三国志

伊籍は孫権も認めた実力。蜀科を制定させた功績もあるが・・。

2021年4月5日

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宮下悠史

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伊籍(いせき)は、劉備の臣下として外交と内政に活躍した人物です。

伊籍という名前を見ると、トラクターのメーカーを想像してしまいそうですが、ここで登場する伊籍は三国志の人物です。

馬謖は、Mrハイキングの異名があるようですが、伊籍にはMrトラクターと名乗って欲しいと思いました。

劉備が曹操に敗れて荊州に逃げ込んだ時に、劉表の世話になっていますが、その時に伊籍と知り合ったようです。

三国志演義においても、劉備を助けるための助言を与える人物になっています。

尚、三国志正史の伊籍は列伝には収録されていますが、記述は非常に少ないです。

王連あたりもかなり記述は少ないですが、伊籍も負けずと分かっている情報が少ないと言えます。

因みに、三国志演義では馬良を推挙したのが伊籍になっていますが、これは史実ではありません。

三国志演義での伊籍

三国志演義と呼ばれる羅貫中が書いた創作の中では、劉備が荊州にいた時に助けてくれるキーマンとして登場します。

劉備は張武を討伐に行った時に、趙雲が張武を討ち取っています。

その時に、的盧と呼ばれる名馬を手に入れました。

劉備は的盧を、世話になっている劉表に贈ったわけですが、蒯越(かいえつ)が凶馬だと告げます。

それにより劉表は、劉備に的盧を返してしまいました。

劉備に的盧が凶馬だと告げたのが伊籍です。

しかし、劉備は馬で人間の吉凶が決まるわけがないと取り合いませんでした。

後に、劉備は蔡瑁に命を狙われてしまいます。

ここで劉備に、蔡瑁の劉備暗殺計画を告げて、逃げる事を進言したのが伊籍です。

劉備は追っ手を振り切って逃げるわけですが、深い谷に行く手を遮られてしまいます。

劉備は「的盧が凶馬」だと言う事を思い出しますが、思い切って谷を飛び無事に逃げ切る事に成功しました。

後に、孫権との使いなどもありますが、その辺りはほぼ史実と同じです。

三国志演義での、伊籍は正史同様に劉備に好感を持っている人物として描かれているわけです。

ちなみに、この後の的盧は龐統が劉備から借りて、戦場に行った時に、劉璋軍の張任の伏兵に合い龐統は死亡しました。

この時に、劉備は龐統の死を悲しんだと言われていますが、我に返って「的盧は俺以外の奴が乗馬すると凶馬だった」と言ったかは定かではありません。

伊籍は劉備を頼っていた?

正史三国志によると、劉表と伊籍は出身地が山陽郡の人で、若い頃から鎮南将軍である劉表に身を寄せていたと記述があります。

劉備が曹操に敗れて荊州に来ると、今度は劉備に行き来するようになり、劉備を頼ったと記載があります。。

劉備は確かに、中原では呂布や曹操、袁術袁紹などと戦ったり協力したりして名は通っていました。

しかし、荊州に逃げて来た時は伊籍の方が先輩になるわけで、何を頼ったのかは不明です。

むしろ、劉備の方が劉表への対応に頼ったとする方が普通だとも思うのですが・・・。

劉表が亡くなり劉琮が跡を継ぐと、袁紹を官渡の戦いで破り、袁紹が亡くなると袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼした曹操は、南下政策を取り荊州に攻め寄せてきます。

劉表の後を継いだ劉琮は、降伏してしまうわけですが、劉琦(劉表の長男)は劉備らと共に南下しています。

伊籍も劉備に従い南下しています。

曹操が劉備を追撃した長坂の戦いがあり、張飛が殿を務めたり、趙雲が一騎掛けをしたりと見せ場はありますが、実際には住民を引き連れた移動だったために困難を極めていました。

