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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

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春申君は、賢臣から老害になった楚の宰相!?最後は悲惨・・。

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春申君を紹介します。

春申君は、楚の孝烈王の時代に宰相として20年以上も君臨した人物です。

食客を多く抱えた事でも有名な人物で、孟嘗君、平原君、信陵君らと共に戦国四君に数えられています。

一般的には、戦国四君の中では、孟嘗君や信陵君に次ぎ3番目に評価される事が多いと言えます。

しかし、宰相をやっていた年月で考えれば、一番長いと言えるでしょう。

原泰久先生が描くキングダムでは、「中華の文官・武官の中で頂点に立つ御仁」とも言われていますが、実際には中華で一番の権勢を持っていた臣下は、秦の呂不韋だったはずです。

そもそも秦と楚では、国力で言えば秦の方が遥かに上です。

呂不韋も食客は、3000人集めましたが、質にもかなり拘ったようですし、呂氏春秋を完成させるなどの偉業も成し遂げています。

春申君を見ていると、初期の頃は智勇兼備の賢臣に見えますが、楚の宰相となった後半を見ると老害になっていたようにも思えるわけです。

ビジネスではピーターの法則と言う、出世するほど無能になるという法則があるのですが、それが当てはまるような気がするの春申君です。

春申君とピーターの法則についても解説します。

春申君は、合従軍(楚・趙・韓・魏・燕)を率いて秦の函谷関を攻めて失敗した辺りから、凋落が見えているような気がしてなりません。

今回は、史実の春申君を中心に紹介します。

尚、戦国四君の孟嘗君、平原君、信陵君は王族ですが、春申君は名前が黄歇となっていて公子ではないともされています。

ただし、黄歇は黄(地名)に封じられた楚の公子という説もあります。

 

 

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一通の書簡で秦の攻撃を中止させる

秦の昭王は、白起を出陣させて華陽において、魏と韓の軍を大破したわけです。

魏の将軍である芒卯(ぼうぼう)を捕虜にする事を成功しています。

これにより魏と韓は、秦に服従する事になります。

秦は、次のターゲットを楚に定めて、白起に出陣命令を発し、魏と韓にも出陣命令を出したわけです。

しかし、まだ出陣してはいない段階で、楚からの使者として黄歇(春申君)は、偶然にも秦に着く事になります。

秦が楚を攻める情報をキャッチした春申君は、秦の昭王に書簡を出します。

春申君としては、秦・魏・韓の三国に攻められてしまっては、楚は滅亡してしまうかも知れないと考えたようです。

春申君は、書簡の中で呉王夫差は、斉を破ったが属国のはずの越に裏切られて滅亡した事を持ち出してきます。

さらに、戦国時代の初期に智伯は、韓、魏を率いて趙を攻めたが、韓・魏に裏切られてしまい智伯は命を落とし滅亡した事例を挙げました。

楚と秦よりも強い国は天下にはなく、二虎(秦と楚)が争って傷を負えば、駄犬(魏と韓)でも倒す事が出来ると諭したわけです。

春申君は、秦は楚に侵攻するよりも、楚とは同盟を結ぶべきだと昭王に進言します。

春申君の書簡を見た、秦の昭王は「もっともだ!」と思い、白起に楚の攻撃命令を中止させる事にしました。

そして、秦の昭王は楚と同盟を結ぶ決断をします。

春申君が機転を利かせて、書簡を出した事で楚は秦に攻められなくて済んだわけです。

これが春申君の史実に登場した最初の記述なのですが、これを見ると頭も切れるし機転が利く人物である事が分かります。

 

 

