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曹彰は烏桓征伐で絶大な功績がある!魏の後継者になる可能性は?

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曹彰を紹介します。

曹彰は、曹操の息子ですが、曹丕や曹植に比べると知名度が低いように思います。

曹操の長男である曹昂は、張繍に奇襲を掛けられた時に、典韋や曹安民らと共に亡くなっています。

その後、曹操の後継者候補として名が挙がるのが、曹丕と曹植だからです。

しかし、二人の間には、曹彰がいて武勇で言えば、曹操の息子たちの中でも、圧倒的な存在感があります。

三国志演技では、曹丕の冷酷さや劉封の心の狭さを表すために、使われているようでもあり、目立たない所もあります。

それでも、実際の曹彰の武勇は素晴らしい物がありますし、もっと戦場に多く出ていたら曹操の後継者候補になってもおかしくないのでは?と思ったほどです。

今回は、史実の曹彰を中心としたお話です。

尚、曹彰は顎の髭が黄色かったという話があり、曹操は黄鬚(こうしゅ)とも呼んでいたようです。

 

 

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三国志演義の曹彰

羅貫中が書いた物語の三国志演義にも、先に述べたように曹彰は登場します。

しかし、史実には無く三国志演義だけにあるシーンもあります。

ただし、曹丕や劉封の性格的な欠点を浮きだたせる為の役割となっていて、変な意味での引き立て役になっているのが特徴です。

史実には無く、三国志演義にはある曹彰のエピソードを紹介します。

尚、三国志演義でも曹彰は、武勇に優れた猛将として描かれています。

 

曹彰と劉封の一騎打ち

劉封は、劉備の養子となった人物で、正史三国志では阿斗(劉禅)が生まれる前は、跡取りとも考えられていました。

しかし、劉備に劉禅が生まれた事で、立場が微妙になっていきます。

三国志演義では、順序が逆で劉禅が生まれてから、劉封が養子になっています。

ただし、関羽などは阿斗がいるのに、養子に加えるのはおかしいと反論した記録が残っています。

三国志演義では、劉封は軍師である龐統の命令をよくこなし、高沛の楊懐を斬るなど大いに活躍しています。

その後、龐統は落鳳坡で戦死してしまうのですが、黄忠、張飛、厳顔、諸葛亮らと共に劉備の入蜀において大活躍した武将です。

後に、曹操と戦うわけですが、この時に曹彰と劉封は一騎打ちをしています。

養子とはいえ劉備の息子である劉封と、曹操の息子である曹彰なので、親の威信にかけた一騎打ちだったわけです。

しかし、一騎打ちが始まると劉邦は曹彰の武力の前に圧倒されてしまいます。

曹彰の武芸の前に、劉封が叶わないと判断した蜀の孟達が劉封を助けて一騎打ちを終了させたわけです。

曹彰は見事に勝ち、父親である曹操も大喜びでした。

しかし、劉封は孟達が余計な手助けをしたから、自分が余計に惨めになってしまったと考える様になります。

三国志演義では、曹彰と劉封の一騎打ちは、劉封が将の上に立てるような人物ではない事を表すための逸話となっています。

これが伏線となり、劉封は後に、関羽に援軍を送らなかった事や、孟達が魏に寝返った事などもあり、劉備に処刑されています。

これを考えると、劉封もかなり気の毒な人でもあります・・・。

しかし、三国志演義の曹彰は、劉封に一騎打ちで勝った事は間違いないです。

史実には無い、架空の一騎打ちですけどね・・・。

 

 