徐庶は、曹操の元に行ってしまいますが、伊籍は最後まで従っています。

それを考えると、劉備に負けず劣らずで、伊籍も逃げ足が速かったのかも知れません。

赤壁の戦いでは、周瑜魯粛の活躍もあり孫権・劉備連合軍が勝利を収めました。

その後、劉備は蜀を取るわけですが、蜀まで伊籍はついて行っています。

劉備が漢中王となると、左将軍従事中郎となり、孫乾・顧雍に次ぐ待遇を受けたと正史に記録があります。

優遇された事は間違いないでしょう。

孫権に評価される

伊籍は、呉の孫権のところに使者として行く事になりました。

伊籍は、呉まで名が通っていたようで、才気ある弁舌家だと孫権は耳にします。

すると、孫権は逆にやり込めてやろうと思ったようで、伊籍が使者としてやってくると、次の様な事を言い出します。

孫権「無道の主君に仕えると苦労するだろう」

すると伊籍は次のように答えたとされています。

伊籍「一度拝礼をして、一度起つだけの事で苦労という程の事ではありません」

常にこの様に回答する伊籍を見て、孫権はいたく感心したそうです。

孫権の方も難問を幾つか考えていたと思うので、伊籍は機転が利く人物だと言う事が分かるエピソードに感じます。

尚、陳寿の書いた正史三国志には、何年の出来事なのか記載がないです。

そのため、何の目的で伊籍が呉に言ったのかは分かりません。

後に諸葛亮鄧芝を呉との関係修復のための使者として送っています。

その時に、孫権はゆで窯を用意して処刑する準備をして待ち受けていた事がありました。

この事からも、孫権に対する外交の使者はやりにくく感じるはずです。

それをそつなくこなし、孫権のお墨付きまで頂いた伊籍は見事と言うべきでしょう。

個人的に、孫権はめんどくさい性格をしている様に思います。

尚、孫権は費禕董恢と共に使者としてやってきた時に、蜀の不仲の代名詞である魏延と楊儀の話を持ち出して来た話があります。

この時は董恢が上手く孫権を言いくるめた事で、事なきを得ています。

伊籍、鄧芝、董恢は孫権の難問に対し、見事に答えたと言えそうです。

蜀科を作る

正史三国志によると、伊籍は諸葛亮、李厳法正、劉巴と共に蜀科を作ったとされています。

蜀科というのは、蜀の法律の事です。

伊籍の最大の功績は、蜀科の成立ではないかと感じています。

ただし、どれ位、関わっているかは不明です。

しかし、呉まで頭の良さは鳴り響いていたようなので、高い能力を持っていて、記載がないだけで活躍もあったのではないかと思います。

内政などは、戦争と違って記録に残りにくい為に、残っていないと思われます。

ただし、蜀科を作ると言っても、ハンコを押すだけだったのかも知れませんが・・。

尚、伊籍の事は、三国志正史には「許麋孫簡伊秦伝 第八」に伊籍伝として掲載されています。

蜀の武将として「許靖麋竺、孫乾、簡雍、秦宓」と一緒に収録されているわけです。

しかし、簡単な略歴しか書いてありません。

そのため、生没年も不明ですし、内容は非常に薄いと言えます。

「許麋孫簡伊秦伝 第八」の大半は、許靖の事で占められていて、孫乾、伊籍はかなり記述が少ないです。

伊籍の能力値について

三国志のゲームにおける能力値ですが、知力や政治力の数値が80を超えるなど高いのが特徴です。

KOEIの初代三国志では、魅力が28というありえない数字でしたが、その後は魅力も高くなっています。

しかし、優れた人物だった事は認めますが、活躍した記録が残っていないわけで、それを考えると評価され過ぎではないかと思います。

ゲームなどでは、蜀漢の武将は評価され過ぎだと、常日頃から思っている次第です。

伊籍は鬱になって死んだのか?

伊籍について思った事ですが、蜀科を作ったわけですが、他のメンバーが諸葛亮、李厳、法正、劉巴だとされています。

諸葛亮は公正であり人間的にまともな様な感じがします。

三国志演義の諸葛亮は魏延を消すために、汚い手も使っているわけですが・・。

しかし、問題なのは残りのメンバーにあるような気がします。

李厳は陸遜にも匹敵する人物とも言われていました。

しかし、後に補給に失敗した責任を諸葛亮に押し付けようとしています。

李厳は皇帝である劉禅にまで諸葛亮の失敗だと上表したほどです・・。

もちろん、李厳は後に諸葛亮に処罰されています。

人に責任を押し付ける辺りは李厳の人間性に問題があると言えます。

法正ですが、軍略や策略についてはトップクラスであり、龐統と同じ伝に収録されており謀臣という扱いですが、恨み深い性格をしています。

劉備に重用されている事をいい事に、過去の恨みを抱いた人物に対して復讐して処刑しているわけです。

それに対して、諸葛亮でも法律に反している事を知りながら、罪に問う事は出来ませんでした。

法正も優秀ではありますが、性格に問題を抱えていると言えるでしょう。

さらに、劉巴は「天下の英雄となら話をするが、軍人と話をする必要はない」といい、張飛が劉巴の元に泊まっても一言も話をしなかったそうです。

劉巴はかなりの頑固者でもあったはずです。

これらの人と蜀科を作るのを命令された、伊籍は頭が痛かった事でしょう・・。

蜀の出身である陳寿は蜀贔屓の記述が多いのですが、伊籍の死を記載しませんでした。

最後を記録しなかった理由が、蜀科を作るのに「メンバーが最悪過ぎて鬱になったから」だったのかも知れません・・。

このメンバーであれば、ありえない話でもないような気がします・・。

別の可能性としては、伊籍は機転が利く事で、個性の強いメンバー間のバランスを取るために、諸葛亮が入れたのかも知れません。

その可能性も高いかなと個人的には思います。

しかし、自分だったら絶対に蜀科の制定には関わり合いを持ちたくはありません。

一緒に働く人の人間性は大事だと思うからです。

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