毛利隆元を大内家の人質に送ったのに、骨抜きにされたと思ったのかも知れませんw
関連記事:畠山義就を知れば応仁の乱が分かる!【不屈の人・畠山義就】
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厳島の戦いの勝利の立役者は毛利隆元だった?
大内家の当主である大内義隆は、即位した当時は名君でした。
勘合貿易により経済を発展させて、軍事でも少弐家を一時的に滅亡に追いやったり北九州にまで領土を広げています。
さらに、毛利元就の後詰として戦った尼子家との吉田郡山城の戦いで勝利を収め、その勢いで安芸の武田氏も滅ぼしています。
この様に大内義隆の治世の初期の頃は文武両道の名君だったわけです。
しかし、後半は和歌などの趣味に没頭しすぎたのか、やる気のない暗君と化しています。
これに対して、大内家の有力家臣である陶晴賢が謀反を起こして、大内義隆を殺害して実権を握っています。
この時の毛利家では、陶晴賢に従うか離れるかで態度を決めかねていました。
一説によると、毛利元就は陶晴賢に従おうとしたとされています。
しかし、毛利隆元は次の様に述べています。
陶晴賢は、大内義隆様に反逆を起こした逆臣です。家中では納得していない者も多く。一枚岩ではありません。陶晴賢に付くべきではありません
毛利元就は、この言葉を採用して大内家の傘下を抜けて、独自で行動を取るようになります。
そして、安芸領内の大内家の城を攻撃を掛けて落とし始めたわけです。
これが後に、厳島の戦いに繋がるわけですが、毛利隆元の進言があったからこそ、毛利家は飛躍に繋がったと取れると思いました。
厳島の戦いと言えば、毛利元就の戦略や、村上能吉率いる村上水軍を呼び寄せた小早川隆景、陶晴賢を背後から襲った吉川元春などが目立ちます。
しかし、全体的な方向性として毛利隆元の進言があった事で勝てたと言うのもあるでしょう。
毛利家全体での勝利とも言えます。
尚、毛利隆元と陶晴賢は年齢的に近いので、大内家の人質時代からマークしていたのかも知れません。
性格的に傲慢になりやすいとか、性格的な弱点を毛利隆元が掴んでいた可能性もあるでしょう。
分析された言動が「大内家と縁を切れ」だったのかも知れません。
毛利隆元はネガティブ過ぎる
ここまでの毛利隆元を見ると、毛利元就に叱責はされていますが、見事な後継者になりそうな予感がします。
しかし、毛利隆元の書状などが残っていて、それによると超ネガティブな人物だと言う事が分かりました。
特に、一つ年齢が上の僧侶である竺雲絵心への手紙には、かなりネガティブな言葉が並んでいるわけです。
・現在、生きていても楽しい事は何もない
・私は無能で仕えない男である
・毛利家は自分の代で終わりになるに違いない。
・私は家運が尽きる時に生まれた定めを持った男だ
・父親(毛利元就)は毛利家始まって以来の英傑であるが、自分は足元にも及ばない
・今の毛利家の発展は、私の代で滅びる前の最後の輝きだ
・この世に思い残す事は無い、来世の安楽を願う
・名将には必ず不運な者が生まれると言うが、それが私だ
これらの事が書き示されていたそうですw
さらに、読んだから燃やして欲しいなどの文言も入っている文書もありますw
心にかなり深い闇を持っていたのではないでしょうか?
