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官渡の戦いのあらすじ・開戦前の曹操と袁紹の戦略を解説!

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官渡の戦いは、三国志では袁紹と曹操が争った「天下分け目の戦い」とも呼ばれています。

官渡の戦いの前年は、袁紹が公孫瓚を易京の戦いで破り、滅ぼしています。

これにより北方の大半は、冀州を中心とした4州が袁紹の領土となり、中華で最大の勢力となっています。

それに対して、曹操は呂布を滅ぼし、袁術を劉備に命令して討たせるなど、勢力を広げていたわけです。

曹操は後漢の皇帝である献帝も抑えているわけですが、それでも袁紹の勢力には劣っていました。

北方を制圧した袁紹は南方の曹操をターゲットにする事は確実であり、ここにおいて官渡の戦いが勃発するわけです。

最終的には多くの人が知っているように、曹操が勝ちますが、ここでは官渡の戦いが始まる前の両軍の行方などを紹介します。

尚、袁紹が田豊や沮授の長期決戦を採用しなかったから、袁紹は敗退したという人は非常に多いです。

しかし、自分的には短期決戦でも勝機はあったように思っています。

その辺りも解説します。

 

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袁紹がチャンスを逃す

袁紹と曹操が官渡の戦いが行われる前に、劉備と曹操が戦った記録があります。

劉備が曹操から離反する

劉備は呂布に攻撃されて、曹操の元に逃げたわけです。

曹操は劉備を厚遇し、呂布を滅ぼしています。

曹操に厚遇され、献帝に働きかけて劉備は左将軍にもなっています。

しかし、董承が曹操暗殺計画を持ち出すと、劉備は呆気なく加担してしまうわけです。

ただし、劉備は曹操暗殺計画を行動に起こしていません。

その頃、袁紹の親戚である袁術の勢力がボロボロとなり、袁紹と合流する事にしました。

この時に、劉備が袁術の撃退を願い出たわけです。

劉備としてみれば、曹操の元を理由を付けて離れたかったのでしょう。

曹操はこれを許して、劉備、朱霊らに兵を預けて袁術に攻撃を仕掛けようとしました。

曹操の謀臣である郭嘉や程昱などは、劉備を危険視しており、曹操に反逆する事を危惧した話が残っています。

袁術はその後、病死してしまい袁紹と合流する事は出来ませんでした。

朱霊は都に帰ったわけですが、劉備は徐州刺史である車冑に攻撃をかけて討ち取り、徐州を乗っ取っています。

関羽に下邳を守備させて、自らは小沛にいました。

さらに、曹操と敵対する袁紹と劉備は同盟を結んでいます。

曹操は、劉備に激怒すると、劉岱と王忠に攻撃を命じますが、撃退されています。

劉岱を撃破した劉備は「劉岱が100人来ようが敵ではない。曹公(曹操)自らくれば話は別だがな」と豪語した話が残っています。

この時に、劉備は曹操が自ら来ないと思っていたようですが、曹操が本当に来てしまう事態に陥ってしまいましたw

 

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曹操が劉備討伐に出る

曹操が自ら劉備討伐に出る事にしたわけですが、この時に袁紹の動きを危惧しています。

しかし、袁紹は決断力がないから動かないと判断されて、曹操自ら劉備を攻撃したわけです。

劉備の方は、曹操は袁紹に備えているから、自分に攻撃はしてこないと考えていたらしく、まともに戦いの準備も出来ていませんでした。

劉備は曹操の用兵の巧さも分かっていますし、自らやってくる事を知ると驚いてしまうわけです。

この時に、劉備は少しは戦ったようですが、直ぐに諦めて妻子も捨てて、袁紹の所に逃げた話が残っています。

これにより関羽は下邳で孤立してしまい、結局は曹操に降伏しています。

関羽は置いてきぼりにされてしまったわけですが、劉備への忠誠心を忘れてはいなかったようです。

ただし、関羽が欲した人妻を曹操が奪った話もあるので、関羽の中では曹操は信用出来ない奴だった可能性もあります。

しかし、ここにおいて関羽は期間限定ではありますが、曹操の配下となりました。

尚、劉備が戦いに敗れても死なない理由は、個人的には諦めの速さと、逃げ足の早さだと思っていますw

 

関連記事:曹操は関羽が欲した人妻(杜氏)を奪い取った事がある。

 