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孝烈王を命を懸けて即位させる

秦と楚は同盟を結ぶ事になったのですが、同盟を結ぶ条件として秦は楚に太子を人質に寄こす事を条件とします。

楚は了承し、楚の太子である完を秦に送り出します。

太子完の付き人になり、秦に同行したのが春申君です。

ここで、春申君と秦の宰相である范雎は親交を結んだともされています。

後に楚の頃襄王が、病に倒れたわけです。

頃襄王が帰って即位する為には、楚に戻らなければなりません。

そこで、春申君は范雎に帰国を願い出ます。

范雎は、秦の昭王に事情を話すと、太子は帰らせずに春申君が、楚に帰国して様子を見てくる事になりました。

しかし、春申君は太子完を、秦は帰国させないのではないか?と疑ったわけです。

さらに、帰国する条件として、楚の土地の割譲を秦に約束させられる可能性も考えられます。

秦の昭王は過去に、楚の懐王を会見すると偽り、武関で捕らえて幽閉させているため、どうなるかは分からなかったはずです。

さらに、頃襄王が死亡する時に、楚の太子完がいなければ、楚の国許にいる他の公子が即位する可能性もありました。

そこで春申君は太子完の髭を剃り庶民の格好をさせて、間道から楚に帰す事にしたわけです。

バレないように春申君は、病気といい楚に出発もせずに人に合わないようにしました。

楚の太子を勝手に帰してしまったら、春申君は秦の昭王を欺いた事になり処刑させる可能性も高かったわけです。

そして、楚の太子が秦の追手に捕まらない位に、遠くに行ったのを見計らい出頭しました。

もちろん、秦の昭王は激怒して春申君を殺そうとしますが、秦の宰相である范雎が次のように昭王に進言しました。

范雎「春申君は一命を投げ捨てて、太子に仕えています。春申君を楚に帰せば太子完はきっと重く用いるでしょう。そうなれば秦と楚の関係は強固になります。ここで、春申君を殺してしまえば太子完は、秦に対して深い恨みを抱く事になるでしょう。春申君は帰国させるのが秦には得策です」

范雎の意見により、春申君は無事に楚に帰れる事になりました。

これを見ると春申君は、忠臣であり勇気もある人物だと言う事が分かります。

老齢になった頃の春申君では、考えられないような姿でもあります。

尚、秦の昭王に趙の藺相如和氏の璧を持って来た事がありました。

その時に、藺相如は和氏の璧を従者に趙に持ち帰らせてしまい、自分は出頭しています。

この時も、秦の昭王は藺相如を殺さずに、持て成して趙に帰しています。

秦の昭王は、他人を欺いたり馬鹿にして見たりする態度を取る事も多いのですが、命を懸けて忠誠を尽くすような人物に関しては、寛容にも見えます。

秦の昭王自体が、藺相如や春申君のような忠臣が欲しかったのかも知れません。

尚、春申君も藺相如の一件があった事から、自分が死なない可能性もあると考えたはずです。

それか、秦の宰相である范雎に事情を説明して、フォローをするように頼んだ可能性もあるでしょう。

 

関連記事:秦の昭王を【戦神】と呼ぶには無理があると思った話【キングダム】

 

 

 

楚の宰相となる

春申君の帰国を太子完は喜び、自分が即位して孝烈王となると、春申君を宰相に任じています。

ここにおいて、春申君は楚の臣下で最高の権力者になったわけです。

最初に春申君は、淮北の12県を領地としてもらったわけですが、淮北は斉と国境を接する重要地点だった為に、返上して楚の郡にするように願い出ています。

そして、自分は江東にある元の呉の地を領土にしてもらっています。

史記を書いた司馬遷が、呉に行き春申君の宮殿の跡地を見たら「盛んなものであった」と記録が残っています。

これを考えれば、春申君は孝烈王の信任を得てかなりの権勢を手に入れたのでしょう。

ちなみに、春申君は楚の孝烈王の時代に、初年から末年まで全て宰相でした。

この権勢を武器に食客も3000人集めたはずです。

尚、春申君が宰相となって4年目に長平の戦いがあり、敗れた趙は都である邯鄲を秦の王齕らに囲まれています。

この時に、孝烈王が平原君と毛遂に説得されて、趙に援軍を送っています。

援軍の総大将になったのが春申君です。

春申君は、魏の信陵君と共に趙を救っています。

宰相としての、最初の難題が趙を救う事だったようですが、見事にこなしたわけです。

 

魯を滅ぼす

春申君の功績として、魯を滅ぼした事が挙げられます。

魯は春秋時代は、中くらいの国力を持った国でした。

しかし、戦国時代に向かっていき、諸侯が淘汰されていくと、魯は弱小国となり戦国時代末期は、細々と命脈を保っていました。

魯は、周の文王の子であり武王の弟である周公旦を祖とします。

こういう影響もあってから、軍事は苦手ですが、文化や学問などは中華でもトップクラスだったわけです。

その魯を楚の春申君が、宰相をやっていた時代に滅ぼしました。

これにより楚の領土を広げる事に成功しています。

尚、史記の春申君列伝では、この頃になると楚の勢いはまた強くなったと記載があります。

ただし、楚世家だと、この頃の楚は弱体化していたような事も書かれていて、話の整合性が取れていないようにも感じます。

実際は、魯を滅ぼしたわけですから、少しは勢いが出て来たという所なのでしょう。

 