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曹丕に毒殺される

三国志演義のもう一つの史実には無いエピソードですが、曹丕に毒殺された事です。

曹操が亡くなると曹丕が後継者となり、さらに後漢の皇帝である献帝に強制的に禅譲させる事に成功します。

これにより曹丕は、魏の皇帝となりますが、自分の弟たちを憎み殺害を試みます。

弟の曹植は、詩を作れと突発的に言われて出来なければ、死刑にすると曹丕に言われますが、見事に詩を作り命拾いをしています。

それに対して、曹彰は曹丕から武勇を妬まれていました。

曹丕は曹彰を呼び出して、碁を打ち談笑していたわけです。

その時に、「おつまみ」があったわけですが、一部には曹丕は毒を入れていました。

曹丕は、毒入りのおつまみを避けて食べますが、曹彰は毒が入っているとも思わずに、毒入りのおつまみを食べてしまうわけです。

これにより、曹彰は死亡してしまいます。

史実では、曹彰の死は毒殺説もありますが、曹丕が毒殺したなどの記述はありません。

そのため、三国志演義の著者である羅貫中が毒殺説のエピソードを採用したのでしょう。

このように、三国志演義の曹彰は、曹丕の冷酷な性格を表すエピソードとして使われています。

何となく誰かの性格を悪くアピールするために、使われているのが曹彰なのでしょう。

一騎打ちで勝っても、殺害されても、どこかスポットライトが当たっていないのが三国志演義の曹彰だと言う事です。

 

 

正史三国志の曹彰は剛勇の武将

正史三国志の曹彰ですが、非常に武芸の優れた人物だったようです。

曹彰がどれ位強かったのか?と言えば「猛獣と格闘が出来た」ともされています。

さらに、武器を使わずに格闘が出来たとも記録があり、恐ろしい程に身体能力の高さを表す記述があります。

現代のプロの格闘家であっても、武器も使わずに猛獣と戦う事が出来るのか?と言われれば、多くの場合で戦う事が出来ないと思われます。

それにも関わらず、曹彰は猛獣と戦う事が出来るというのは、常識を超えた勇将だったとも考えられるわけです。

魏で力自慢と言えば、典韋や許著を思い浮かべますが、同等のパワーが曹彰にもあったのかも知れません。

この曹彰の武芸に秀でている所を見ると、曹操も次世代の魏にとって必要不可欠な人材になると考えたのではないかと思われます。

 

曹彰と項羽は似ている?

曹操は、曹彰に対して学問を習わせたかったようです。

曹彰に対して、詩と尚書を覚える様に勧めたという話が残っています。

しかし、曹彰は学問に対して、全く関心を示さなかったようです。

さらに、自分の側近には「男たるものは、衛青や霍去病のように10万の大軍を率いて、戎狄を倒し武功を挙げるべきである。博士などなれようか。」と言ったとされています。

曹操は、親心で言ったのかも知れませんが、曹彰は聞く耳を全く持ちませんでした。

中国史上最強の猛将と言えば、項羽の名が挙がる場合もあります。

項羽は、秦末期や楚漢戦争で、秦を滅亡に追い込み劉邦と争った人物です。

項羽も小さい頃に学問を勧められましたが、「学問は自分の名前が書ければ十分」といい受け付けなかった話があります。

さらに、武芸をやらせたが直ぐに飽きてしまったとか、兵法を覚えて興味は示したが、長続きはしなかった話もあります。

項羽に似たような考え方を持っていたのが、曹彰だったのかも知れません。

ただし、項羽と曹彰の共通点ですが、二人とも長続きはしなくても、驚異的な強さを誇ったと言う事です。

これを考えれば、曹彰は天性の才能を持った人物と言えるでしょう。

尚、三国志で孫権は、武芸一辺倒の呂蒙や蒋欽に対して、学問を勧めていますが、二人とも勤勉に勉強した話があります。

それを考えると、曹操は曹彰に対して、巧みに学問を勧める事が出来なかったのかも知れません。

それか、呂蒙や蒋欽は主君に言われたので聞いたが、曹彰は自分の親である曹操に言われたから、聞く耳を持たなかった可能性もあります。

人間と言うのは、不思議なもので、子のためを思って親身にアドバイスをくれる親の言う事を、聞けないことも少なくないからです。

もちろん、私も含めてですがw

尚、曹彰の口から出た「衛青や霍去病」は、前漢の武帝の頃に匈奴征伐で活躍した武将です。

劉邦の頃は、匈奴の王である冒頓単于に敗れた事もあり、匈奴の方が優勢でした。

しかし、武帝の時代は、衛青や霍去病の活躍もあり匈奴と漢の立場を逆転させています。

衛青も霍去病も用兵の天才でもあり、名将と言えます。

衛青や霍去病に曹彰は憧れたのでしょう。

 

関連記事:冒頓単于の史実【匈奴の全盛期を築いた男】劉邦軍32万も破る!