袁紹が動かなかった理由

曹操が劉備を攻撃した時ですが、袁紹が隙を突いて曹操の本拠地である許に攻め込んでいたら、楽に勝てたのかも知れません。

実際に、袁紹配下の謀臣である田豊は、絶好のチャンスと見て曹操に攻撃を掛けるように袁紹に進言しています。

しかし、袁紹は「三男の袁尚が病気だから動きたくない」といい、何もしなかった話が残っています。

この信じられない様な理由により、袁紹は天下を失った可能性もあるでしょう。

尚、後に曹操が劉備を破り許に戻った話を聞くと、田豊は杖を地面に叩きつけた話が残っているので、よっぽど悔しかったのでしょう。

余談ではありますが、後に袁紹も「あの時に攻撃しておけばよかった!」と悔しがった話も残っています。

それでも、三男の袁尚はその後、病気が治癒したようなので、その点は良かったのかも知れません。

ただし、後に長男の袁譚と三男の袁尚が後継者争いをする事を考えれば、袁紹がこの時に出陣して、袁尚が死亡した方が、袁氏の為だった可能性もあるでしょう。

 

関連記事:【三国志最大勢力】名門袁氏の滅亡理由は分裂にあった!?

 

袁紹と曹操の直接対決となる

官渡の戦いは、袁紹と曹操の直接対決になったわけですが、なぜそうなったのか?を解説します。

劉表の動き

曹操が袁紹と戦うとなると、曹操の背後には荊州の劉表がいる事になります。

正史三国志には、袁紹が劉表に使者を送り、曹操の背後を衝くように依頼した話があります。

劉表は応諾したようですが、実際には兵士は動かさなかったようです。

劉表の配下に、劉先という人物がいて、曹操の優秀さを讃えて天子を擁している事から曹操に味方するように進言しています。

曹操が袁紹を滅ぼせば、次は荊州の劉表がターゲットにされる事を見越して、今のうちに曹操の配下になった方がいいと言ったわけです。

この意見に蒯越(かいえつ)や韓嵩なども賛成しますが、劉表は決断が出来ずに、韓嵩を都にやり情勢を探らせるに止まっています。

余談ではありますが、韓嵩は都で朝廷から零陵太守に任命されています。

さらに、劉表の前で朝廷と曹操を褒めた所、劉表の怒りを買い投獄されています。

後に、曹操が荊州を取った時に助け出されるわけですが、それまでの間は牢の中にいたようです。

これからも分かるように、劉表は官渡の戦いの時に、決断が出来ずに動かなかったとされています。

ここで劉表が天下を狙い袁紹と曹操が争って、疲弊した所を積極的に攻撃していたら、歴史は変わっていたのかも知れません。

漁夫の利を劉表は、得る事は出来ませんでした。

 

孫策の動き

孫策ですが、この時に20代半ばですし、気力も満ち溢れていたはずです。

さらに、袁術から兵を借り受けた時は、短期間で江東の大部分を平定してしまうなど、小覇王の異名を取っています。

本人も身体能力が高いですし、戦に関してはめっぽう強いわけです。

孫策は軍隊の指揮力で言えば、曹操よりも上だったのかな?と思う所もあります。

さらに、臣下にも周瑜、太史慈、張昭、張紘、周泰、呂蒙、黄蓋などの後の呉の重臣となる臣下が揃っていました。

もちろん、父親である孫堅時代からの部下もいます。

孫策は官渡の戦いの前年には、劉勲、黄祖などを破り莫大な戦果を挙げています。

その後、陳登には苦戦させられますが、孫策もチャンスがあれば天下を狙っている状態です。

この時に、袁紹が南下する情報が入ってきて、それを聞いた孫策は、曹操の都である許を攻めて、献帝を迎えようとしていた話もあります。

実際に孫策は、許を攻撃しようとしていたのではないかと思われます。

しかし、孫策は切れやすい性格であり、さらに無防備な人でもあったわけです。

自分の身体能力に自信があったのか、部下を付けずに単騎で行動したりもしていたとされています。

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曹操の配下の郭嘉は、孫策が無防備だと言う話を聞いて、暗殺される事を予言しています。