荀子を蘭陵の県令とする

春申君の実績として、荀子を蘭陵の県令にしたと言うのがあります。

荀子は性悪説を説いた事でも有名な思想家です。

元は、趙の出身だったわけですが、斉で学問をするようになったとされています。

斉はこの時代は、学問でいえば盛んな地域だった事もあり、趙から斉に移った可能性も十分にあります。

斉の襄王の頃には、学者の中でもトップの位置にいたようですが、讒言されてしまい楚に移った記録があります。

その荀子を蘭陵の県令として任命したのが春申君です。

余談ですが、春申君が李園に暗殺されると、荀子も蘭陵の県令をクビになりますが、そのまま楚で暮らしたようです。

尚、荀子の弟子として秦の宰相になった李斯や、韓の公子である韓非子などがいます。

ちなみに、荀子は李斯が宰相になった事を聞くと「世も末だ」と発言し、自殺してしまった逸話がありますが、本当かどうかわは分かりません。

荀子であれば、楚の公子も勉強させるとか、楚の孝烈王の教育係にするなども考えればいいのでは?と思った事があります。

春申君は、食客も3000人集めた事も事実ですが、名前が出てくるのは朱英くらいしかいません。

さらに、晩年は権力欲が凄まじくなっている事が分かっているので、自分の存在を脅かすような人は楚王に推挙しなかった可能性もあります。

秦の魏冄(ぎぜん)は、外国からの遊説家を嫌った話がありますが、同じように春申君も嫌ったのかも知れません。

ただし、春申君は自分の為に献策をしてくれる、食客であれば大歓迎という人物にも見受けられます。

あくまで想像ですが・・・。

 

合従軍を率いた函谷関の戦いで破れる

楚王が合従軍の盟主となり、秦の函谷関を攻めた事がありました。

この頃になると、秦王は政(後の始皇帝)となり呂不韋が宰相をやっていた時代です。

この合従軍に関しては、春申君が全てを指図したという記録もあります。

原泰久先生が描く漫画キングダムでは、李牧も関わっている事になっていますが、これは史実ではありません。

さらに、汗明が楚軍を指揮する総大将となっていますが、汗明は戦場に出た記録がありませんし、春申君に自分を官位に付けるように売り込んだ記録はありますが、春申君が許したかは定かではありません。

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臨武君の記録としては、楚の将軍にしようと春申君は思っていたようですが、趙の魏加が臨武君では、秦を防ぐ将軍にはならないと言った話があります。

これらを考えれば、汗明も臨武君も函谷関の戦いで戦場にいたのかも、疑問に思う程です。

話を戻しますが、春申君が率いた合従軍は、史記には「諸侯の軍は、ことごとく敗れた」とあるので、大敗だったのでしょう。

春申君が函谷関を攻めて抜く事が出来たり、秦に土地の割譲が出来ればよかったのですが、戦いに敗れてしまい失敗したと言う事です。

この敗戦により、春申君は楚の孝烈王からの信任は薄らいだとあります。

函谷関の戦いで破れた事で、春申君はどんどん悪い方向に行ってしまうような気がしてなりません。

尚、春申君が函谷関を攻めた時に、趙の龐煖が趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて(さい)を攻めたという記録があります。

龐煖を抜けずに撤退したわけですが、春申君が函谷関を攻めたのに連動していたのでしょう。

因みに、龐煖は、は抜けませんでしたが、斉の饒安を取った記録があります。

 

関連記事:函谷関の戦いの史実【最後の合従軍】

関連記事:蕞(さい)の戦いの史実【秦の統一を決定付けた!】

 

合従軍の終りと秦の統一

春申君の合従軍は、最後の合従軍となっています。

これ以降で諸侯が同盟を結び秦を攻めた記録がありません。

秦は、この頃になると次々に他国の領地を奪い国土を広げている状態です。

これに対し、楚の春申君は諸侯にとって最後の希望だったのかも知れません。

史記の春申君列伝には、「楚は勢いを取り戻した」とする記録もあり、諸侯は「春申君が合従軍の総帥になれば秦を倒せるのでは?」と考えて、期待も大きかったはずです。

この数年前に、魏の信陵君が魏・趙・韓・楚・燕の5カ国連合軍を率いて、秦の蒙驁(もうごう)を黄河の外で撃破しています。

同じような流れで、春申君が合従軍の総帥となり、秦を破る事が多いに期待されていました。

しかし、ここで春申君は大敗してしまいます。

春申君の敗退が、秦の統一を決定的にしたように感じています。

これ以降は、合従軍が結成される事もありませんでしたし、秦から領土を奪おうとする諸侯はいないように思うからです。

各国は防衛戦争だけを行い、秦の領土を奪う事が出来ていません。

もちろん、趙の李牧が桓騎を破るなどの活躍も見せていますが、これは領土を奪ったわけではなく、防衛戦争としての意味合いが強いでしょう。

それを考えると、函谷関の戦いは、秦の統一を決定づけたはずです。

春申君の敗北が、戦国時代の終りと告げたとも言えるでしょう。

 