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ブログを書いている私の方までネガティブになって行ってしまったほどです・・・。
さらに、1557年に隠居しながらも、実権を握り続けた毛利元就が完全に引退すると宣言します。
すると、毛利隆元は自分では保つ事が出来ないと思ったのか、毛利元就に次のような書状を送っています。
私は無能でとても毛利家を保つ事が出来ません。現在、毛利家は5カ国の太守になっています。この重責は自分では耐える事が出来ません。
もし父上(毛利元就)が隠居すると言うのであれば、自分も隠居して幸鶴丸(毛利輝元)に家督を譲り自分も隠居します。
それでも、父上が隠居すると言うのであれば、自分は自殺して、父上に無理やりにでも毛利家の政務を執ってもらいます。
これはとても謙遜とは言えないような文言ではないかと思います。
結局、毛利元就は完全隠居宣言を取り消して、今まで通りに政務を執るようになりました。
これを見ると、毛利隆元はネガティブ過ぎるよな~とも感じました。
心の闇が深そうな気がしてなりません・・・。
三本の矢の話しは、毛利隆元のネガティブから出た言葉だった
毛利元就の有名な話で三本の矢の話しがあります。
1本では折れやすいが、3本を折ろうとすると大変だという話です。
この話は創作の話しと言われていますが、元になったような話が残っています。
それによると、毛利隆元は毛利元就に書状を送っています。
吉川元春と小早川隆景は、私を助けれくれるはずなのに何もしてくれません。
吉田郡山城に来たとしても、すぐに自分の領地に帰りたがります。
さらに、吉川元春と小早川隆景は二人でばかり仲良くしていて、私を除け者扱いしています。
こちらから、二人に話しかけても全く相手にしてもらえません。
このようなネガティブな書状を父親である毛利元就に送り付けているわけです。
毛利元就は、「これは毛利家崩壊の予兆だ」と思ったのか、急いで吉川元春と小早川隆景を呼び出しています。
そして、3人に次のように説いています。
3人(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)が少しでも仲違いをしたら、毛利家が滅亡すると考えよ。毛利家を残す事を第一に考えよ
これが三子教訓状と呼ばれる物で、三本の矢の話しの元になったとされています。
三本の矢の話しは多くの人が、喧嘩ばかりしている兄弟を仲直りさせる為のものだと考えがちです。
しかし、実際には、毛利隆元のネガティブ発言から出たわけですw
それでも、これで毛利家が結束したのであれば、このネガティブは悪くはないのかも知れませんw
雨降って地固まるって奴になるのでしょう。
尚、ちゃんと正直に現状を毛利元就に報告した事がよかったのかも知れませんね。
毛利隆元は優秀な人だった
ここまで見てみると、毛利隆元ってネガティブ過ぎて無能なのでは?と思った人もいるかも知れません。
しかし、実際の毛利隆元は優秀な人でもあったようです。
毛利隆元は、毛利元就よりも早く亡くなってしまうわけですが、次のような逸話が残っています。
毛利隆元は食中毒で突然亡くなってしまったわけです。
そこで、毛利隆元の役割と毛利元就、吉川元春、小早川隆景や宍戸隆家ら家臣たちで分担したそうです。
しかし、誰も上手にやる事が出来ずに、毛利家の収入が減ってしまったと言いますw
毛利隆元の事を優秀だと気が付いている人はいなかったようですが、いなくなった時に優秀さが分かったと言う話です。
毛利元就などは、毛利隆元に変わって軍資金の手配をしようとしたら、断られたと言う話まで残っていますw
いなくなって始めて、凄さが分かったのが毛利隆元だったのでしょう。
尚、毛利隆元が死亡した時に、毛利元就は3日間泣き続けたというエピソードがあります。
さらに食事を出した和智誠春らを誅殺しています。
親というのは、末子を可愛がる傾向にありますが、毛利隆元も父親からかなり愛されていた事が分かります。
毛利隆元が生きていれば、戦国の乱世は変わった展開だったのかも知れません。
ネガティブ過ぎて、滅びた可能性もあるかも知れませんが・・・。
ネガティブは悪い事なのか?
毛利隆元が、非常にネガティブな人だと言う事が分かったのではないかと思います。
「ネガティブはいけない」と思われがちですが、天下人であってもネガティブさが出る事があります。
室町幕府を作った、足利尊氏はピンチになると、直ぐに切腹すると言い出す人物でした。
江戸幕府を開いた徳川家康も、桶狭間の戦いで先陣を務めましたが、総大将の今川義元が織田信長に討たれた事を聞くと切腹すると言い出していますw
他にも、徳川家康は本能寺の変で信長が死んだ時も、大坂の陣で真田幸村に追い詰められた時も、切腹すると言い出していますw
これを考えると天下人と言っても、ポジティブだけではない事が分かります。
ただし、毛利隆元と徳川家康、足利尊氏の違う所はピンチになるとネガティブになる所でしょう。
普段からネガティブな毛利隆元とは別なのかも知れませんw
しかし、ある本で読んだのですが、ネガティブというのは悪い事ではないらしいです。
例ですが、大量に毒蛇がいる山に「きっと大丈夫だよ!」と入って行ってしまえば危険ですよね。
この様にネガティブというのは、ピンチを見分ける能力でもあるわけです。
ネガティブな人はポジティブな人に比べて、欠点を見抜きやすいとされています。
つまり、ネガティブ要因を全て取り除けば、手堅く上手く行くという話です。
この話は、本当かどうかは分かりませんが、一理あるような気がします。
尚、余りにもネガティブ過ぎるとダークサイドに落ちてダースベイダーになってしまうかも知れませんw
そのため、ネガティブ過ぎるのも問題だと感じています。
しかし、宗教系とかネットワークビジネス系の人は、極度にポジティブ過ぎて逆に気持ち悪く感じたりもします。
これは私だけかも知れませんけどね・・・。
プラス思考とマイナス思考のバランスが大事なのでしょう。
尚、9度落城しても死ななかった戦国最弱と呼ばれている小田氏治はポジティブではなかったかと思っていますw
これでネガティブだったら、笑っちゃいますけどねw
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