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三国志・キングダム「春秋戦国時代」と史実と考察の歴史書

戦国時代

織田信雄は、やらかしてくれる男だけど、死なない・・。

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織田信雄を紹介しますが、「やることなすこと裏目に出る人物」とも言えるでしょう。

ちなみに、信雄は「のぶかつ」と読みます。

「のぶゆう」とか「のぶお」と呼んでしまう人も多いようなので、記録しておきます。

織田信雄は日本人では、誰でも知っている様な戦国武将である織田信長の次男です。

しかし、そのポンコツぶりは際立っています。

宣教師であるルイスフロイスの記録には、「織田信雄は、普通の人よりも頭が悪い人物だった」とも酷評されているほどです。

ただし、織田信雄って、ポンコツで失敗ばかりしているのに、何故か死なないわけです。

城が9度落城した小田氏治にも、言える事ですが、「天に愛されている人物」というのは、織田信雄や小田氏治のような人物の事を言うのかも知れません。

記事を書いているうちに、そんな事を思うようになりました。

今回は、織田信長の次男である、織田信雄のお話です。

尚、「やらかしてくれた」という言葉が合っている人でもありますw

 

関連記事:小田氏治・戦国最弱9度落城しても死なない男【常陸の不死鳥】

 

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伊勢の国主となる

織田信長は、織田信秀の跡継ぎとなると、駿河、三河、遠江などを支配する今川義元を桶狭間の戦いで破り勝利しています。

今川家から独立した徳川家康とは清洲同盟を結んでいます。

その後は、美濃の稲葉山城を拠点とする斎藤龍興を破り勢力を拡大させています。

尾張の西には、伊勢の国があり北畠具教という大名が治めていました。

1569年に織田信長は伊勢の大河内城を攻めています。

窮地に陥った北畠具教は、織田信雄を北畠具房(具教の子)の養子にする事で、織田信長と和議を結んでいます。

ちなみに、北畠具教という人物は、剣豪としても有名で、塚原卜伝や上泉信綱に剣術を学んでいます。

さらに、柳生宗厳とも親交があったとされています。

多分ですが、北畠具教は、純粋な剣術の腕前や強さであれば、将軍足利義輝と並んで、戦国時代でも1,2の強さであったのではないかと思われます。

しかし、一人が強くても戦国時代は生き残れるわけでもなく、北畠具教は織田信長に屈したわけです。

織田信長は、織田信雄を北畠家の養子にする事で、北畠家を乗っ取ろうと考えていました。

中国地方の戦国大名である毛利元就は、吉川家に次男である元春を送り込み、小早川家に3男の隆景を送り込んでいます。

毛利元就も吉川家と小早川家を乗っ取ろうと考えていたのですが、同じことを織田信長もやったわけです。

織田信雄は元服すると、北畠具豊を名乗り雪姫(北畠具房の妹)を娶りました。

さらに、数年後には北畠家の家督を継ぎ、北畠具意(のぶおき)を名乗っています。

北畠具教ですが、無理やり織田信長に家督を譲られたり隠居させられたりして、不満を持っていました。

武田信玄は1573年に上洛を目指し、三方ヶ原の戦いでは、織田徳川連合軍を相手に大勝しています。

その時に、北畠具教は武田信玄に内通していたわけですが、1576年に発覚してしまいます。

織田信長と北畠信意(織田信雄)は、北畠一族を完全に滅ぼすために、北畠具教を始めとした中心人物たちを暗殺しています。

これを三瀬の変と呼ぶのが一般的です。

尚、北畠具教は剣豪でもあり、敵に襲い掛かれると19人を斬り殺し、100人以上に傷を負わせたとしています。

しかし、一人が圧倒的に強くても、余り意味がなかったのか、結局は討ち取られて北畠家は滅んだわけです。

北畠具教を間近で見ていた、織田信雄は武芸に励んでも、意味はないと判断して文化人を目指したのかも知れません。

後に、織田信雄は戦いでは大敗したりするのですが、庭園を造るなどの文化面では功績があります。

もしかしてですが、剣豪でもある北畠具教を見て思った事があった可能性もあるでしょう。

「文は武よりも強し」と感じたのかも知れません。

北畠家を完全に滅ぼしてしまった事で、織田信雄は伊勢の国主となったわけです。

これって織田信長が全て画策した事で、織田信雄は指示で動いただけでしょう。

しかし、ここから先の織田信雄は、やらかしてくれるわけですw

 

