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鎌倉時代

源行家の史実【270人で2万人に戦いを挑み大敗・・・】

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源行家は、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した武士です。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の父である、源義朝の弟として生まれています。

前回は、戦国時代の武将である小田氏治を紹介しましたが、彼も戦下手が目立つ人物でした(9度城が落城)

しかし、源行家も負けず劣らず、戦下手が目立つのと、さらに270人で2万人戦いを挑むなど、ありえない行動まで見受けられます・・・。

今回は、源行家の史実での生涯を追ってみました。

 

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平治の乱で敗走

先にも話したように、源行家が活躍?した時代は平安時代の末期です。

武士は源氏と平家に二分されていました。

源氏の棟梁である源義朝と平清盛が公家なども交えて、京都で戦いました。

これが平治の乱です。

もちろん、源行家は源義朝の下で戦うわけですが、戦いに敗れて敗走してしまいます。

大将であった源義朝は、敗走している最中に殺されています。

捕まった源頼朝は、伊豆に流されていますし、源義経は奥州に行く事になりました。

源行家は熊野に逃亡しています。

その後、平家は平清盛が太政大臣に就任するなど、栄華を極めています。

平家のうちの一人は「平家であらずんば人にあらず」と本当に言ったのかは定かではありませんが、一族はかなり繁栄しました。

それに比べて、源氏は平治の乱で敗れてからは、悲惨な生活を送っている武士が多かったようです。

しかし、源行家は平家打倒を考えて時期が来るのを延々と待っていたとされています。

ちなみに、その期間は20年とも言われていますw

20年後にチャンスが回ってくるわけです。

平治の乱の時は、若武者でしたが、この時は既に40手前でおっさんっぽくなってきた頃だと思われますw

 

 

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内密に兵士打倒を呼び掛けるもバレる・・。

平家は高官を独占したりしていたので、反対勢力も出てきています。

後白河上皇であっても、一時期は平清盛と協力関係にありましたが、平家と対立したりもしてきているのです。

これを見た以仁王は令旨を出して、源頼政と共に平家打倒に立ち上がろうとします。

挙兵計画を立てたわけです。

この時に、源行家にも命令があり全国の源氏に対して、挙兵するように呼び掛けるように命じています。

熊野にいたわけですが、山伏に変装して、全国を渡り歩き、令旨の内容を伝えるのが源行家の役目です。

この時に、源行家は伊豆まで行き、源頼朝にも挙兵するように促しています。

しかし、この挙兵計画は計画が完全に出来上がる前にバレてしまいます。

一説によると、源行家が山伏になって隠れて活動していたのが、既に平家にばれていたともされています。

つまり、源行家は頭隠して尻隠さず状態だったのかも知れませんw

源行家の行動でバレてしまった事で、以仁王と源頼政は準備不十分の状態で平家に戦いを挑む事になってしまいます。

もちろん、準備不足のために以仁王と源頼政に味方する者は少なく大苦戦してしまうわけです。

源頼政は宇治で防戦しますが、宇治平等院の戦いで敗れて自害しています。

その後、以仁王も藤原景家の軍勢により戦死しました。

もしかしてですが、源行家がもう少し上手に行動して準備をしっかりと行えば、以仁王や源頼政も戦いやすかったのではないか?とは思います。

三国志の司馬懿の様な演技派ではなかったのでしょうw

 

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墨俣川の戦いで奇襲するも見破られて大敗

源行家は、源頼朝に挙兵を呼び掛けた事で、頼朝は挙兵しています。

さらに、源頼朝は源氏の棟梁だった源義朝の子だということを理由に、坂東武者に挙兵を呼び掛けています。

北条氏の助けもあり伊豆を制圧したり転戦しています。

さらに、富士川の戦いでは、平維盛を破る活躍を見せています。

ただし、この時は平氏は戦力が整わずに士気の低い2千の軍勢しかいなかったともされています。

しかし、頼朝軍は4万の大軍を用意していたようですw

それでも、平氏を破った事で源氏の勢いを感じたようで、源行家も尾張や美濃で独自に兵を集めて挙兵を行っているわけです。

さらに、集めた兵士を使って平家と対決を行っています。

この戦いを墨俣川の戦いと呼びます。

墨俣川を挟んだ戦いだったのですが、平氏は3万の軍勢で迎え討ちます。

これに対して、源行家には6千の軍勢しかいませんでした。

平氏の指揮官は、平維盛と平重衡です。

先に頼朝が富士川の戦いで無敵を思われた平氏の軍勢を破っている事から、勢いは源氏にあると思ったのかも知れません。

しかし、兵力は敵の方が5倍以上あるわけです。

ここで源行家は奇策に出ます。敵に夜襲を仕掛けて混乱した所を打ち破ろうとする作戦です。

そこで、兵士の一部を平氏の軍勢の中に忍び込ませる事にしました。

しかし、兵士は墨俣川を渡りビチョビチョの状態だったわけです。

その状態で川を渡った事で、平氏の軍勢からは、怪しまれてしまいます。。。というか、既にその時点で奇襲がバレているわけですw

そうとは知らない、源行家は夜になると果敢に奇襲を仕掛けます。

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しかし、既に奇襲がバレていた事から、源行家の奇襲部隊に平氏の奇襲部隊が攻撃をしました。

その結果、源行家は惨敗した事は言うまでもありませんw

しかし、源行家は諦めません。逃亡して再起を図ります。

 