関連記事:【呉下の阿蒙に非ず】呂蒙が武将から知将に覚醒する

 

 

 

曹彰は名将としても素質がある

曹彰は名将としての、素質がある人物だと考えられます。

曹操は、自分の息子たちについて目標を聞いた事があります。

曹彰の番になると、「将軍となりたい」と言います。

さらに、次のように言ったとされています

曹彰「将軍となって鎧を着て、鋭利な武器を手に取り、難を顧みずに戦に挑みたい。士卒(兵士)の為に率先し、功績を挙げた者には必ず褒賞を与え、罰は信義に基づいて行いたい」

つまり、曹彰は将軍となって、士卒と苦労を分かち合い、信賞必罰を徹底したいと言ったわけです。

これが曹彰が何歳くらいの話しかは分かりませんが、聞いた曹操が大笑いしたというエピソードがあるので、子供の頃の話しだったのかも知れません。

これを考えれば、曹彰というのは将軍として、武芸が秀でただけではなく、将軍としての品位ある公正な考え方も、理想としていたはずです。

尚、曹彰はこれを烏桓征伐において実践する事になります。

 

曹彰が烏桓征伐において大勝する

曹彰の最大の功績として、烏桓征伐が挙げられます。

烏桓族という異民族が、代郡において魏に対して反旗を翻したわけです。

これが216年の話しで、曹操が魏王になった年でもあります。

曹彰を将軍に任じるに当たって、曹操は次のように言っています。

「家にいる時は親子だが、軍事で外に出た時は、君主と臣下の関係となる。法律を守って軍事を行わなければならない。これを戒めにするように」

曹彰と言うのは、武芸には秀でていましたが、勝気な性格で暴走する事を曹操は心配したのでしょう。

曹操は、打算的で非情な人物として描かれる事も多いですが、曹彰に対して戒めている当たりを見ると、思いやりのある人物だと言う事も分かります。

しかし、曹操は曹彰一人では心配だと思ったのか、参謀として田豫(でんよ)を相(補佐役)にしています。

田豫は優れた智謀を持った人物で、勇猛な曹彰のブレーキ役や策を立てさせるために相に任じたのでしょう。

尚、田豫は、幽州の出身で劉備の挙兵の頃から付き従っていました。

しかし、劉備が陶謙に変わり徐州の主となると、故郷に帰るという理由で劉備と別れています。

その後、公孫瓚に仕えますが、公孫瓚が袁紹に滅ぼされると、曹操に仕えるようになりました。

田豫は、劉備も高く評価した人材だったわけです。

さらに、曹操は曹彰に夏侯尚を参軍事として付けています。

夏侯尚は、夏侯淵の一族でもあります。

 

曹彰の武力と田豫の智謀で勝利する

曹彰の軍は、烏桓を征伐するために北上しています。

しかし、涿郡に入ったところで、烏桓族の騎兵や歩兵など数千人に襲撃されています。

曹彰の兵士たちは、奇襲を想定していなかったようで、供回りは少なかったようです。

この時に、田豫がどのように防御すればいいのか?を曹彰に進言しています。

この意見を聞き入れた曹彰は、強固に守りを固めた事で烏桓の兵士たちは撤退する事になります。

田豫は、中国の最北端である幽州の出身である事から、烏桓族の騎馬隊などの対処法を熟知していたと言われています。

その関係もあり、烏桓族の奇襲にも耐える事が出来たのでしょう。

烏桓の兵士が退却すると、田豫は追撃を曹彰に進言します。

追撃戦になると、曹彰は自らも弓矢を取り追撃を行っています。

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この時の曹彰は、恐ろしい程の強さを発揮して、弓矢を放つ度に敵を倒したとあります。

曹彰は向かう所、敵なしだったのでしょう。

大将が自ら敵と戦う姿などは、孫策を彷彿させるものがあったのかも知れません。

これにより、烏桓族を撃退し領土の外にまで追い払っています。

曹彰の武勇と田豫の智謀が上手く絡み合った結果として、大勝利を収めたと言えるでしょう。

 