 

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第一次天正伊賀の乱で勝手に出兵して大敗

1579年に織田信雄は、1万の軍勢を率いて伊賀に侵攻しています。

これに関しては、父親である織田信長の命令ではなく、織田信雄の独自判断で攻めたとする説が根強いです。

伊賀という名前でピンときた人も多いかと思いますが、伊賀の国は忍者を生計にしている人が大変多かったわけです。

土地柄が山が多く農耕に向かない為、諸国の用兵として活躍したりもしていました。

そのような国に、織田信雄は、信長に無断で攻め込んだわけです。

これで勝てればまだよかったのかも知れませんが、伊賀忍者たちの奇襲や夜襲、攪乱戦法などのゲリラ戦術の前に大敗してしまいます。

織田信雄自身も命からがら、逃げ帰る事になります。

この時に、殿(しんがり)を務めた柘植保重が伊賀衆の植田光次に討たれてしまいます。

柘植保重は、織田信雄を逃がすために、自分が死んでしまったわけです。

これに対する、織田信雄への信長の手紙が残っています。

それによると「道理に反する事をした(伊賀攻め)天罰」とか「若気の至りなのか!」「柘植保重が戦死するのは、言語道断である」など手厳しい事が書かれていました。

さらに、「親子の縁を切る」とまで書かれていて、信長が如何に激怒したか分かります。

この失敗に懲りたのか、織田信雄は当分の間、大人しくしていたようです。

しかし、1582年に本能寺の変が起きて、明智光秀が謀反を起こし織田信長を討っています。

ここでも、またやらかしてくれるわけです。

 

 

本能寺の変で何故か撤退

父親である織田信長が本能寺の変で、明智光秀に討たれてしまうわけですが、この時に織田信雄は伊勢にいたわけです。

本能寺の変の事も、織田信雄の耳に入る事になります。

この時は、織田信雄も出陣しているわけです。

伊勢から京都に行くには、近江を抜ければすぐなわけで、比較的近い場所に織田信雄はいました。

しかし、行軍が遅かったせいか、移動している最中に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、明智光秀を山崎の戦いで破った情報が入ってきます。

明智光秀は逃亡中に農民に討たれて死亡した情報も入ってくるわけです。

この時に、織田信雄も信長の死で動揺した地域を鎮めるなどすればよかったのですが、伊勢に撤退してしまいます。

もちろん、本能寺の変は突発的な出来事だった為に、織田信雄も少数の兵しかいなかったと言うのもあります。

しかし、本能寺の変の後の弔い合戦などにも全く活躍しなかった為に、後の清須会議で不利となってしまいます。

ただし、織田長益(有楽斎)の様に、嫡男で織田家の家督を継いだ織田信忠に切腹させておいて、自分は逃亡するよりはマシかなとは思いましたw

 

関連記事:織田長益(有楽斎)の本能寺の変での行動が織田家の衰退を招いた

 