首都を寿春に移す

函谷関の戦いで破れてしまった後に、楚は都を陳から寿春に移しています。

楚は、懐王の時代は、(えい)が首都でした。

しかし、懐王の子である頃襄王の時代に秦の白起に攻められてしまい、は陥落し都を陳に遷都したわけです。

白起に奪われて以来、楚は旧都であるを奪還出来ていません。

陳を首都にした楚ですが、春申君の食客である朱英が春申君に意見します。

朱英によれば、現在の首都である陳は、秦の国境に近く危険なため、首都を移した方がいいと進言したわけです。

春申君が総大将となり函谷関を攻めた前年に、魏で信陵君が亡くなり、攻撃の好機とみた秦は蒙驁に命令して、魏の東部を攻略しています。

これにより魏は、決定的に力を失ってしまいましたし、秦の領地は東の斉にまで及んだと記述もあります。

秦が魏の領地を大きく奪った事で、秦の攻撃範囲に楚の都である陳も入ってしまったのでしょう。

函谷関の戦いで、春申君が勝利して土地を割譲させたり、奪還出来ればよかったのですが、失敗に終わった事で楚も遷都しなければならない事態になったはずです。

これにより楚は、首都を陳から寿春に移しています。

尚、首都を移した後の春申君は、呉に移り宰相の政務を執り行ったという記述があります。

函谷関の戦いで破れた事で、楚の都に居にくい雰囲気が出たのかも知れません。

ただし、宰相を辞めた形跡もないので、左遷などではなさそうです。

余談ではありますが、廉頗はこの当時、楚に移ってきています。

将軍として功は立てませんでしたが、史記によると廉頗の最後は、楚の寿春で亡くなったと記録があります。

首都である寿春で亡くなるのであれば、廉頗の死亡した時期は、紀元前241年以降という事になります。

尚、寿春は三国志の時代では、袁術が皇帝を名乗り首都にした場所でもあります。

ただし、袁術は長続きせずに、すぐに滅亡しましたが・・・。

 

 

楚の幽王は、春申君の子だったのか?

春申君の食客に李園という人物がいました。

李園の妹は美人だった為に、春申君に見せると大いに気に入り側室とします。

李園の妹は、春申君の子を懐妊するわけですが、この時に李園が妹を皇后にするように画策します。

史記によると、孝烈王は子供が出来ないのが悩みで、春申君も子供を産みそうな女性を何人も紹介したそうですが、一向に子が産まれませんでした。

そこで、李園の妹は春申君に「自分を孝烈王に嫁がせれば、お腹の中の子が楚王になるから春申君の立場も安泰」と言います。

春申君も「自分の子が王位に就くのも悪くない」と思ったのか、李園の妹の提案に従います。

歴史を見ると、王様が変わった事で、粛清されたりする例は、枚挙に暇がありません

楚では、悼王が亡くなると宰相である呉起は貴族に殺されていますし、秦でも孝公が亡くなると恵文王により商鞅も処刑されています。

秦でも、始皇帝が亡くなり胡亥が即位すると、蒙恬、李斯、蒙毅なども趙高により誅殺されているわけです。

これらを考えると、孝烈王が亡くなった後に、春申君も権力者でいられなくなる可能性は十分にありました。

さらに、20年以上も宰相をやったわけですから、政敵などもいた事でしょう。

春申君は、李園の妹の案に乗り、李園の妹を楚の孝烈王に紹介したわけです。

孝烈王は、李園の妹を気にいり、李園はそれにより、楚の大臣となります。

李園の妹は無事に子を出産し、これが後の楚の幽王です。

これを考えると、楚の幽王は、春申君の子と言う事になりますが、実際はどうなのかはもちろん分かりません。

秦でも、嬴政(始皇帝)と趙姫と呂不韋で似たような話があるからです。

 

関連記事:呂不韋の子が秦王政(始皇帝)だった?【史記にも記載アリ】

関連記事:嫪毐(ろうあい)の乱と呂不韋の失脚・趙姫の最後を解説!