烏桓族に完勝する

烏桓族を追い払う事には成功しましたが、兵たちは疲労の色が濃く見えてきます。

曹彰に下記のように進言した者が出て来ます

「戦いには節度があり、代を出て追撃するのは軍令違反に当たる事になります。さらに、これ以上追撃するのは、敵を軽んじる事でもあります。」

しかし、曹彰はこの意見に対して反論しています

曹彰「軍を起こして戦うのであれば、ただ勝利だけを目指せばよい。胡(烏桓)の兵はまだ遠くまで行っていないし、追撃すれば必ず勝てる。節度など言っている場合ではないし、この機を逃すのは良将とは言えない」

この様に言い、曹彰はさらなる追撃を指示しています。

曹彰ですが、烏桓族が反撃出来ない位に徹底的に叩こうとしたのでしょう。

かつて春秋戦国時代に、趙の李牧が鳥が翼を広げたような陣形を使い匈奴を徹底的に叩いた話があります。

李牧が匈奴を徹底的に叩いた事で、匈奴は10年以上も趙の国境には近づこうとしなかった話があるわけです。

同じことを、曹彰はやろうとしたのでしょう。

敵を追い払うだけではなく、完膚なきまでに叩きのめして、魏の領土に近づけないようにしてやろうと考えたと言う事です。

さらに、曹彰は「遅れた者は斬る」といい進撃しました。

曹彰の兵は疲労が溜まっているはずなのですが、進撃を続けて烏桓の兵士に追いつき大打撃を与えています。

これに関しては、曹彰の兵士も疲れていたが、それ以上に烏桓の兵士も疲れていたのでしょう。

烏桓の斬首と捕虜の数を数えると、数千にも上ったとされていて、完膚なきまでに叩きのめしたわけです。

さらに、曹彰は兵士たちに倍の褒賞を与えて、労をねぎらいました。

以前に曹彰が曹操に、信賞必罰を説いた事がありますが、それを実践した事になります。

これを見ても、曹彰が優れた将軍だと言う事がわかります。

尚、曹彰の戦いぶりを、鮮卑の軻比能が数万騎の兵士を率いてみていて、曹彰の強さに感服して、魏に服従を望んでいます。

烏桓征伐において、曹彰は絶大なる功績を挙げたわけです。

 

 

曹丕のアドバイス

曹丕は、曹彰が烏桓征伐に行った時に、次のようにアドバイスを送っています。

「軍にあっては、法を順守して曹仁のようにあれ」

つまり、法律を厳格に守る曹仁のような態度でいろと、弟を諫めたわけです。

曹仁は、三国志演義で大言を吐いたり、劉備の軍師となった徐庶に呆気なく敗れるシーンがあるため、口ほどにもない様な人物だと感じている人も多いようです。

しかし、徐庶が作戦を練って曹仁に勝ったのは、史実ではありません。

史実では、曹仁は周瑜に敗れて江陵から撤退するなどはありますが、騎兵を率いたら采配は見事ですし、明らかに名将です。

曹丕は、曹仁のようになれと、曹彰を戒めたわけです。

曹彰の大勝利を喜んだ曹操は、曹彰に長安まで来るように言っています。

予想外の大勝利を自ら祝いたかったのでしょう。

この時も、曹丕は曹彰にアドバイスを送っています。

「父(曹操)と接する時は、自分を誇ってはならない。自分には足りない点があると、恭しく接するのが良い」

曹彰は、曹丕のアドバイスを聞き入れて、曹操に「今回の功は、自分ではなく諸将の活躍が勝利をもたらせてくれました」と言っています。

これを聞いた曹操は、曹彰を絶賛して、その成長を喜んだとされています。

曹彰は、そのまま長安に駐屯し、曹彰を策で助けた田豫は南陽太守に任ぜられています。

ただし、これ以降の曹彰が戦いに参加した記録がなく、そこが残念に感じています。

 

曹彰は皇帝になる野望があったのか?

