春秋戦国時代

傅抵の史実『将軍になった記録がある』

2021年2月28日

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宮下悠史

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傅抵の史実の実績を紹介します。

尚、傅抵と言うのは、司馬遷が書いた史記にも登場しますし、実在の人物である事はほぼ間違いないでしょう。

ただし、傅抵は私が調べてみた所、史記に一行しか記録がなく、どのような活躍をしたのかは分かっていません。

キングダムのように二刀流の使い手だったとか、蕞の戦いに参加して信(李信)を苦しめたなどの記述もないわけです。

もちろん、李牧の側近であるカイネ(架空の人物)を嫁にした記述もありません。

それでも、キングダムでは強いけど、どこか抜けている感じもあり憎めないキャラとして描かれています。

今回は、史実の傅抵がどのような人物だったのかのお話です。

傅抵の史実の事だけを書いてみると、何も書けなくなってしまうので、自分の想像などを交えて書いてみました。

将軍となり平邑に配置される

傅抵の史実の記述の中で唯一分かっているのは、趙の悼襄王の5年(紀元前240年)に将軍となり平邑に配置されたと言う事です。

平邑というのは、の首都である臨淄(りんし)の南側にある都市となります。

斉の南側と言う事で、対斉方面の司令官に任ぜられた事を指すのかも知れません。

尚、240年の前年は春申君が合従軍()を率いて函谷関を攻めたり、龐煖(ほうけん)が趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて蕞の戦いが起きた年です。

それらの戦闘で趙の将軍の一人が失態を犯して、降格した事で傅抵が将軍となった可能性もあるでしょう。

もしくは、将軍が戦死して一人空いたか、蕞の戦いは敗れはしたが、傅抵が大功を立てた事で龐煖から認められて、趙の悼襄王から将軍に任ぜられた可能性もあるはずです。

どういう経緯で傅抵が将軍になったのかは、分かっていません。

春申君が函谷関の戦いで敗れ、龐煖も蕞を撤退しなければならなくなったため、傅抵が平邑に配置され、慶舎が東陽の守備を任された可能性もあります。

藺相如と平邑

傅抵は平邑に配置されて将軍となったわけです。

平邑という名前を聞いて「藺相如」を思い浮かべた方は、よっぽどの藺相如ファンではないかと考えています。

史実だと藺相如は、ほとんど戦場に出た記録がなく、数少ない記録の中で残っているのが、「将軍となり平邑までいき引き上げた」という記述です。

平邑は、の首都である臨淄の南にある都市だと言う事は、既に述べました。

傅抵が平邑の将軍になると言う事は、海辺の近くの方までは領土があった事を指すはずです。

藺相如が平邑まで行き引き返したという記述は、平邑までを趙の領土にした事を指す可能性もあるでしょう。

それ以来、何十年も趙の領土だった可能性もあります。

その斉方面の司令官として、傅抵が任ぜられ、任地である平邑に出向いた可能性も十分にあります。

傅抵は史実では三大天に匹敵する役職だったのか?

傅抵ですが、平邑に配置され将軍になったと言う事は、の東方面(斉側)の司令官になったと考えられます。

キングダムでは李牧は、趙の宰相となり様々な策略を巡らせていますが、史実では趙の悼襄王の時代は北方の長官として匈奴に睨みをきかせていました。

李牧が中央に行くのは、悼襄王の子である幽穆王の時代からだと言えます。

他にも、傅抵が将軍となった紀元前240年に、趙の慶舎も将軍に任じた記録があります。

慶舎は、河梁を守らせるとする記述もあり、これが秦の備えではないか?と考える人もいるわけです。

それを考えると、趙の北方は李牧、西方は慶舎、東方は傅抵という将軍の配置だったかも知れません。

趙の南方は誰が守るの?となるかも知れませんが、趙の首都である邯鄲は趙の領土の中では南方に位置するわけです。

それを考えると、南方(中央)には龐煖がいて他国に遠征をしたりもしていた事も十分に考えられます。

キングダムの傅抵は、三大天を目指している将軍という扱いになっていますが、史実では三大天に匹敵する役職になった可能性もあります。

の宰相である春申君が函谷関を攻めた翌年には、趙でもトップクラスの役職の将軍になっていたのかも知れません。

ただし、傅抵がと戦って勝利したとか、そういう記録はないため、実際にはどのような将軍だったのかも分からない状態です。

尚、斉という国は、燕の昭王の時代に楽毅に攻め込まれて崩壊状態となり、田単が復興させています。

しかし、襄王と斉王建と二代に渡って外征は、ほとんど行っていないわけです。

それを考えると、傅抵は有能な将軍だったかも知れないが、斉が戦争を好まなかった事もあり活躍の場がなかったのかも知れません。

よく考えれば、斉は傅抵を恐れていて、趙に対して戦争を起こさなかった可能性もあるでしょう。

傅抵について言えば、かなり謎が多い将軍です。

尚、三大天の最後の司馬尚についても、趙の幽穆王の末期に李牧と共に王翦率いる進軍を防ぐ将軍になった事しか分かっていません。

それを考えると、傅抵が三大天でも史実の実績を考えれば、問題ないとも言えるでしょう。

趙の滅亡時に傅抵はどうなったのか?

