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織田長益(有楽斎)は関ケ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍の武将として参加しています。
上記の図を見ると分かりますが、関ケ原での陣形図にも名前が載っている事が大半です。
尚、前回の記事では、本能寺の変で、嫡男である織田信忠に切腹を勧めておきながらも、自分は逃走するという失態?を見せてくれたわけですw
その様子は、下記に書き示してあります。
関連記事:織田長益(有楽斎)の本能寺の変での行動が織田家の衰退を招いた
ちなみに、明智光秀が起こした「本能寺の変」の後の、織田長益は織田信長の次男である織田信雄に仕えています。
豊臣秀吉の小田原征伐が終ると、織田信雄は国替えの命令をされました。
しかし、先祖代々の尾張の地などを手放したくないといい、国替えを拒否したため改易されてしまうわけです。
織田長益は主君である織田信雄が改易された後は、豊臣秀吉の御伽衆となっています。
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目次
関ヶ原で東軍として参加する
豊臣秀吉が1598年に京都の伏見城で亡くなっています。
すると、織田長益は五大老の筆頭である徳川家康に接近したようです。
そういう縁もあり関ヶ原の戦いでは、東軍として参加しているわけです。
関ヶ原の戦いは、謎が多い戦いとされています。
石田三成が西軍の首謀者ではなかったとか、毛利輝元は積極的に動いていた事、宇喜多秀家が総大将だった?など、様々な事が言われています。
しかし、織田長益に関しては、次のような事があったと伝えられています。
織田長益は、寡兵でしか関ケ原に参戦する事が出来ませんでした。
それでも、450人の兵士を率いて、奮戦しています。
息子である織田長孝は敵将を討ち取るなど活躍しているわけです。
小早川秀秋の寝返りにより、大谷吉継の部隊が崩壊してしまう事で、関ケ原の戦いでの決着がほぼ決まりとなりました。
これにより、織田長益から見れば、関ヶ原の戦いでの勝利により大名に返り咲けるかも知れませんし、恩賞に大きく前進したわけです。
しかし、ここで織田長益の前に、蒲生頼郷が立ちはだかります。
関連記事:徳川秀忠は関ケ原では遅参して、【大坂の陣では暴走】している事実
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蒲生頼郷が単騎で突撃を掛ける
蒲生頼郷ですが、名前を聞いてピンときた人は歴史に詳しい人ではないかと思っています。
かつては会津92万石を領していた蒲生氏郷の家臣で、活躍が認められて「蒲生」性を賜った武将です。
蒲生家は、蒲生氏郷が亡くなると蒲生秀行が跡を継ぎますが、蒲生騒動が起きてしまい、それにより宇都宮12万石に減封移封されています。
蒲生頼郷は、その後は石田三成に仕官して、蒲生真令とも言われています。
尚、蒲生真令は知勇兼備の名将とも呼ばれていたそうです。
ちなみに、蒲生頼郷は織田長益とは面識があり旧知の仲だったとも言われています。
蒲生頼郷は西軍として関ケ原に参加していたわけですが、敗戦が濃厚となってくるわけです。
すると、蒲生頼郷は武士の意地を見せるために、単騎で東軍に突撃を決行しました。
関ヶ原で敗戦が決まった後に、突撃を掛けると言うと、島津義久や豊久の中央突破を思い浮かべる人が多い事でしょう。
しかし、実際にはメジャーな武将ではなくても、蒲生頼郷も単騎で突撃を掛けているわけです。
これを織田長益が見つけてしまうわけです。
蒲生頼郷に上から目線で降伏勧告・・。
織田長益は、蒲生頼郷に近寄っていくといきなり「我にくだれ!」と上から目線で傲慢に言ったともされていますw
死ぬ気の相手に対して降伏勧告したとも言えますw
蒲生頼郷は死ぬ気で突撃を決行しているわけで、この言葉に切れてしまうわけです。
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蒲生頼郷は「これは何の譫言(うわごと)を吐くや」と言うと、怒って織田長益に斬り掛かってきたわけですw
蒲生頼郷は、織田長益に斬り掛かりますが、惜しくも体をかすめただけで、殺傷するまでには行きませんでした。
しかし、代わりに馬が斬られてしまい織田長益は落馬してしまいます。
そこを蒲生頼郷が斬り掛かるわけですが、落馬したのをみた織田長益の家臣である千賀文蔵・文吉兄弟が助けに入ります。
これにより蒲生頼郷は討ち取られてしまったようです。
もちろん、千賀兄弟の活躍により、織田長益は助かります。
千賀兄弟は織田長益を助けに入ったわけではない?
織田長益ですが、蒲生頼郷により落馬した時に、千賀兄弟は助けに入ったのではないとする話が残っています。
千賀兄弟は、落馬したのを見て、織田長益は死んだと思って、仇討ちの為に蒲生頼郷に飛び掛かったとする説です。
つまり、普段から運動音痴で武芸に優れない織田長益を見ていたので、落馬した瞬間に死んだと思ったそうですw
しかし、これが功を奏し蒲生頼郷にすぐに攻撃に入った為、織田長益も助かったのでしょう。
逆に、織田長益を助けようとしたら、織田長益は殺されていた可能性もあるかと思いました。
織田長益は家臣にも、武芸の弱さを認められていた話ですw
ちなみに、千賀兄弟ですが、蒲生頼郷の首を取る役目は主君である織田長益に譲ったともされていますw
つまり、瀕死なのか、既に死んでいたのか分かりませんが、首を取る役目だけ譲ってもらう所が、どこか情けなさが残るように思えてなりません。
普通であれば千賀兄弟に取らせてあげて、手柄にさせてあげればいいのではないか?と思うんですけどね・・・。
それか織田長益の事ですから、「首は俺に斬らせろ」と言った可能性もあるかと思いますw
空気の読めない言葉は価値観の違いなのか?
織田長益が関ヶ原の戦いで、蒲生頼郷に言った「我に降れ」という言葉は空気が読めない様にも感じます。
「花の慶次」という前田慶次(利益)を主人公にした漫画がありました。
前田慶次であれば、蒲生頼郷に突撃を見た時に、全力で相手をするか「死なせたくない」と思い手を打つ事でしょう。
前田慶次であれば、蒲生頼郷の気持ちを理解できるのではないかと思いました。
しかし、織田長益の場合は「本能寺の変」で織田信忠に切腹させておいて、自分は逃走した過去があります。
勝敗が決したのに、突撃を掛けたりするのは犬死だと考えたのではないかと思います。
その考えから出た言葉が「我に降れ」という言葉だったようにも感じました。
織田長益の考えでは「自分だったら、ここは絶対に降伏だ」という考えがあり、高圧的に「我に降れ」と言ったのかも知れませんw
「お前は降伏するしか助かる道はないだろう」という上から目線での言葉だった可能性もあるでしょうw
人というのは、相手の価値観を理解できない部分もあるはずです。
そこが空気が読めない発言に繋がったのかも知れませんね。
ちなみに、自分ですが、やっぱり憧れるのは蒲生頼郷のように、最後に一花咲かせる武将だと思います。
しかし、織田長益のような変に逃走するとか、空気の読めない降伏勧告をしてしまいそうな気もします・・・。
それでも、現代が平和な世の中で良かったのではないかと感じましたw
尚、織田長益は関ケ原の戦いでも、命拾いしましたが、大坂の陣の頃になっても生きているわけですw
大坂の陣では、スパイだったとも、相手にされなくなって大坂城を退去したとも言われています。
次回は、織田長益の大坂の陣でも活躍を紹介します。
活躍というよりも、スパイ活動とか、迷走ぶりが発揮されるわけですけどねw
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