曹彰ですが、長安にはずっと駐屯していたようです。

曹操が亡くなる時に、曹彰を洛陽に呼び寄せた話が残っています。

しかし、曹操は曹彰が到着する前に亡くなってしまい、死に目に会う事が出来ませんでした。

曹操としては、曹彰に何か伝えたかったのかも知れません。

可能性として高いとすれば、曹丕を助ける様に言い付けるためでしょう。

しかし、曹操の葬儀を取り仕切った賈逵(かき)と次のような話が残っています。

曹彰「先王(曹操)の璽綬(じじゅ)は、どこにあるのか?」

賈逵「太子は、にいて国には世継ぎがあります。あなたが璽綬を問うべき理由はありません」

このように賈逵が反論した話が残っています。

璽綬と言うのは、魏王の証のようなもので、皇帝の玉璽のようなものです。

それを考えれば、曹彰は曹操に呼ばれた事を「自分が跡継ぎに指名されるのでは?」と期待して来た可能性もあるでしょう。

璽綬のありかを曹彰が確認した行動は、自分が魏王になろうとした可能性もあります。

ただし、魏略に曹植との次のような言葉も掲載されています。

曹彰「先王(曹操)が自分を洛陽に呼んだのは、汝(曹植)を王位に就けようと考えたからだ」

曹植「それはいけません。袁家の兄弟を覚えてないのですか」

曹植は、この様にいい曹彰に対して聞く耳を持ちませんでした。

袁家の兄弟と言うのは、袁紹の息子である袁譚と袁尚を指します。

袁紹が後継者をきちんと決めなかった事で、兄弟が不和となり、そこを曹操に突かれてしまい袁譚も袁尚も滅亡しました。

尚、兄弟が争って滅びた例は歴史上に非常に多く、ここで曹植が王位に色気を見せて曹彰と組んだとしたら、曹家も滅びたかも知れません。

そうなると、司馬懿がどこかのタイミングで権力を握ったのかも知れませんし、逆に蜀の劉備や呉の孫権が魏の混乱に便乗して天下を取った可能性もあるでしょう。

それを考えれば、曹彰に対して聞く耳を持たなかった曹植は見事だと言えます。

ただし、曹彰の曹植への言葉を考えると、どうしても自分が王位を継ぎたかったようには思えません。

むしろ、曹植に王位になってもらいたかった様に思えるからです。

 

