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袁紹の宦官撲滅と、袁紹が董卓も元を離れた理由

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袁紹と言えば、北方の雄として一時は天下統一の勢いがありました。

袁氏は、四代連続で三公の高位を出すなど、名門中の名門だったわけです。

袁紹は劉表と共に優柔不断な人物として描かれる事が多いと言えます。

しかし、後漢の霊帝が崩御して、何進が宦官たちにより殺害された時は、やけに動きが早かったわけです。

今回は、袁紹の宦官撲滅事件についてのお話しとなっています。

余談ですが、袁紹の宦官撲滅事件の時に、後漢の文官たちは素っ裸になり、身の潔白?を証明したとも記録があります。

それらも合わせて紹介します。

袁紹は何進の仇を討ち宦官を撲滅しますが、帝を保護し権力を握ったのは董卓です。

袁紹は董卓の元を逃亡していますが、その辺りも考えてみました。

尚、後に皇帝を名乗ったりして、迷走感がある袁術と袁紹は父親が兄弟であり親戚となります。

しかし、強大な勢力を持っていた汝南袁氏が、袁紹派と袁術派に分かれてしまったのは、お互いにとって不幸だったようにも感じています。

 

 

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目次

袁紹が何進の腹心となる

袁紹というのは、ちょっと変わった所があり、父親が死んだりすると3年の喪と呼ばれて、喪に服する期間が3年あるわけです。

しかし、袁紹はなぜか6年も行った記録があります。

さらに、出仕して官位に就こうともしなかったそうです。

黄巾の乱の時に、董卓、劉備、孫堅、曹操などは戦いに出向いたようですが、袁紹が何をしていたのかはイマイチ分かりません。

黄巾の乱の時には、まだ家でプータローでもしていた可能性もあります・・・。

時の大将軍である何進は、何を思ったのか袁紹を部下にしようとしたわけです。

袁紹は仕官の話は断り続けていたようですが、何進の誘いとなると、直ぐに引き受けています。

袁紹は何進に何か期待する所があったのかも知れません。

その後、袁紹は何進の元で出世していくわけですが、後漢の皇帝である霊帝が若くして崩御してしまいました。

次の皇帝は、少帝がなったわけですが、少帝は何進の妹の子供です。

この事から、何進は皇帝が変わっても大将軍から解任される事もありませんでした。

 

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宦官と外戚の権力争い

漢王朝は、宦官と外戚の権力争いの場でもありました。

外戚というのは、皇帝の親戚です。

霊帝や少帝で言えば、何進が外戚に当たります。

外戚の力が強くなってくると、簒奪という事が起こり、実際に劉邦が起こした前漢は外戚である王莽に国を奪われているわけです。

外戚が力が強くなりすぎると、皇帝は自分の身の回りの世話をしている宦官などに知恵を借りたりして、排除する事もありました。

後漢の桓帝は、宦官の力を使い外戚を排除しています。

桓帝の後継者である霊帝も、宦官をかなり重用した事が分かっています。

しかし、宦官の権力が強くなりすぎると、秦末期の胡亥の時代の趙高などの様に国が腐敗してしまう危険もあったわけです。

三国志の蜀も劉禅が宦官の黄皓に、政治を任せた事で滅亡したと指摘する人もいます。

後漢の霊帝の頃も十常侍と呼ばれる、宦官たちの力が強く残っていました。

袁紹は宦官を撲滅する事を考えて、何進に進言していたわけです。

 

何進が暗殺される

袁紹は宦官を撲殺するように考えていました。

これに関しては、政治をないがしろにするとか、皇帝を操ろうとする所が気に入らなかったのかも知れません。

さらに、皇帝に変な事を告げ口されてしまえば、袁紹も身の危うさは感じていたはずです。

袁紹は名門出身であり、宦官などにはマークされていてもおかしくはないでしょう。

しかし、何進は元々は街の単なり肉屋でした。

妹が美貌と強気の性格を気に入られて、後宮に入った事で出世した人物です。

何進が出世するために、宦官たちも協力してくれた事もあったようで、恩も感じていたのでしょう。

何進としては、宦官との共存を考えていたのかも知れません。

この事から何進は、宦官撲滅に対しては腰が重かったのでしょう。

しかし、袁紹は皇帝である少帝が若い事もあり、宦官に対する危険性を感じていたようで、何進に宦官撲滅を度々進言しました。

この時に、袁紹は宦官を倒すために、都に董卓を呼び寄せるように、何進に進言しています。

袁紹の言葉を聞き入れた何進は都に、董卓を呼び寄せるわけですが、これが後に董卓が実権を握るきっかけとなります。

尚、董卓は丁原を呂布に暗殺させるなどして、丁原の兵を奪うなどもしています。

何進も重い腰を上げて、宦官を討つ事を決めたわけですが、最後の行動を起こす直前で張譲、趙忠ら十常侍に殺害されてしまいました。

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袁紹が宮中に攻め込む

宦官の張譲、趙忠らは、何進を暗殺すれば、事は収まると考えいた節がありますが、実際にはそうはなりませんでした。

袁紹らは何進が殺されてしまい、十常侍を倒さねば、後に帝により罰せられる可能性も高かったからです。

もちろん、皇帝である少帝の意志とは関係なく、十常侍が帝を操り袁紹らを罰する事も十分にあり得ました。

その事から袁紹らは、何進の死を聞くと宮中になだれ込んでいます。

 