安土城を焼く・ルイスフロイスに普通の人より頭が悪いと評される

本能寺の変の時に、織田信雄のもう一つのやらかしてしまった事が、安土城に火をつけてしまった事でしょう。

織田信雄は、弔い合戦の方は役に立たずに終わったのですが、その後、安土城に進軍しています。

本能寺の変の後に、安土城は明智光秀が占拠しました。

しかし、山崎の戦いで破れると、明智軍は安土城を放棄しています。

そこに目を付けたのが織田信雄です。

この時に、織田信雄は、明智軍の残党が潜んでいるかも知れないと、あぶり出し作戦を考え出します。

その結果として、安土城の城下町に火を放ってしまったわけです。

さらに、安土城の5層7階の天守閣に火を放ち焼いてしまいました。

この時に、ルイスフロイスが織田信雄の事を語った記録が残っています。

それが下記です。

織田信雄は、普通の人よりも頭が悪いため、何も考えずに屋敷と城に火を付けるように指示した

普通に考えれば、「何も考えずに火を付けた」と書けばいいのに「普通の人よりも頭が悪い」などは、かなり酷評していると言えるでしょうw

ルイスフロイスは、織田信雄に何か恨みでもあったのでしょうか・・・。

一説によれば明智光秀軍の残党が火を付けたとする説もあります。

ただし、当時から織田信雄は無能だったという話が、織田家中で広がっていた為、勝手に責任を負わされてしまった説もあります。

どちらにしろ、既に織田信雄のポンコツ振りは、知れ渡っていたようです。

やることなすこと裏目に出る人がいますが、それが織田信雄だったのかも知れません

安土城に火を付けてしまったとしたら、本当にやらかしてしまった人と言えるでしょうw

 

 

 

清須会議で後継者に立候補するも・・・。相手にされず・・。

山崎の戦いが終り、2週間ほどすると、尾張の国で清須会議が行われています。

参加したのは、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興と、後継者争いに立候補した織田信雄と織田信孝です。

ちなみに、清須会議の3日ほど前に、織田信雄は羽柴秀吉に手紙を送っています。

それによると、羽柴秀吉の指示を待っている手紙です。

織田家の家督を継ごうと考えている人が、羽柴秀吉の指示を待っている状態なわけです。

これを見る限り、織田家は羽柴秀吉に乗っ取られているようにしか思えませんw

清須会議で、発言権が強かったのが、信長の敵討ちを成功させた羽柴秀吉と、織田家の筆頭家老である柴田勝家です。

清須会議の前で、秀吉に媚びを売ったかのような手紙を送った織田信雄ですが、秀吉は後継者候補には織田信忠の嫡男である三法師(後の織田秀信)を推しました。

さらに、柴田勝家は、織田信孝を支持するなど、織田信雄を織田家の跡継ぎにしようとする人はいなかったわけです。

結局、織田信雄は、威勢よく織田家の後継者に立候補しただけで終わる事になります。

織田家の後継者は三法師と決まり、後見人として織田信雄と織田信孝が付き、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らが宿老として支える事に決定します。

ただし、この時に織田信雄は、尾張、伊賀、南伊勢も領有する事になり100万石の大大名となっています。

ちなみに、織田信雄の名前が正式に「信雄」となるのは、清須会議の後の辺りです。

それまでは、「北畠」の性でいたのですが、織田家の後継者などを考えると「織田」を名乗り、それに合わせて改名したようです。

 

織田信雄が織田家の跡取りに!?

清須会議は終わったわけですが、秀吉は清須会議で決まった事を反故にしようとします。

柴田勝家は、織田信孝と組み羽柴秀吉に対抗します。

羽柴秀吉は、三法師を擁立してはいましたが、三法師は幼くて意思決定が出来ません。

そのため、秀吉は急遽、織田信雄を織田家の当主として担ぎ上げたわけです。

賤ケ岳の戦いでは、羽柴秀吉は柴田勝家を破っています。

この時に、織田信雄は岐阜にいる織田信孝を攻めています。

織田信雄は、織田信孝を降伏させて捕らえるわけですが、さらに切腹に追い込んでいます。

切腹する時に、織田信孝は辞世の句を読んでいますが「報いを待てや。羽柴秀吉」という文があるわけです。

切腹に追い込んだのは、織田信雄なのですが、織田信孝が恨んだのは、羽柴秀吉だったようです。

これを見ると、織田信孝には、織田信雄は眼中になかったのでしょうか?