 

孝烈王の子の話で不思議な部分

史記の春申君列伝では、孝烈王には子が出来ない事が悩みだったとあります。

楚は孝烈王が亡くなると、幽王が即位しますが、即位して10年後くらいに亡くなってしまいます。

幽王が亡くなると、幽王の同母の弟である哀王が即位しますが、庶兄の負芻(ふすう)に襲撃されて殺された事になっています。

これを見ると、孝烈王には幽王が誕生する前に、負芻が生まれていた事が分かるはずです。

孝烈王が全く後継者がいなくて困るほどではない事になります。

さらに、幽王が生まれると哀王も生まれています。

幽王は、史記の言う様に春申君の子ではない可能性もありますが、楚の哀王は孝烈王の子でしょう。

これらの事を考えると、孝烈王には負芻がいるわけで、後継者に困るのは、話の整合性が取れていないような気がします。

孝烈王が、子供は一人では心配だと考えていたのであれば、話の整合性が取れる気もしますが・・・。

もしかしてですが、負芻は孝烈王の弟だった可能性もあるのかな?と思った事もありますが、史記の記述に間違いがないとすれば、幽王の兄が負芻だと言う事になります。

尚、幽王の時代の楚は李園が実権を握っていたと思われます。

李園は、哀王が即位して、負芻に襲撃された時に、亡くなるのが妥当かなと感じました。

李園や妹の最後も史記や戦国策、諸子百家の書に記載がなく不明な部分が多いです。

 

朱英の忠告を無視

春申君は、自分の息子が王位に立つと思って安泰と考えていたようです。

しかし、食客の朱英が春申君に進言します。

李園は、春申君がいなければ実権を握る事が出来るから、危険人物だと忠告しました。

実際に、李園の妹は后になっているわけですから、宰相の春申君がいなければ、外戚として権力を握れる事になります。

さらに、朱英は李園が命知らずに輩を集めている情報をキャッチしていたようです。

これも春申君に告げていて、自分を宮中警護の役職に任命してくれれば、李園が乗り込んで来たら斬ると進言します。

しかし、春申君は「自分は李園とも上手くやっているし、心配はいらない。李園は小心者で、大それた事が出来る人物ではない」と言い取り合いませんでした。

朱英は、話しを聞かない春申君を見て、自分にも危害が及ぶと考えて春申君の元を去っています。

尚、朱英の忠告を聞かなかった為に、春申君は命を落とす事になります。

 

春申君の最後

その後、孝烈王が亡くなります。

春申君は無防備な状態で、王宮に入って行こうとしました。

すると、李園が雇った刺客が春申君に襲い掛かります。

これにより春申君は、刺殺されてしまい首を斬られてしまいます。

さらに、史記によれば春申君の首は城門の外に投げ捨てられたとありますから、かなり無残な最期だった事でしょう。

20年以上も宰相をやってきた男にしては、呆気ない終わり方だったようです。

さらに、李園は役人を使い春申君の一族皆殺しにしたとあります。

これにより、春申君の子孫もいなくなってしまったはずです。

尚、史記の司馬遷は春申君を評して、若い頃は知勇兼備の士だったのに、年を取った時には老いぼれていたと記録しています。

下手に王位に色気を見せてしまった為に、身を滅ぼした例になるのでしょう。

春申君の末期は、楚の宰相ではありましたが老害になっていた可能性も十分にあります。

 

春申君とピーターの法則

世の中には、「ピーターの法則」という物があります。

ピーターの法則は、「人間は出世するほど無能になる」という法則です。

これが春申君にも当てはまるのかな?とも感じました。

春申君は、宰相になる前は、秦の昭王を相手に引けを取らなかったり、自分を犠牲にして楚の孝烈王を守るなど知勇兼備の人だったはずです。

しかし、長い年月を宰相として過ごす事で、段々と無能になって来たようにも思えるからです。

宰相になった最初の頃は、慣れていなかったり、頃襄王時代の大臣に気を使ったりもあった事でしょう。

目の上のコブのような人たちが段々と引退したり死亡したりしてきて、自分に権力が集中しだした頃になると無能になって来たのかな?とも思えたりするわけです。

この辺りが、出世すると無能になるという、ピーターの法則に当てはまるのかな?と感じました。

ピーターの法則ですが、詳しく知りたい方は書籍が出ているので、楽天やアマゾンで買えばいいかと思います。

しかし、自分も読みましたが「わざわざ買って読むほどの本でもないかな」と思いましたw

だったら紹介するなって感じですよね汗

あと、自分は春申君みたいな最後にならない様にしたいとは思います。

ちなみに、私の場合は出世もしていないのに、既に無能で老害の可能性も十分にありますがw

 

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