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夏王朝について書いてみたいと思います。
尚、上記が通説ではありますが、夏王朝の支配領域です。赤文字で囲っている部分が支配領域になり、そこに洛陽や二里頭遺跡も含まれます。
今の中国と違い遥かに領域は狭い事が分かりますね。
夏王朝は中国史上初めて出来た世襲王朝だとされています。
史記にも載っていますが、夏王朝はまだ実在したか確定されていません。
しかし、伝説にはしっかりと残っているわけです。
中国の歴史では、三皇五帝時代がその前にありますが、そこでは徳の高いものが国を治める風潮があったようです。
それに対して、夏王朝は血縁を重視していて、王様が亡くなると、次の王様は息子か弟がなると言った感じで血縁重視に変わっていきました。
その夏王朝の始祖が禹という人物です。
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目次
禹の業績
夏王朝の始祖と呼ばれている「禹」という人物は、今までの王朝の開祖とはちょっと変わっています。
中国王朝の場合は、王朝が変わる場合は、武力行使があり武力によって前王朝を打倒して出来るのが普通です。
それに対して、夏王朝の始祖である「禹」の場合は、治水工事の業績を瞬(五帝の一人)に認められて王になります。
禹が武力討伐により瞬を追い出したとか、そういう話はありません。
禹の治水工事のやり方
禹の治水工事のやり方について記録が残っています。
もちろん、禹は伝説上の人物ですので本当かどうかは確証はありません。
しかし、このような伝説が残っているのです。
帝堯(5帝の一人)の時代に大河が氾濫して民が困っているので、帝堯は鯀(禹の父親)という人物を任命して治水工事に当たらせます。
鯀の治水工事のやり方は、川を咳止めたり塞いだりして治水を試し見ます。
しかし、河の氾濫を治める事が出来ずに、結局、鯀は責任を取らされて処罰されてしまいました。
処罰された理由については、日常の生活態度が悪かったや、工事が失敗して処罰される前に死んでいたなどの説もあります。
しかし、鯀が治水工事で失敗した事は、全ての書物で一致しているところです。
鯀の息子である禹の治水工事のやり方は、水を正しい方向に導くというやり方です。
河の流れを塞いだりせずに、適切な場所に導いたとされています。
この治水工事が大成功に終わり黄河などの氾濫も治まり、その功績を認められて瞬から王位を譲り受けます。
ただし、禹自身は現場至上主義で全身がボロボロになるまで仕事をして、最後は半身不随にもなってしまったなどの記述もあります。
息子の啓が生まれても家の前を通り過ぎて次の仕事に向かったなどのエピソードもあるくらいです。
突拍子もない話だと、自分の姿を決して見てはいけないと、洞窟の中に入ってったけど、言われた人は見たくなってしまって、洞窟の中を見てしまったら禹が熊に変身して土木工事をしていたという話もあります。
人間はどう考えても、熊にはなれないので、この話は信じない方がいいとは思いますが、完全なる仕事人間だった事は間違いないでしょう。
現在でも、禹は治水の神様として崇拝されています。
尚、禹は、中国の南方である会稽で崩御したと言われています。会稽は「会計」の意味で、諸侯を功績によって分封した事から会稽と名付けられたとも言われています。
後に、中国の春秋戦国時代に活躍する越王句践は、禹の子孫を名乗っています。
伝説を信じて会稽まで夏王朝の支配領域だとしたら、通説を上回るほどの支配領域になりますね。
黄河だけではなく、長江よりも南も支配下にあった事になるからです。
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夏王朝が始まる
禹は、王位につくわけですが、実際のところ夏王朝を開いたのは禹ではありません。
息子の啓になります。
禹は、臣下の「益」という人物に帝位を譲って崩御します。
しかし、益は自分で帝位に就こうとはせずに、禹の息子である啓に位を譲り隠遁してしまいます。
そこで、啓が帝位に就き諸侯も啓の元に集まり中国史上初の世襲王朝である夏王朝が誕生したというのです。
ただし、禹は益に位を譲ったが、啓が益を殺害して帝位を簒奪したなどの説もあります。
夏王朝自体が伝説の王朝ですし、実際に禹、益、啓が実在したのかも分かりません。
この頃の中国は文字がないため、あくまで伝説になってしまうわけです。
ちなみに、史記の夏王朝の記事に関しては、禹の実績が大半で、最後の夏王傑の記事が少しあるだけで終わってしまいます。
最初と最後以外は、ほとんど史記ではわかりません。しかし、列伝などの部分での人物の会話などでは出て来たりします。
その部分を信じていいのかどうかは分かりません。
夏王朝は1回滅亡して再興したのか?