それか、織田信雄は、頭も悪いし羽柴秀吉に操られているだけだ!と思っていたのかも知れません。

他にも、織田信雄自身が、恨みを買いにくい性格だった可能性もあるでしょう。

この辺りが、織田信雄の長生きの秘訣なのかも知れません。

 

 

 

小牧長久手の戦いが起きるも勝手に和議を結ぶ

羽柴秀吉は、北ノ庄城の戦いで柴田勝家を滅ぼすと、織田家に対する遠慮は無くなっていきます。

自らが天下を取ろうと野心を剥き出しにしていくわけです。

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織田信雄も秀吉に利用されているだけだと気が付き、徳川家康と挙兵する事になります。

羽柴秀吉と交渉などをしていた、織田信雄の家老である津川義冬、岡田重孝、浅井長時らを斬り捨てて宣戦布告しました。

ここに小牧長久手の戦いが勃発します。

織田信雄の大義名分としては「秀吉が織田家を奪い取ろうとしているから、正当な後継者である織田信雄が秀吉を討つ」と言うのが名目です。

この時に、徳川家康だけではなく、秀吉の周りには従わない人たちもいたわけです。

四国には、長宗我部元親がいましたし、越中には佐々成政、紀伊では雑賀衆もいました。

ある意味、秀吉を包囲する形となっています。

織田信雄は清州城に入り、徳川家康は小牧城に入りました。

徳川家康が秀吉の岡崎城を急襲しようとした別動隊である、森長可や池田恒興を討ち取るなどの大戦果も挙げているわけです。

しかし、織田信雄の伊勢方面では、苦戦していました。

小牧長久手の戦いの前に、津川義冬、岡田重孝、浅井長時らを斬ってしまったわけですが、その家臣たちが離反したからです。

 

秀吉から和議を持ちかけられる

秀吉の方も、四方に敵がいるわけで苦しい状態でした。

決して、楽観できるような状態ではなかったわけです。

そこで、秀吉は、織田信雄に懐柔策を取ります。

秀吉は既に、伊勢や伊賀で優位に進めていましたが、伊賀や伊勢の一部を織田信雄に割譲すると和議を求めてきました。

この時に、秀吉の苦悩を知り和議を蹴るという選択肢もあったのですが、織田信雄は和議を受け入れてしまいます。

伊勢方面で、苦戦していたのを考慮して決断したのかも知れません。

しかし、これにより徳川家康や佐々成政は撤退しなければならなくなってしまいます。

織田信雄に協力した人たちは、大義名分として「羽柴秀吉により専横されている織田家を正当な後継者である織田信雄に戻すため」として、戦っていたわけです。

その織田信雄が、秀吉と和議を結んでしまえば、戦いをする理由がなくなってしまいます。

さらに、100万石を超える織田信雄の軍勢が秀吉と結んだと言うのは、戦意も喪失した事でしょう。

秀吉嫌いの佐々成政は、冬のアルプス越えを決行し、自ら徳川家康に再度、挙兵するように説得に行きますが、家康は動きませんでした。

織田信雄の行動には、徳川家康、佐々成政、長曾我部元親などが困惑したのではないかと思われます。

自分が呼び掛けておいて、相談もなく和議を結んでしまうのですから・・・。

 

秀吉軍の総大将に任命される

織田信雄を懐柔した、羽柴秀吉ですが、反対勢力を各個撃破していきます。

越中の佐々成政にも討伐軍を向けています。

ちなみに、佐々成政を討伐するのに、総大将として織田信雄の名前が挙がっています。

佐々成政は、秀吉嫌いで、織田家を正常に戻すために、織田信雄に協力していたわけです。

それを、何を思ったのか自分が総大将となって、佐々成政を討ちに来くる事になりました。

佐々成政としては「世の中、どこか間違っている!」と思っても、仕方がない事でしょう。

尚、佐々成政は、降伏しているわけですが、その時に調停に当たったのが、織田信雄です。

佐々成政は、調停役の織田信雄を見てどう思ったのかは分かりませんが、降伏に応じています。

織田信孝も、織田信雄を恨んではいなかったとも見れるので、佐々成政も恨んではいないのかも知れません。

織田信雄は、こういう調停には向いているような感じもしました。

尚、羽柴秀吉は四国征伐では、長宗我部元親を降伏されていますし、紀州征伐も成功させています。

さらに、九州の島津義久や島津義弘などを九州征伐により服従させています。

徳川家康も攻め滅ぼそうとしたわけですが、天正地震により結局は懐柔させる事になりました。

この時期は、秀吉が天下統一に向けて邁進している状態です。

残すは、関東の北条氏と東北の大名位のもので、天下統一間近と言えます。

ここで秀吉が無事に天下統一すれば、織田信雄も100万石の大大名だったわけですが、やらかしてくれるわけですw

 

