春秋戦国時代

張唐は史実だと難解な記述が多い

2021年3月4日

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宮下悠史

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張唐の史実の実績を解説します。

張唐ですが、実際に史記にも登場する実在したの将軍です。

キングダムという原泰久さんが描く漫画では、秦の昭王時代からの老将軍として渋い活躍を見せています。

昭王の時代は、六大将軍の影に隠れながらも、蒙驁などと素晴らしい実績を挙げた将軍という事になっていました。

野党上がりの桓騎とは、最初は折り合いが悪かったわけですが、後には認めています。

キングダムでは春申君李牧の主導で行われた紀元前241年の函谷関の戦いでは、の毒を使う将軍である成恢を討つなど活躍していますが、毒に侵されてしまった為に命を落としています。

張唐ですが、史実を見ると昭王の末期に将軍として活躍が記載されていますが、始皇帝が即位した頃には将軍としての活躍は記載されていません。

代わりに12歳の少年である甘羅とのエピソードに張唐は登場する程度です。

甘羅の話しと合わせて、今回は張唐の史実でどのような活躍をしたのかのお話です。

尚、成恢を討ったりしたのが、キングダムのみのお話で、成恢が毒の研究をしていた美男子だったなどの記述は史書には存在しません。

残念に思った人もいるかも知れませんが、それが史実です。

ちなみに、キングダムの張唐のセリフで「函谷関は作られてから100余年一度の落ちた事が無い」という言葉があります。

しかし、戦国四君の一人である孟嘗君の連合軍で函谷関を破ったとする記述もあります。

それでも、秦の孝公の頃に作られてから1回しか破られていないのは、凄い記録だと感じています。

まさに、秦の孝公と商鞅の亡霊に守られていると言ってもよいでしょう。

魏を攻める

張唐が紀元前258年にを攻めた記述が史記にあります。

蔡尉が陣を守備しなかったために、帰還後に蔡尉に首を斬ったとあります。

この出来事については、史記などにも詳しく事情が解説してあるわけではないので意味不明な部分もありますが、張唐が魏を攻めたが蔡尉が職務怠慢などもあり成功しなかったと言う事なのかも知れません。

紀元前260年の長平の戦いで、白起が趙軍の40万の兵士を生き埋めにしましたが、その後、蘇代の交渉により范雎を口説き落とし和睦しました。

その後、時を経て趙都邯鄲を包囲したわけです。

紀元前258年は、王陵や王齕(王騎と同一人物説あり)が、の都邯鄲を必死になって攻めている段階です。

この時に、張唐が魏を攻めたとなると、秦の一軍は趙を攻めて、もう一軍は魏に攻めたと言う事になります。

魏王は、この時に趙からの援軍要請のため、晋鄙将軍を援軍に向かわせましたが、国境で停止しています。

秦は魏に、趙を助ければ、趙を滅ぼした後に魏を攻め滅ぼすと圧力を掛けたわけです。

脅しの為の軍勢として、張唐を魏に向かわせたのかも知れません。

この時に、白起は病気といい昭王や范雎の出撃依頼を断っています。

そのため、昭王や范雎らとは不和になっていきました。

張唐に対して命令違反を犯した蔡尉ですが、可能性として白起と長年にわたり戦場を共にした仲であり、白起の状態を知っていた為、他の将軍の言う事は聞きたくなかったのかも知れません。

あくまでも、私の想像ですが、その可能性もあるのかな?と感じました。

しかし、張唐が魏を攻めても蔡尉が働かずに、上手く行かなかったのでしょう。

鄭を滅ぼす

紀元前257年に、張唐が鄭を滅ぼしたような記述があります。

鄭という国は、春秋時代の初期は周王朝とも深く関わり強勢を誇っていました。

鄭の荘公を春秋時代の最初の覇者だという人もいる位です。

しかし、その後は、北の大国である晋と南の大国のに挟まれて弱体化していきます。

晋がに分かれた後に、韓が鄭を攻めて新鄭を陥落して滅ぼしているわけです。

その後、新鄭は韓の首都になっています。

つまり、紀元前257年よりも前に滅んだ国となっているはずなのです。

しかし、張唐が鄭を滅ぼしたような記述が史記にあります。

これに関してですが、韓は鄭を滅ぼしたわけですが、鄭の君主に領土を与えるなどして、別の場所に鄭君みたいな感じで残したのかも知れません。

魏の東郡を奪った時に、魏の属国である衛も滅んだとも思われましたが、最終的に滅亡したのは、二世皇帝(胡亥)の時代です。

同じような事が鄭でも起きていて、僅かながらの領土を治めていた鄭君を張唐が攻め滅ぼした可能性もあるでしょう。

もう一つ考えられるのが、鄭という国は周の幽王が申公と犬戎に攻められて滅亡した時に、国が移動しているわけです。

鄭の桓公は、周の幽王と共に驪山の麓で死にましたが、子である鄭の武公は周王や晋の文侯の力などを借りて国を移しています。

移した場所が、新鄭となるわけですが、鄭の故地も鄭と呼ばれていて、そこにも君主がいて鄭君を名乗っていた可能性もあるのではないでしょうか?