史記にある夏王朝の記事を見ると、このようになっています。
夏后帝啓崩ず、子、帝太康立つ。帝太康が国を失う。太康崩ずる。弟、中康立つ。中康崩ず。子、帝相立つ。帝相崩ず。子、帝小康立つ。
このような記述があります。その間にあった事件などについては一切触れずに、即位した順番だけが記録されているのです。
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しかし、ここに謎の記述があります。
帝太康が国を失う。という記述です。啓の息子である3代目の帝太康の時代に国を失ったと書かれています。
国を1回失ったにも関わらず、その後の記述を見る限り王朝は続いています。
これに対して、史記を読んだ時に凄く違和感がありました。
その時に思った私の解釈としては、首都を異民族か諸侯の反乱で国を奪われて遷都したとか、王朝内の実力者に実権を奪われた状態。鎌倉幕府の将軍と執権のような関係を思い浮かべたわけです。
これに関しては、帝太康が国を失った事に関しては、史記ではこれ以上の記述は分からずに、結局、竹書紀年や春秋左氏伝を読む事になりました。
それによると、帝太康は有窮国の后羿という人物に夏王朝の首都である斟尋を占領されたそうです。
帝太康が無くなると、弟の中康が即位しています。それを考えると、中康が后羿を招き入れて簒奪した可能性もあるでしょう。
しかし、実権は后羿にあったかな?とも感じています。
后羿の方もそのうち、政治を顧みなくなり重臣であった寒浞に殺されてしまったようです。
ここにおいて、寒浞が執政のような感じで夏王朝のトップになったのでしょう。
その後、中康が無くなると子の帝相が後を継ぎますが、寒浞は帝相を殺してしまうだけではなく、帝相の子も全員殺害してしまいます。
ここにおいて夏王朝は1回滅びてしまったようです。
寒浞の王朝が40年ほど続いたとされていますが、全員殺害したと思った夏王の子が生きていました。
それが少康で、母親の実家に避難していました。成人した小康は寒浞を攻めて滅ぼしてしまい、結局、夏王朝は再興されたのが実際のところのようです。
しかし、この辺りの部分は史記には一切出てきませんし、伝説の話しでもあるので、史実かどうかは分かりません。
ただし、話的には面白いと思うので、キングダムの作者である原泰久先生に独自の解釈でキングダム外伝として描いてくれたらなと思います。
帝太康が国を失う。のに、夏王朝は続く辺りは、夏王朝の最大の謎だと思います。
尚、寒浞を主人公にした小説を宮城谷昌光さんが書かれています。沈黙の王という文春文庫から発売されている単行本で、「地中の火」というお話が寒浞を主人公にしたお話になっています。
寒浞が滅亡するところまで、リアリティに描かれている作品です。
夏の傑王が国を失う
その後の夏王朝を見ると九夷が来朝したとか、東海に釣りをして大魚を得たなどの話しもあります。
帝芒が大魚を得た話は、もしかして東海遠征の成功を裏付ける話かも知れませんが、何が言いたいのかはよく分かりません
釣りが好きな王様が大きな魚を釣ったという話ではないでしょう。何かの話しの裏返しなのかも知れません。
その後、帝傑の時代になるわけですが、この王様は暴君として有名です。
伝説では末喜という美女に溺れて、さらに酒池肉林の豪勢な生活を好み、諸侯を幽閉し民衆を弾圧したとされています。
しかし、それだけの王様ではなく、素手で猛獣を倒せるとか、頭の回転がいいなど、優れた面もあったようです。
まあ、能力がありすぎてしまい悪い方向の暴走した王様として描かれる事が多いです。
中国の歴史上でも殷の紂王と並び称されるほどの暴君です。
しかし、この暴政も長くは続かずに、天命を受けた殷の湯王や諸侯に攻められて敗北し夏王朝は滅亡した事になっています。
子孫が完全に耐えたわけではなく、殷の時代や周の時代では一諸侯として生き残っています。
傑王が本当に暴君だったのかは分かりません。伝説上の王様ですし、暴君を聖人君主が現れて倒すというのは、中国の歴史のパターンになっているからです。
「敗者に口なし」みたいな感じで、勝った方の王朝(殷王朝)によって、都合よく話を作られてしまう事も多いからです。
流石に、夏王朝が弱体している事に気が付き、殷は諸侯でありながら主君に謀反を起こして簒奪したでは、格好がつからないからなのでしょう。
太古の昔から、大義名分は大事だったようです。
ここにおいて、471年続いたとされている、史上初の世襲王朝である夏王朝は滅亡しました。
夏王朝の遺跡
夏王朝の遺跡に関してですが、二里頭遺跡が有力だとされています。
放射性炭素年代測定で調査したところ、二里頭遺跡は紀元前1800年から1500年ほどに該当するからです。
ただし、放射性炭素年代測定にはかなり誤差があると指摘する専門家がいます。
放射性炭素年代測定を信じるのであれば、紀元前1800年から1500年は夏王朝の時代になるので、首都もしくは、夏王朝の有力な都市だったのではないか?とも考えられています。
しかし、夏王朝の時代は文字もないため、二里頭遺跡が夏王朝の遺跡だと決まったわけでもありませんし、専門家によっては、夏王朝に対しての論争に終止符が打たれる日は来ないと断言している人もいます。
現在から4000年ほど前の事になるので、無理もないと言えるでしょう。
中国4000年の歴史といいますが、本当に初期の頃のお話だからです。
しかし、夏王朝に関しては、ロマンというか謎めいた魅力を感じるのは私だけではないはずです。