後漢の文官たちが素っ裸に・・・

袁紹らは宮中に武器を持ってなだれ込んだわけですが、宮中には宦官の他にも、後漢の文官たちもいたわけです。

袁紹や兵士たちは、文官と宦官の見分けを付けなければなりません。

そこで、宦官は去勢されているため、髭が伸びないなどの特色があったようで、髭の無い者を殺戮していきます。

しかし、元々髭を伸ばさない人や髭が薄い人、生えない人もいました。

髭の無い後漢の文官らは、素っ裸になり、自分の股間を見せて、一物が付いている事を確認させて、命乞いをした話が残っています。

やっぱり、命の為であれば、昔の人も素っ裸になる事も厭わなかったのでしょう。

 

董卓が実権を握る

宦官たちは袁紹が攻めてくると、少帝と陳留王(後の献帝)を連れて逃げ去っています。

しかし、追手が近づいて来ると、無責任にも帝を残して自殺してしまったとも言われています・・・。

この時に、帝を保護する事になったのが董卓であり、董卓が漁夫の利を得る形で権力を握ったわけです。

後漢末期の外戚の何進と宦官たちの戦いは、共倒れに終わる事になります。

しかし、何進が死に董卓が実権を握った事で、皇帝は完全に飾りでしかなくなってしまったのでしょう。

霊帝までは、皇帝は何だかんだで権威があったように思いますが、少帝、献帝の時代は外戚でもない董卓が実権を握った事で、後漢の皇帝は形だけの存在になってしまいました。

 

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なぜ袁紹は董卓の元を去ったのか?

董卓は実権を握るわけですが、董卓は袁紹を重用しようとしていた節があります。

董卓は少帝を廃して、陳留王を即位させようと袁紹に相談しています。

この時に、袁紹と董卓が言い合いになった話もあるのですが、この話に関しては信憑性が薄いと感じている人も多いと言えます。

この時は董卓に絶大な権力があり、袁紹であっても下手に反論すれば首が飛ぶ可能性が十分にある状況だったからです。

袁紹は董卓の元を逃亡するわけですが、逃亡した理由がイマイチはっきりとしません。

専門家によっては、董卓は袁紹を重用しようとしたが、名門出身である袁紹は董卓を田舎者とみて毛嫌いして逃亡したという人もいます。

しかし、袁紹は大将軍である何進の配下には、直ぐに快諾した過去があります。

何進は洛陽出身ではありますが、庶民の出であり名門出身の袁紹と比べれば、貴さは月とすっぽんです。

それにも関わらず出仕しています。

考えてみたのですが、董卓はかなり粗野な性格をしています。

孫娘である董白には優しかったのかも知れませんが、呂布に手戟を投げつけた話もあり、乱暴者であったことは間違いないでしょう。

それに比べると、何進は優柔不断に見えるかも知れませんが、性格が粗野ではない様に思えます。

その辺りを感じて、何進には使えたが董卓には使えたくなかった可能性もあるでしょう。

劉備も中山靖王劉勝の末裔は名乗っていますが、実際には民衆の出であり名士でもありません。

しかし、袁紹は劉備がやってくると一軍の将にしていますし、官渡の戦いでも文醜と共に出撃させています。

それを考えると、袁紹は自分が名門であっても、相手の出自に関しては気にしない性格だったのかも知れません

他にも、大将軍として後漢で最も権力を握っていた何進が、宦官たちにあっという間に殺害されてしまい、人生の儚さを感じて、どうせ人間は死ぬんだったら・・・と考えて天下取りに邁進する事にした可能性もあるでしょう。

袁紹が董卓の元を離れたのは、袁紹が董卓の性格を嫌っていたのか?粗野な性格の為に身の危険を感じて都から脱出して冀州に逃れたのかも知れません。

後に、曹操らと反董卓連合軍の盟主になるわけですが、盟主に就任する辺りも董卓嫌いの現れなのかな?と思いました。

ただし、董卓にして見れば、「なんで俺が袁紹に嫌われなきゃならないんだよ!」と逆恨みするような状態だったのかも知れませんがw

 

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