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周の共和には謎が山積み【史記・竹書紀年・金文】で読み解く

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周王朝には共和という時代がありました。

周の厲王に出奔してしまい首都である鎬京に王が不在という状況です。

厲王自身が亡くなっていないため、次の王を建てる事が出来ずに、代わりの者が執政となり政務を行った時代です。

この時代を共和と言います。

尚、司馬遷の史記にある12諸国年表は共和元年から始まっています。

そのため、共和の辺りから年代がはっきりとして来るわけです。

しかし、年代はしっかりとしてきますが、ズレがあったりまだまだ分からない事が多いのが共和の時代です。

実際に、共和とは何だったのか?史記、竹書紀年、金文などから読み解いてみたいと思います。

尚、上記の画像は金文に書いてあった共和期の文字ですが、自分にはなんて書いてあるのか、さっぱり分かりませんでしたw

周の実力が諸侯を上回っていた西周王朝時代は分からない事が山積みなわけです。

 

関連記事:周の厲王は本当に暴虐だったのか?【中央集権化の失敗?】

 

 

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史記における共和

史記における共和ですが、周本紀に記述があります。

それによると、周の厲王が周公や召公の諫言を聞かずに栄の夷公を重用すると国人が暴動を起こしてしまいます。

厲王に逃亡してしまい王朝に王がいない状態になってしました。

国人は厲王の太子静(後の宣王)も殺そうとしますが、周公が自分の子を見代わりにして差し出した事で太子静は殺されませんでした。

太子静は周公に匿われて時を過ごす事になります。

しかし、王朝の運営はしなくてはいけませんし、厲王は逃亡はしましたが、まだ死んではいません。

そのため、周公と召公が共に和して政治をした事から「共和」と呼ばれた事になっています。

共和の14年に厲王が死ぬと宣王が即位して共和の時代は終焉しました。

これだと宣王は最初は隠れていたけど、ほとぼりが冷めた頃に出てきたと言う事でしょうw

時代が立てば国民の考え方も変わり許される事もあったのではないかと思います。

 

 

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竹書紀年の共和は独裁者がいた?

竹書紀年とは、戦国時代の魏の襄王のお墓から出来た出土品の木簡です。

司馬遷が生きたのが漢の武帝の時代なので、史記よりも200年以上前に書かれた事になっています。

竹書紀年によると、共和は共伯和なる人物が執政を行ったと記録があるわけです。

実力者なる共伯和が政治を行った事で「共和」という名前になったと書いてありました。

現在では、司馬遷の周公と召公が共に政治をした共和よりも、竹書紀年の記録である共伯和の説を取る人が多いです。

竹書紀年は戦国時代魏の歴史書なのですが、成立したのが史記よりも200年も古いと言えます。

そのためか、竹書紀年の方が信憑性が高いという人が多いです

尚、周代に作られて1時資料である金文には師龢父という人物が登場しますが、師龢父が共伯和だと考える専門家もいます。

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共伯和の正体は衛の武公だった

共伯和の正体は衛の武公だとする説があります。

衛の武公は兄を殺害して即位していますが、兄が共伯と呼ばれています。

ここでいう「共」というのが何を指すかは分かりませんが、衛の別名が「共伯」だったのでしょうか?

衛の武公の名前は「姫和」ですから、共伯と姫和で「共伯和」が誕生したのでしょうか?

しかし、衛の武公が即位した年代は共和の後です。

共和の初年に衛の武公が20歳だとすると、死亡した年齢が104歳になる事から現実味が薄いような気がします。

私程度の頭脳では及びもしないような、想像を働かせた人がいて考えたのかも知れませんが、私は衛の武公を共伯和にするのは無理があると思いました。

尚、衛の武公は兄は殺害していますが、周の東遷などにも活躍した優れた君主です。

「こんな事いう君主見た事ねえぞ!」と言えるような人物だと言えます。

話しがずれますが、私も人に仕えるのであれば衛の武公がいいと思いましたw

 

関連記事:衛の武公は諫言を好んだ名君【この上司が欲しかった】

 

金文の中の共和

金文の中ですが、共和という時代があった事は確かなようです。

金文は共和の時代に作られた当時の資料として価値があります。

1時資料なので金文が一番正しいとも私は考えています。

それによると、史記とも竹書紀年とも違った点がみられます。

共和と言うのは、前期・中期・後期で執政者や軍権を握っていたのが違う人物のようです。

前期は、師龢父が執政の位にあり、中期は師詢、後期は毛公なる人物が実権を握っていたようです。

前期の執政者である師龢父が共伯和の事だという人がいます。

しかし、師龢父が共和の時代の中で死亡した記述も金文には残っているわけです。

それを考えると、共伯和が治めたのは前期のみで、中期と後期は師詢と毛公が治めた事になります。

このように金文だと史記や竹書紀年とは違った人物が治めていたようなのです。

私は個人的には一次資料である金文が正しいと思うのですが、3人の人物が共和の前期・中期・後期で治めたのであれば、「共和」の名前の由来はどこから来たのでしょうか?

このように共和の時代は大変謎が多い時代です。

しかし、周王朝の危機は感じていたようで、そういう記述が金文にも見えます。

周王朝の利権を得ている人たちにとってみれば、周王朝の衰退は危機を感じていたのでしょう。

 

関連記事:究極のオオカミ少年・周の幽王【西周王朝の滅亡】

 

共和の記事を書くにあたって

ちょっとした愚痴になってしまうのですが、共和の記事を書くのに非常に苦労しましたw

内容が苦労したわけではありませんが、漢字に苦労したわけです。

特に師龢父の「龢」の字はなんて読むのでしょうか?

この文字を探すのに非常に苦労してしまいました・・。

途中で共和の記事を書くのを辞めようと思ったほどですw。

尚、白川静先生の金文の本を読んで、金文のところは参考にしたのですが、読みにくいものが多く理解するのに苦労しました・・・。

ちなみに、周の共和や西周については記事の需要が少ないと思われます。

それにも関わらず、この労力は割に合わないとも感じましたw

それでも、また勉強して書いてみたいと思います。

 

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