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呂不韋の最後と子孫は秦を滅ぼし帝王となる?

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呂不韋は商人から秦の相国となり最高権力者となりました。

しかし、呂不韋は嫪毐の乱で連座して失脚してしまいます。

その後の、呂不韋の最後や子孫についてのお話しです。

尚、三国志の呂布は呂不韋の子孫だと勘違いしている人もいますが、実際には性が同じだけで無関係です。

呂布に「い」の文字を着ければ呂不韋になるだけに、残念に感じた人もいるかも知れませんね。

呂不韋の子孫は、秦末期にも生きています。

さらに、呂不韋の子孫は帝王にもなっているわけです。

 

関連記事:嫪毐(ろうあい)の乱と呂不韋の失脚・趙姫の最後を解説!

 

 

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呂不韋は相国を剥奪される

嫪毐(ろうあい)が乱を起こして鎮圧されると、呂不韋も連座して失脚してしまいます。

ここにおいて相国の身分も失ってしまいます。

普通であれば呂不韋は処刑されてもおかしくありませんでした。

しかし、呂不韋は秦王政の父親である荘襄王を秦王にしたキングメーカーでもありますし功績も絶大なるものがあったわけです。

さらに、呂不韋は諸侯でも名が通っていますし、賓客たちは呂不韋を処罰しないように、秦王政に嘆願します。

秦王政も呂不韋を処刑する事は出来ずに、河南で蟄居する事になりました。

 

呂不韋の最後

呂不韋は蟄居中にも関わらず多くの名士が呂不韋の元を訪れたりしていたわけです。

これに秦王政は権力の座を再び奪われるのではないかと考えて恐怖を覚えます。

呂不韋の事をかつては仲父とも呼んでいたわけですが、ここにおいて嫌がらせとも取れる手紙を呂不韋に送り付けます。

「君(呂不韋)にどのような功績があって、秦は河南で10万戸を授けたのか。家族と共に蜀へうつれ」

この様に命令しています。

呂不韋は秦王政の命令に従って、蜀に移りますが、秦王政が呂不韋の権勢を根こそぎ奪い排除することに気が付きます。

それに絶望したのか蜀に行く道中で呂不韋は自殺しています。

尚、呂不韋の家族の大半は蜀に移り住んだようです。

 

 

 

呂不韋における出処進退

呂不韋を見ていると荘襄王を「奇貨居くべし」と考えて、キングメーカーとなり莫大な富を築いたわけです。

しかし、出世すると権力闘争もありますし、危険な面もあるわけです。

出る時は出る引くときは引く事を出処進退を呼びますが、歴史上でも名宰相とか名臣と呼ばれた人でも出処進退に失敗した人は多いです。

呉起は、楚の悼王が亡くなると貴族によって殺されていますし、秦の商鞅も孝公が亡くなると恵文王や貴族たちに殺されてしまいました。

越の文種も句践を覇者にするのに功績がありましたが、自殺させられています。

しかし、全ての功臣が殺されたわけではなく、秦の范雎は昭王が生きている間に権力を返上してしまい天寿を全うしています。

他にも、越の范蠡も主君である句践が覇者になると、大臣をやめて商人になっています。

范蠡は政治家から商人となり、商人から政治家になった呂不韋とは反対のパターンです。

呂不韋も范蠡を見習って、権力があるうちに引退して商人に戻った方が良かったのかも知れません。

それか悠々自適の生活を目指すのもよいでしょう。

歴史上を見ても最後を全うした人物は意外と少ないです。

劉邦の元で活躍した武将なども多くは、処刑されているわけです。

呂不韋を見ても引くときにひかなかった事が、最後の最後で災いを呼んだとも言えそうです。

尚、粛清される前に、見事なボケ老人の演技で逆に権力を奪ってしまった司馬懿の様な人物もいます。

それを考えれば、呂不韋や嫪毐は司馬懿になれなかったと言えそうです。

しかし、呂不韋は一介の商人から秦で最も尊貴な大臣になってしまうわけですから、傑物と言えるのではないかと思います。

確かに、司馬遷の評価したように「有名だが行いが芳しくない人物」とも言えそうですが、傑物ではないかと私は感じています。

 

関連記事:司馬懿は悪なのか?それとも正当防衛?【曹爽を出し抜く演技】

 