実際に、孫策はかつて自分が処刑した、許貢という人物の食客に暗殺されてしまったわけです。

孫策は26歳の若さで亡くなってしまいますが、孫権が後継者となります。

しかし、孫策の突然死で、江東の地は混乱したのか、北上する計画は頓挫しています。

尚、官渡の戦いで曹操が勝った最大の要因は、孫策の死にあったのかも知れません。

孫策が生きていたら、歴史はかなり変わっていた可能性があるでしょう。

余談ですが、袁紹と劉表は連絡を取った記録がありますが、袁紹と孫策は特に連絡を取った記録がありません。

そのため、曹操を攻めるにしても、袁紹と孫策は全くの別で、連動せずに孫策は攻め込むつもりだったと思われます。

 

張繍が曹操に降る

張繍は、曹操に味方しようか袁紹に味方しような悩んでいました。

過去に張繍は、配下の賈詡(かく)の計略により2度も曹操を破っているわけです。

さらに、その戦いで曹操の寵臣である典韋が亡くなったり、曹操の長男である曹昂、親戚の曹安民が死亡したりしています。

そのため、張繍自身は曹操に恨まれていると思い、袁紹に味方しようと考えていたとされています。

しかし、腹心である賈詡が袁紹の使者を追い返し、曹操に味方するよう仕向けています。

賈詡が曹操に味方した方がよい理由は、次の2点だとされています・

袁紹よりも曹操の方が優れた人物だから

袁紹は勢力が大きく味方しても重用されない、曹操は劣勢だから味方すれば重用される

張繍は、賈詡の進言を聞きいれて、曹操に味方する決断をします。

尚、張繍は207年に死亡しますが、賈詡はその後も魏に仕え続け、最終的には主君であった張繍よりも出世しています。

曹操も張繍よりも、賈詡が配下になった事を喜んでいた話もあります。

 

韓猛を曹仁が破る

官渡の戦い当時の勢力を見ると、曹操の北には最大のライバルの袁紹がいます。

東の徐州には劉備がいましたが、曹操が打ち破り劉備は逃亡しているわけです。

南には、劉表、孫策、張繍がいますが、孫策、劉表は動きませんでしたし、張繍は曹操の配下となっています。

そうなると、曹操の西の方はどうだったのか?と思うかも知れません。

正史三国志によれば、馬騰は韓遂などと争っていて、特に曹操にちょっかいを出した形跡はありませんでした。

袁紹が曹操の西方を遮断するために、韓猛を向かわせたとありますが、曹仁に撃退された記録があります。

これにより周辺勢力の介入は無くなり、曹操は後方を突かれる心配はなくなったわけです。

尚、袁紹の方も北方の烏桓族とは融和政策を取り安定させています。

これにより、邪魔が入る事は無くなり袁紹と曹操は正面対決に突入していく事になります。

 

 

袁紹軍と曹操軍の評定

官渡の戦いが起きる前に、袁紹陣営も短期決戦がいいのか?長期決戦がいいのかで揉めているわけです。

それに対して、曹操軍は袁紹軍をどのように評価するかで意見が分かれています。

曹操陣営

曹操陣営ですが、正史三国志の荀彧伝によれば、孔融の下記の言葉があります。

袁紹は広大な領土と強大な兵力を持っている。

さらに、臣下の田豊や許攸は智謀の士であり、審配と逢紀は忠臣である

顔良文醜は猛将であり勝つのは非常に難しい

この様に孔融は袁紹軍を高く評価しているわけです。

正史三国志の武帝紀を読んでみても、孔融の様な考え方をする諸将は多かった事が分かります。

それに対して、荀彧は下記の様に語っています。

袁紹の兵士は数は多いが、軍法が行き届いていない

田豊は強情な性格をしている、許攸は貪欲である。審配は計画性がなく、逢紀は向こう見ずな性格である。

顔良、文醜は個人の武勇に優れているだけだから、一戦で討ち取れる。

この様に荀彧は、袁紹軍をこき下ろしているわけです。

孔融は相手の優れた部分を見て強大だと言い、荀彧は相手の弱点を見て勝てると判断したのでしょう。

実際に、官渡の戦いの前に、白馬・延津の戦いが行われていますが、荀攸の策もあり一戦で顔良と文醜は討ち取られているわけです。

これを考えると、荀彧の洞察力はすさまじいと言えるでしょう。

尚、曹操も袁紹に対しては評価が低かったのか、志は大きいが知恵が欠ける、威厳が無い、肝が小さい、機を見るのが敏でないなど酷評しているわけです。

余談ではありますが、曹操は呂布や周りの群雄と戦って苦戦している時に、袁紹から礼に欠ける手紙を貰い激怒した過去があります。

そのため、袁紹の事を酷評した可能性もあるでしょう。

 