秀吉に反抗するも改易・・・。

豊臣秀吉は、北条氏政・氏直の親子が守る小田原城を囲み降伏させています。

織田信雄は、小田原攻めのおいては、韮山城を降伏させるなどの武功も挙げています。

さらに、北条家に降伏するように説得したりと、外交交渉も行っています。

織田信雄は、交渉に関しては才能があるのか、北条氏政・氏直の親子は秀吉に降伏する事になったわけです。

さらに、奥州の覇者でもある伊達政宗も降伏していますし、奥州の一部が僅かに残っているだけで、秀吉の天下統一は決定的となりました。

この時に、豊臣秀吉は、関東の旧北条領をそっくり徳川家康に与えています。

織田信雄には、徳川家康の旧領であった、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国を与えようとしました。

これを受けていれば150万石の大大名となります。

ただし、今まで、織田信雄が治めていた領地はそっくり没収となり、国替えを命じられたわけです。

しかし、織田信雄は、先祖代々の尾張の地を離れたくないと、秀吉に反抗します。

この行動が秀吉に怒りを買い、改易されてしまうわけです・・・。

100万石の大名から一気に、領地を全て失ってしまいます・・・。

ちなみに、北条氏が降伏してから織田信雄の改易が決定されるまでの期間は、わずか8日間です・・・。

仕方がないとはいえ、やらかしたとも言えるでしょうw

 

家康の取りなしにより大名復帰

改易後の織田信雄ですが、下野の烏山に流罪となっています。

この時に、出家して「常真」と名乗ったようです。

織田信雄は、流罪先もコロコロと変わるのか、出羽や伊予など、東北や四国まで飛ばされています。

しかし、徳川家康が取り成してくれて、近畿地方の大和に1万8千石の領土を与えられて、大名に復帰しています。

さらに、織田信雄の息子である織田秀雄(ひでかつ)も越前大野で5万石を与えられて大名となりました。

ここで何とか挽回した、織田信雄ですが、まだまだ試練はやってくるわけです。

 

関ヶ原の戦いで改易にされる

豊臣秀吉は、朝鮮出兵なども行いますが戦果を挙げる事は出来ませんでした。

そうしているうちに、1598年に亡くなってしまいます。

秀吉が亡くなると、徳川家康の発言が大きくなっていきます。

これにより関ヶ原の戦いが引き起こされるわけです。

天下分け目の戦いと呼ばれている関ヶ原の戦いですが、大名復帰させてくれた徳川家康の恩もある事ですし、東軍(徳川方)についてもよさそうに感じます。

しかし、織田信雄は関ケ原の戦いは、何もせずに傍観したわけです。

よく言えば中立を保ったわけですが、関ケ原の戦いが終ると、今度は徳川家康に改易させられています。

大名復帰に尽力してくれた徳川家康の怒りを買ってしまいます。

この理由ですが、織田信雄が石田三成や毛利輝元、宇喜多秀家などの西軍と内通していた事が発覚したからだとも言われています。

ここでも、やらかしてくれたと言わざるを得ないでしょうw

 

関連記事:関ケ原の戦いの首謀者は石田三成ではなかった!

 

大坂の陣で豊臣方の総大将に織田信雄!?

徳川家康により関ヶ原の後で、改易されるわけですが、その後は豊臣家に仕えたようです。

徳川家康は、成人した豊臣秀頼に会うと、有能さを恐れて豊臣家を潰す事を考えるようになります。

ここにおいいて、大坂の陣が勃発します。

大阪城内には、多くの浪人が集められて10万人に膨れ上がったとも言われています。

大阪方でも実践指揮官の総大将を決めなければいけなかったわけですが、候補として織田信雄が上がっているわけです。

自分としては、織田信雄は交渉や外交は上手いかも知れませんが、明らかな戦下手でもあり、自分としてはよく総大将に名前があがったな!とも感じていますw

しかし、織田信雄は戦いが始まる前に、徳川家康の元に逃亡しています。

一説によれば、織田信雄は徳川方のスパイだったともされています。

織田信長の弟である織田長益(有楽斎)もスパイ疑惑もあり去っていますが、それよりも早く織田信雄は大坂城を退去しています。

尚、大坂の陣は真田幸村や後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登などが奮戦しますが、豊臣秀頼も自害して豊臣家は滅亡しました。