劉邦の嫁呂后は呂不韋の子孫です。

呂不韋の一族は秦王政の命令により蜀に住み着きました。

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しかし、ずっと蜀にいた人もいれば離れた人もいるようです。

秦王政は6国(韓・魏・趙・燕・楚・斉)を滅ぼして天下統一を成し遂げます。

しかし、強引な政策が反動となり、始皇帝が崩御するとわずか4年で滅亡してしまいます。

秦の都を落としたのは武関から秦に攻め入った劉邦です。

この劉邦の妻を呂雉と呼ぶのですが、これが呂不韋の子孫です。

秦を完全に滅ぼしたのは項羽(項燕の孫)ですが、秦の都を制圧したのは劉邦なわけです。

これを考えれば間接的ではありますが、秦を滅ぼしたのは呂不韋の子孫だとも言えます。

歴史の因果を感じるところです。

 

呂不韋の子孫が帝王になる?

劉邦は楚漢戦争において項羽を破り漢の皇帝となります。

その後、劉邦は亡くなるのですが、劉邦が亡くなると呂雉が政務を見るようになります。

呂后は劉邦に気に入られていた戚夫人なども含めて次々に粛清していきます。

劉邦の他の女性に産ませた子であっても、容赦なく罪を問い粛清を行っているわけです。

そして、呂氏の一族を王位につけたりして高官を独占しようとしたりもしました。

実際に、皇帝は呂后の息子である恵帝なのですが、司馬遷は実質天下を運営しているのは呂后だと判断しています。

そのため、劉邦の高祖本紀の次が恵帝本紀ではなく呂后本紀となっているわけです。

しかし、余りにも過激に粛清してしまったせいか、恵帝は病んでしまい死亡してしまう事になります。

その後、後宮の女性に恵帝に子がいた事にして傀儡の皇帝を擁立したりもしています。

この頃の漢の宮廷はかなり乱れていました。

呂后が政務を執っているわけですから、ある意味、呂不韋の子孫が天下を取ったと言えるでしょう。

しかし、呂后が死ぬと劉邦時代の功臣である陳平や周勃が立ち上がり劉氏に実権を戻しています。

皇帝には劉邦の子である劉恒(文帝)が即位しました。

劉恒の父親は劉邦ですが、母親は薄氏ですので、呂后との血のつながりはありません。

そのため呂不韋の子孫である呂后は一代だけの女帝だと考えるべきでしょう。

尚、呂后の政治ですが宮廷では粛清などがあり功臣たちには嫌われていたようですが、司馬遷によると宮廷の中でずっと揉めていたため、庶民は平和だったとあります。

呂后は大臣達には嫌われて人民には好かれた人だったと言う事なのでしょう。

 

三国志時代の呂凱も呂不韋の子孫

三国志の時代に蜀に仕えた呂凱も呂不韋の子孫です。

最初にも言いましたが、呂不韋の子孫が呂布ではありません。

呂凱は諸葛亮からも信頼されていましたし、道理を守った人物とも評価されています。

「有名だけど内容が芳しくない」と評価されている呂不韋とは大変な違いですねw

呂凱は諸葛亮の南征でも活躍したりしています。

しかし、最後は諸葛亮が帰還後に南蛮の反乱により命を落としています。

呂凱が亡くなると子の呂祥が跡を継いでいます。

 

呂不韋について

呂不韋は終わりが良くなかった為に、好きだという人は少ないように思います。

キングダムでは大物ではありますが、どこか胡散臭い部分も見え隠れするように感じました。

貨幣を重視している辺りが、そのように見えてしまうのかも知れません。

しかし、呂不韋は奇貨居くべしとあるように、目利きが凄く利く人物だと思っています。

呂后の父親である呂公は劉邦を見た時に「必ず凄い人物になる」と予言したそうです。

これもある意味、呂不韋譲りの人物鑑定術だったのではないでしょうか?

呂后の代で天下を運営したのも、ある意味、当然の成り行きだったのかも知れません。

尚、漢の恵帝は呂后の子ですので、呂不韋の子孫は皇帝になった事は間違いないです。

ちなみに、キングダムの有名どころでは、司馬尚と李信の子孫は皇帝になっています。

 

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