この辺りも想像でしかありませんが、張唐が鄭を滅ぼすには、鄭という国がどこかに存在しなければいけないわけです。。

もしかして、張唐が滅ぼした鄭というのは、鄭が付く人物名だったの可能性もあるかな?とも考えた事もあります。

他にも、鄭の記述は誤りであり、どこか別の場所を張唐が滅ぼした可能性もあるでしょう。

張唐が知名度が低い為に、議論されませんが難解な問題だと個人的には考えています。

王齕と寧新中を取る

紀元前257年に王齕(おうこつ)は、の邯鄲の攻略を諦めています。

趙は平原君の活躍もありましたが、からは信陵君が晋鄙の兵権を奪い取り援軍として駆けつけたわけです。

さらに、平原君の食客である毛遂の活躍もあり、からは春申君が援軍として現れています。

他にも、李同の決死隊も奮戦し、秦を撃退しました。

王齕は、張唐の軍と合流して、寧新中を取ったとする記述があります。

その後、寧新中は安陽と都市名を変えたそうです。

秦軍も邯鄲では敗れはしたが、城の一つは陥落させたと言う事なのでしょう。

12歳の甘羅に説得させる

秦の剛成君蔡沢は、秦とが同盟を結びを攻めようと考えていました。

蔡沢はに行き燕の太子丹を人質として秦に入れる事が決定したわけです。

燕からは太子丹が秦からやってきましたが、さらに、燕の宰相として張唐を送り込もうと文信侯呂不韋は考えました。

不思議に思うかも知れませんが、戦国七雄の時代では自国を有利にするために、宰相として人材を他国に送る事はよくあったわけです。

その一環が、張唐を燕に送り秦に有利に傾くようにしようとする政策でした。

呂不韋は、張唐に燕の宰相になるように説得しますが、張唐は「燕に行くには趙を通らなければならない、自分は趙の兵を大量に殺しているから、趙を通れば必ず殺される事になる」この様に言い行くのを渋ったわけです。

呂不韋が困っていると、甘羅(甘茂の孫)が自分が説得すると名乗り出たわけです。

呂不韋は、自分が説得出来ないのに子供に説得できるわけがないと怒りますが、結局は甘羅に説得に向かわせる事にしました。

甘羅は、張唐に「秦の昭王の命令を聞かなかった白起は自害させられている事」などを説き納得させたわけです。

張唐は燕の宰相になる事を決めるわけですが、その直前に甘羅はもう一つ策を呂不韋に提案します。

趙の悼襄王に使者として行き、秦に河間の一部を割譲して、趙は秦と結び燕を攻めればいいという内容です。

そこで、秦は燕の太子丹を国に返し、趙に甘羅を使者として行かせて悼襄王を説き、秦に河間の5城を割譲しました。

趙は燕の上谷の30城を奪い、そのうち11城を秦の物としたそうです。

これを考えると、秦は燕との同盟を破棄したわけですから、張唐は燕の宰相にならなかった可能性も高いでしょう。

尚、この功績により甘羅は上卿に任ぜられています。

この話は、張唐の話しと言うよりは、甘羅の逸話とも言えるでしょう。

甘羅は、12歳にしてこれ程の事が出来てしまうので、まさしく神童と思うかも知れません。

しかし、甘羅のエピソードはこれしかないわけで、上卿になってからはどうなったのかも分からない状態です。

案外、大人になったら普通の人になってしまったのかも知れません。

三国志の孔融などもそうですが、子供の時に優秀過ぎると大人になってからイマイチにも感じたりするわけです。

他にも、諸葛恪のように頭はいいけど、結局は殺されてしまった例もあります。

賢いだけが人間の価値ではないかも知れませんね。

最近、ピーターの法則という本を読みましたが、人間は出世するほど馬鹿になってしまうそうです。

もしかして、ピーターの法則が当てはまるような人物だったのかも知れません。

秦の人質になった太子丹の不思議

張唐と甘羅の話しを見てみると、太子丹は一度は人質になってしまったがの国に帰った事になっています。

しかし、燕世家では、太子丹は嬴政に冷遇された事を根に持ち、紀元前232年に燕に逃げ帰った事になっているわけです。

が燕を悼襄王の時代に攻めたのは、李牧が紀元前243年に燕の武遂と方城を攻め取った記述となります。

龐煖が貍・陽城を悼襄王の末年である紀元前236年にも攻めていますが、龐煖が燕を攻めた年は秦が趙の鄴(ぎょう)攻めを行った年です。

秦が趙を攻めているので、張唐と甘羅の記述とは一致しません。

それを考えると、燕の太子丹は2度に渡ってに人質になった事になります。

司馬遷の書いた史記には、列伝と世家・本紀などで記述が食い違っている部分がいくつもあります。

時として、文章の食い違いがあり、そこが後世の人間を混乱させる要因になっているような気もするわけです。

もちろん、司馬遷は歴史的な記述を自ら採取して記録したわけで、偉大な歴史家である事は間違いありません。

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