豊臣家が滅亡した事を考えれば、織田信雄の選択は正しかったとも言えるでしょう。

ただし、敵前逃亡とも取れるわけで、余りカッコよくはないでしょうw

尚、織田信雄は大坂の陣が終ると大和宇陀郡と上野甘楽郡に5万石の領地を貰い再び大名に復帰しています。

大阪方から寝返り領地を貰うと言う事は、スパイとして活躍した事から、領地を貰った可能性もあるでしょう。

それか、真田幸村は徳川家康から信濃を領地にする事で寝返りを打診した話も残っています。

それを考えれば織田信雄の元に、大坂城の切り崩しの為に家康からの打診があってもいいと思いました。

豊臣方から寝返った恩賞として、領地を授けた可能性もあります。

実際のところは、織田信雄本人でなければ分からない所なのですが・・・。

ただし、大坂城の総大将を辞退して、退去したと言うのは、自分の向き不向きで考えれば、正しい選択にも思えるわけです。

織田信雄って、とても戦略が優れているとか戦術に定評があるなどは、思えないからです。

この頃になると、自分という者をよく理解してきた可能性もあるでしょう。

 

関連記事:豊臣秀頼は有能だけどセコさが足りないと思った。

 

文化人としては一流

大坂の陣が終ると、織田信雄は悠々自適の生活をしたようです。

文化人としては、才能があるようで、「庭園」などを建造して、優れた評価をされています。

織田信雄が作りあげた、庭園は楽山園と呼びますが、現在では「国指定名勝」として高い評価を受けています。

このように文化面では、大きな成果を上げたのが織田信雄なのです。

私もまだ、織田信雄の大名庭園は見た事がないのですが、近々行ってきたいなとも感じています。

行ったとしたら、突撃レビューをするかも知れませんw

 

織田信雄の子孫

織田信雄の子孫ですが、現代でも生き続けています。

フィギアスケートで有名な織田信成さんは、織田信雄の子孫です。

織田信成さんのキャラクターを見ると、憎めない感じもしますし、織田信雄の風格がもしかしてあるのかも知れません。

織田信成さんの演技力の高さなどは、織田信雄譲りなのかも知れませんね。

尚、上記の図は織田信成選手が世界大会で演技が終わった後なのですが、よく見ると股間のチャックが空いているわけですw

この辺りの憎めない感じが、織田信雄にもあったのかな~と思ってしまいました。

 

 

織田信雄は天に愛されている?

織田信雄ですが、天に愛されているようにも思えてきます。

織田信長あたりは、楽市楽座など画期的な事もやっていますし、新しいものが好きで次々に取り入れています。

明らかに天才肌だと思うのですが、本能寺の変で謀反を起こされてしまうと、いとも簡単に命を落としているわけです。

他にも、武田信玄も上洛を始めたかと思えば、死んでしまいますし、上杉謙信の信長を破ったかと思ったら死んでしまいました。

それに比べると、織田信雄とか小田氏治辺りは、戦いも滅法弱いですし、頭がいいわけではありません。

しかし、長寿ですし、天寿を全うして亡くなっているわけです。

もちろん、家臣団が奮戦してくれたなどもあるかと思いますが、家臣団に裏切られて死んでしまった人も戦国時代は少なくありません。

それを考えると、織田信雄は天に愛されていると言えるのかも知れません。

織田信雄は失敗も多いですし、時として適切な対応が取れていない様にも感じますが、どこか憎めないような所があります。

これが織田信雄の魅力であり天に愛されていると言う事なのかも知れません。

尚、自分は織田信長の家来になりたいか?織田信雄の家来になりたいか?と言われたら楽そうな織田信雄を選びたいと思いますw

ただし、改易されるのは嫌だな~とは思いますがw

 

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