ここから先は、想像になってしまうのですが、は秦によって滅亡しています。

趙の幽穆王は、郭開の讒言を信じた幽穆王が李牧を誅殺して、司馬尚を庶民に落としています。

趙を攻めていた秦の将軍は王翦は、羌瘣楊端和と共に、李牧が死んだ5か月後には、趙を滅亡させています。

趙嘉が代に逃げのびて代王嘉となりますが、事実上の趙の滅亡です。

この時に、傅抵は何をしていたのかは分かりません。

李牧と司馬尚が解任された時に、代わりに趙葱と斉将・顔聚が将軍になった記述があります。

趙葱と言うのは、趙が性であるため王族や貴族の一員の可能性が高いでしょう。

斉将・顔聚の方ですが、斉出身の将軍だという説と、斉が援軍として寄こした将軍だとする説があります。

斉の援軍の将が顔聚であれば、斉は趙は合従の同盟を結んでいた事になります。

そうであれば、斉と趙の国境付近にいた傅抵も斉への警戒を緩めて、秦に攻められていた趙都である邯鄲に来て守っていた可能性もあるでしょう。

尚、趙の幽穆王は邯鄲が陥落すると、顔聚と共に東陽に逃げたという記録が残っています。

逃げる途中に、秦兵に捕まってしまい房陵に幽閉された説もあります。

中国には、三国志の時代がありますが、それまでは斉の南の辺りに東陽県があったわけです。

そこを目指して逃げた可能性も考えられます。

傅抵が悼襄王の時代から、平邑を守り続けていれば、邯鄲が陥落して東陽を目指す幽穆王の話しを聞けば、兵を出して合流した可能性もあるでしょう。

最後は、幽穆王と運命を共にしたのかも知れませんし、秦軍と勇敢に戦い戦死した可能性もあるでしょう。

それか代に行き、代王嘉に仕えた可能性もあります。

他にも、秦王である政(始皇帝)に降伏して仕えた可能性も考えられます。

しかし、記録が全くないので、傅抵に関しては、全く行動を掴む事が出来ません。

もちろん、趙滅亡までに、病気か事故で死亡した可能性もあります。

傅抵の子孫はいるのか?

傅抵に子孫がいるのか?ですが、いる可能性があります。

漢書、後漢書、史記などを読んでも傅抵の子孫を名乗る人物はいませんでした。

ただし、「傅」を性とする将軍は、存在するわけです。

秦末期の動乱の時代に、傅寬(ふかん)という人物がいて魏咎(魏王室の一族)の配下となっています。

趙王室ではなく、魏に仕えている所をみると違うかな?とも感じますが、を倒せるのであれば、どこでも構わなかった可能性もあるでしょう。

後に、傅寬は劉邦の配下となり韓信や曹参らと共に、項羽に味方したや斉を破っています。

戦の天才である韓信に付き従っていたわけで、傅抵は手柄を立てる事が出来たわけです。

項羽が垓下の戦いで破れ劉邦が天下統一すると、韓信が反乱を起こしています。

この時に、代で陳豨が背いたわけですが、これを傅寬が鎮圧した功績が史記に残っています。

ただし、傅抵の子孫は漢の武帝の時代に反乱を起こそうとした、劉安に加担したとして侯の位を没収されています。

そこで、傅寬の子孫は途切れています。

三国志の時代になると「傅士仁」という武将が登場します。

ただし、陳寿が書いた三国志でも「士仁」と書かれている場合もあり「傅士仁」の「傅」が性ではない可能性もあります。

傅士仁に関しては、関羽を裏切り呉の呂蒙に従った事から評判は余りよくありません。

これらの人物が傅抵の子孫かも知れないと思える人物です。

ただし、確証があるわけではなく、単なる性が「傅」という共通点があるだけなので、全く関係が無い可能性もあります。

傅抵はカイネを嫁に出来るのか?【キングダム考察】

キングダムのストーリーで傅抵はカイネを嫁に出来るのか?考えてみました。

傅抵は、間違いなくカイネに惚れていますが、カイネは傅抵には惚れてはいないようです。

しかし、結ばれる可能性はゼロではないと考えています。

カイネが慕っている李牧ですが、史実ではが滅亡する少し前に、郭開の讒言により殺されてしまうわけです。

キングダムでは李牧は、呆気なく殺されてしまうのかは分かりません。

しかし、殺される直前に、傅抵にカイネを任せる可能性はないでしょうか?

李牧は自分といるとカイネも殺されてしまう事を察して、傅抵にカイネを託すというストーリーです。

そして、傅抵はカイネと結ばれるわけですが、官位は全て返して下野し庶民となって暮らします。

これがハッピーエンドのストーリーです。

ただし、キングダムでは李牧が死なない設定もあるのでは?と考えた事があります。

それだと、李牧は殺されそうになりますが、カイネや仲間に助けられて脱出します。

しかし、将軍となる気はなく出身地である北方にカイネ達と帰り庶民となるという設定です。

この時に、傅抵も北方に行くのかは分かりませんが、このストーリーだとカイネとは結ばれるシーンは無いように思います。

ただし、気をきかせた李牧がカイネと傅抵を結ばせる様にする事も考えられます。

そのストーリーであっても傅抵とカイネは結ばれる事になります。

これを考えれば、キングダムの傅抵はまだまだチャンスはあるはずです。

傅抵は嫌いなキャラではないので、カイネをゲット出来るように頑張って欲しいと思います。

ただし、傅抵がカイネをゲット出来る気がしないのは、俺だけでしょうかね・・・。

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