袁紹陣営

袁紹陣営は、長期戦か短期決戦かで揉めているわけです。

袁紹における張良や陳平(共に漢の高祖劉邦の軍師)である、田豊や沮授は長期決戦を主張しています。

袁紹は前年に北方の公孫瓚を倒したばかりであり、兵を休めたり軍船を作ったり、武器を充実させる事が大事だと言います。

そして、曹操に対しては、曹操が西を攻めれば、東を討ち、東を攻めれば西を討つなど、じわりじわりと消耗させていけば良いと考えたようです。

持久戦になれば、曹操に勝てると袁紹に主張しています。

それに対して、郭図や審配などは反対しています。

今の状態であれば戦力で袁紹が勝っているのだから、わざわざ持久戦に持ち込む必要はなく、短期決戦で勝負を着ければいいと主張したわけです。

曹操はやり手なのだから、3年後もこちらが優勢とは限らないから、こちらが優勢のうちに片づけた方が良いと意見しています。

結局、袁紹は短期決戦を選択する事にしました。

しかし、田豊は長期戦が最善だと諌止しています。

田豊は、公孫瓚討伐では策が的中して袁紹を勝利に導いています。

知略で言えば、沮授とならぶ袁紹軍の双璧だと言えるでしょう。

戦場での臨機応変の術も心がけている人物とも言えます。

しかし、先に劉備と曹操が戦った時に、田豊は杖を地面に投げつけて悔しがった話を袁紹が聞いていて、よく思われてはいなかったようです。

さらに、荀彧がいう田豊の強情な性格が出てしまい、長期戦で行くべきだと強硬に諌止してしまったのでしょう。

相手に応じて、変化する進言を行えないのが、田豊の弱点なのかも知れません。

袁紹は士気を下げる行為だと言い、田豊を獄に繋いでしまいました。

田豊が出陣しない事を聞いた曹操は喜び「我が軍の勝ちに間違いはない」と言ったとされています。

ここにおいて、曹操と袁紹は直接対決をする事になったわけです。

世にいう官渡の戦いが開戦となります。

袁紹は南下を始め、曹操は迎え討つ事になります。

 

長期対決であれば袁紹は勝てたのか?

よく歴史の本などを見ると、袁紹が曹操に官渡の戦いで負けた原因が、袁紹が長期戦を選択しなかったからだとされています。

多くの本が、袁紹が優秀な参謀である田豊や沮授の意見を聞かずに、郭図の様な者の意見を聞いた事で破れたと解説されている事が多いです。

曹操自身も短期決戦を望んでいたようですが、長期戦であれば袁紹が勝ったと言うのは、結果論にも感じました。

実際に、官渡の戦いが始まると、白馬・延津の戦いでは確かに袁紹軍は破れています。

しかし、官渡の戦いで膠着状態となると、曹操はかなり苦しんでいます。

曹操は許昌にいる荀彧に「兵糧が少なくなったから、許で迎え撃つ事にしたい」と撤退を示唆し弱音を吐いているわけです。

それを荀彧が曹操を励ます手紙を送っていて、曹操もかなり袁紹に苦戦していた事が分かります。

袁紹が短期決戦を選んで、いとも簡単に呆気なく敗れたのであれば、長期戦が正解だとも言えますが、曹操軍もかなり苦戦を強いられているわけです。

さらに、官渡の戦いで勝った曹操の方も袁紹が生きているうちは、冀州に攻め込み打ち破る事が出来ませんでした。

曹操も勝ったと言えども、被害も大きかったのでしょう。

他にも、官渡の戦いの内容を見てみると、袁紹軍にも十分に勝機があったように思うわけです。

後半は、袁紹軍が敗れた理由などを中心に書きたいと思います。

文字数が多くなってしまったので、続きは後半に回したいと考えております。

尚、後半は下記になっております。

 

官渡の戦い後半:官渡の戦いを徹底検証!袁紹の敗因と曹操の勝因

 

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