270人で2万の軍勢に決戦を挑む

源行家ですが、親類である源義仲の配下となり、平家を京都から駆逐する事に成功しています。

これにより源義仲の天下となり、源行家は重臣となり支えるのか?と思ったかも知れませんが、実際には源義仲と対立する事になりますw

そして、別行動を取り始めるわけです。

さらに、単独で平家を攻めたりもしてますが、撃退されています。

なぜ撃退されてしまったかですが、源行家の軍勢は270人しかいませんでした。

それに対して、平氏の軍勢は2万の軍勢で対応したわけですw

平家側の指揮官が平知盛、平重衡でした。平重衡には墨俣川の戦いで敗れているから雪辱に燃えていたのかも知れません。

しかし、270名で2万に攻めたのは、男気があると言うよりは「頭のネジが一本抜けている」ような行為でしょう。

ちなみに、平家物語では源行家の軍勢は、500騎になっていますが、兵数で言えば圧倒的に劣っている事は確かですw

もちろん、予定通りに源行家は負けてしまいます。

しかし、源行家の凄い所は戦死しないところです。戦場を離脱すると、暫く雌伏の時を過ごす事になります。

 

川尻の戦いで勝利するも・・・。

源頼朝の命令で源義経が源義仲を追討する為の軍勢が京都に押し寄せてきます。

源義経は軍事の天才でもあり、源義仲を討ち取り京都を占拠します。

ただし、源義仲は水島の戦いで平家に敗北した事や、京都の治安維持が遅れた事で信頼を失っています。

その事から、義経と宇治川の戦いで対峙した時は、兵数が400騎しかいなかったとされています。

それに対して、源義経、範頼の軍勢は2万5千もいたようですw

そのため、戦いにならずに敗北したともされています。

この時に、源行家は京都にいたようですが、平家追討軍には参加せずに、和泉と河内の当たりを治めていたようです。

源行家が半独立勢力になって近畿地方にいたとする専門家が多数を占めます。

その後、源義経は源範頼らと平氏と戦いを続けて三草山の戦いで勝利をおさめ、奇策を使い一乗谷で平氏の大軍を破っています。

さらに、壇ノ浦の戦いでは平氏の水軍相手に奮戦して、ついに平家を滅ぼす事に成功しました。

京都に帰って来た源義経でしたが、今度は源頼朝と対立していきます。

もちろん、後白河上皇の意向などもあったわけですが、源義経が九州地頭、源行家が四国地頭になった事なども問題になっていくわけです。

その後、源頼朝と源義経の対立が決定的となると、源行家は義経に味方しています。

源義仲を破ったり圧倒的な戦力を誇る平家を破った、源義経の手腕を高く評価していたのかも知れません。

しかし、武士たちは頼朝支持が圧倒的に多く、義経には兵士はほとんど集まりませんでした。

その後、源行家は頼朝側の武士である多田行綱と戦いとなると、珍しく勝ってしまうわけですw

ここで勝ったにも関わらず、「いまさらかよ」みたいなところがあり、時代を動かすような勝利にはなりませんでした・・。

和泉に隠れているわけですが、結局は捕まってしまい、斬首されています。

戦は下手で270人で策もなく2万人に挑むなど、頭がおかしい・・ような所もありますが、憎めない人で惜しい人を亡くしたと思いましたw

義経と一緒に奥州まで行き平氏の軍勢相手に突っ込んで行って欲しかったような気がします。

300人対5万位の対決も見たかったですね・・・。

 

源氏は兄弟での殺し合いが多い

源氏の歴史を見てみると、兄弟や親族での対立が非常に多く、それにより親族が何人も死んでいる歴史があります。

この親族間で争い何名も死んでいる事が、源氏の弱体化を招いたように思えます。

源頼朝が生き残り征夷大将軍に任ぜられて鎌倉幕府を開いていますが、源氏が実権を握っていた期間はわずかです。

もちろん、北条政子の影響や北条氏が執権政治を望んだ事もありますが、親族の少なさは源氏一族を弱体化させたはずです。

これを見ていると、周王朝を成立させるのに活躍した周公旦と太公望呂尚の話を思い出します。

周公旦は親族を大切にして、政治を行うと言うと、呂尚はそれだと弱体化するから自分は能力のある者を高位の立てると言います。

それを聞いた周公旦は、魯(自分の国)は、弱体化するかも知れないが、斉(呂尚の国)は実力者に国を奪われると言っています。

実際に、この通りになり呂尚の国は斉の桓公などの覇者も排出しましたが、後に田常に国を奪われています。

魯は弱体化しながらも長々と続き最後は、春申君時代の楚に滅ぼされています。

国は弱体化しながらも、戦国時代の後期まで長々と生き残っているわけです。

これを考えると源氏の権力闘争は熾烈で、親族がみな死んでしまった為に、滅びるのも早かったように思います。

親族同士で殺し合いをしてしまったのが原因だとも考えてしまうわけです。

しかし、鎌倉時代になっても、源行家のような人物が生き残っていれば、面白い気もしますw

ただし、承久の乱とかで源行家を大将に任じたら、大軍を擁していながらも、後鳥羽上皇に大敗しそうな気もしますけどねw

生きていたとしたら80歳を超える高齢になってしまうわけで、現実味は薄いですが・・・。

しかし、平安時代末期を彩る「面白い男」ではあると思います。

 

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