曹彰の最後と子孫

曹彰の最後ですが、正史を見ると223年に洛陽で急死したとされています。

威王と諡されています。

王がつくのは、曹丕が献帝から禅譲されて魏の皇帝となり、曹彰は最後は任城王になっていたからです。

尚、曹彰は曹操の死で長安から、洛陽に呼び戻されたわけですが、そのまま洛陽にいた可能性も高いでしょう。

急死したと言う事から、曹丕による毒殺説なども浮かび上がるわけです。

曹彰が烏桓征伐を行った時の、曹丕が曹彰をアドバイスしている様子を見ると、仲が悪いようにも見えません。

しかし、曹操が死亡した時に、璽綬のありかを聞くなどは、曹丕に疑われてしまう行動と言えるでしょう。

さらに、曹彰は武芸に秀でていて軍功もあるわけですから、曹丕が警戒してもおかしくはありません。

それを考えれば、曹丕が毒殺した可能性も残っているはずです。

曹丕は皇帝になった時に、曹彰に王位を与えたわけで、厚遇したと考えて毒説はありえないという人もいます。

しかし、曹丕は曹洪を殺そうとした時に、出世して加増しておいてから、勝手に罪に落として殺そうとしています。

この件は、卞太后の助命の働きにより、曹洪は獄より出されています。

そのため、出世したからと言って、曹丕は信頼されていると思ってはいけない部分があるのでしょう。

他にも、鍾繇(しょうよう)の宝を狙うなど、物欲の強い面もありますし、妻である甄氏には自害をするように命令しています。

さらに、曹丕は人の言う事を聞かないなども、よく見られる行動です。

それを考えると、曹彰を毒殺したのは、曹丕なのかも知れません。

ただし、確証があるわけではありませんし、本人でしか分からない所でしょう。

しかし、確証が一切出てこないと言う事は、曹彰は病死か事故死だった可能性も十分に考えられます。

尚、曹彰には、曹楷(そうかい)という子がいて、司馬炎(司馬懿の孫)が作った西晋まで生き延びた記録もあります。

余談ですが、曹丕(文帝)の後は、息子の曹叡(明帝)が継ぎますが、曹叡は若くして没してしまいます。

その後を、曹芳(そうほう)に託し、司馬懿と曹爽を後見人としています。

一説によると、曹楷の子が曹芳で、曹彰の孫とする説もあります。

曹芳が実際にどこから出てきたのかは分かりませんが、そういう説もあると言う事です。

ただし、曹芳は司馬師(司馬懿の子)により廃位されていて、この頃の魏は完全に司馬一族に権力は握られてしまい、司馬昭の子である司馬炎の時には、皇帝である曹奐は無理やり禅譲させられています。

これにより司馬炎が皇帝となり、呉を滅ぼし三国志を終焉させています。

ただし、曹芳が亡くなったのは紀元前274年なので、三国志の終焉は見る事が出来なかったはずです。

※呉の滅亡は280年

 

曹彰は皇帝になる可能性はあったのか?

曹彰が皇帝になる可能性について考えてみたいと思います。

曹操の後継者と言うと、曹丕と曹植の二人の一騎打ちとなっていて、曹彰の出る幕は無いようにも思われます。

曹丕は、曹昂(曹操の長男)が亡くなった時点で、後継者を意識したのかも知れません。

しかし、曹植の方は詩の才能を曹操に愛されていたわけです。

さらに、それを見た群臣で曹植派が結成されて、曹植を皇帝にしようとする働きもありました。

これを考えると、曹彰が皇帝になる可能性は10%も無いように思います。

しかし、曹植は酒で失敗する事が多く、過去には曹操が関羽の軍勢に囲まれた、樊城の曹仁の救援に夏侯惇、徐晃と共に曹植もつけようと考えた事があったわけです。

ここで曹植は酒に酔っていて、命令を受ける事が出来ませんでした。

他にも酒に関する失敗があるため、後継者としては頼りなく映るはずです。

そうなると、冷静沈着な曹丕が後継者になったのは、当然の成り行きだったのかも知れません。

ただし、曹操があと10年ほど生きたとします。

その間に、曹彰が抜群の武功を挙げていたとしたら、曹彰が後継者になった可能性もあるでしょう。

例ですが、唐の李世民は名君として有名な人物です。

魏徴との対話形式で行われる、貞観政要などでも有名です。

李世民には、李建成という兄がいて太子でした。

しかし、李世民の方が唐の天下統一などの戦いや業績では、圧倒的に優位にあったわけです。

臣下の中にも、李世民に期待する者が多く、結局は玄武門の変で兄の李建成を殺して太子となり、父親である李淵が亡くなると即位しています。

同じように、曹操があと10年長生きして、曹彰が抜群の武勇を発揮すれば後継者になる可能性もあるでしょう。

尚、曹丕は在位7年で死んでしまうわけで、それを考えれば曹操が10年長生きすれば、曹彰が自動的に王位に就く可能性も十分にあるでしょう。

ただし、曹操が長生きする事が前提になっているため、実現はしなかったと言えます。

あと、長安に駐屯した時に、大きな武功を挙げることが出来ていれば、曹彰が跡を継ぐ可能性もあったのかも知れません。

しかし、どうみても曹丕が生きている以上は、曹彰が太子になるのは難しいように思います。

過去に曹操は、「孫権のような息子が欲しい」と言った事があります。

自分の子である「曹丕」「曹彰」「曹植」を見て、一長一短があり過ぎて、後継者に選びにくいと考えて「孫権のような息子が欲しい」発言が出た可能性もあるでしょう。

孫権は、狙って服従したり、使者を馬鹿にしたりと性格の悪い所もありますが、守成の人材としては自分の息子たちよりも適していると思ったのかも知れません。

それを考えると、曹操が孫権のような息子が欲しいと言ったのは、本心だった可能性も十分にあるはずです。

ちなみに、私は出来損ないの息子で・・・・。

特に取り柄もありません・・・。

後継者争いになったら、即効で脱落するタイプだと思われますw

 

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