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呂不韋の子が秦王政だとする説が存在しています。
実際に史記を書いた司馬遷は、秦王政が呂不韋の子だとしています。
実際には分からない部分も多いわけですが、呂不韋と秦王政(始皇帝)の出生の秘密についてのお話しです。
尚、結論で言えば確かに、秦王政と呂不韋は血のつながった親子の可能性もあります。
キングダムでは、その事についてはボカしたような言い回しで呂不韋が語るシーンがあるのは興味深いところです。
下記の記事は、秦王政の父親である異人がどのようにして、秦の太子になったのかのお話です。
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趙は異人を帰国させなかった
秦の太子である公子柱の正夫人である華陽夫人の養子となった異人は、秦の後継者に指名される事になりました。
呂不韋としては、公子柱に趙で死なれては困りますし、趙を説得して秦に帰国させようとします。
しかし、趙の首脳部は異人は趙にいた方が利益になると考えて帰国を許しませんでした。
秦で政変などが起きたりすれば、異人は秦王になれない可能性もあり呂不韋としてみれば地団太を踏んでいたはずです。
呂不韋の妾を異人が欲しがる
趙で呂不韋と異人は暮らしていたわけですが、ある日、呂不韋の妾を異人が気に入り「自分に欲しい」と言い出します。
呂不韋としては、妾の事を大そう気に入っていたようで、内心怒りを覚えたようです。
しかし、ここで断ってしまうと、「奇貨居くべし」の計画が台無しになってしまいます。
そこで、嫌々ながらも妾を異人にくれてやったわけです。
この妾が産んだのが、秦王政(後の始皇帝)です。
ちなみに、キングダムでは呂不韋と妾の関係は許嫁だった事にしてあります。
尚、呂不韋の妾の事を趙姫と呼びます。
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秦王政は呂不韋の子供なのか?
史記の司馬遷の説だと、呂不韋が異人に趙姫を渡した時に、既に妾は妊娠していて呂不韋の子だと言うのです。
この司馬遷の説が正しい事になれば、秦王政は秦の血筋を引いてない事になります。
さらに、呂不韋との関係は血を分けた親子となるでしょう。
他にも、呂不韋と趙姫は、この後も不倫の関係を続けているわけです。
これを考えれば、秦王政は呂不韋の子であっても不思議ではありません。
ただし、秦王政に取ってみれば自分は秦の正当な後継者だと主張したい為に反目するでしょう。
実際に、この事を秦王政は知っていて、自分の出生が生涯のコンプレックスだったともされているわけです。
しかし、本当に呂不韋の子が秦王政なのかは、実際のところ調べようがないでしょう。
尚、楚の春申君も自分の妾を孝列王に献上しています。
そのため、楚の幽王や哀王などは春申君の子だとする説を司馬遷は採用しています。
司馬遷の何らかの性格の問題もあり、こういう噂を拾うのが好きだったのかも知れません。
余談になりますが、司馬遷は呂不韋の事を「有名だが行いが芳しくない人物」と評しています。
この有名だが行いが芳しくないと言うのは、趙姫との不倫を続けるなどの行為を指したと思われます。
呂不韋は呂氏春秋を完成させるなど、当代一流の文化人でもあります。
そのため、呂不韋としてみれば「不倫は文化だ」と叫びたかったのかも知れませんw
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秦王政は趙が嫌いだった
秦王政が生まれる少し前に、長平の戦いが勃発しています。
関連記事:長平の戦いを完全検証してみた!
秦の白起将軍の前に、趙の趙括は大敗し40万人を生き埋めにされているわけです。
この時は、蘇代が秦の宰相である范雎を巧みに説き講和に成功しました。
しかし、翌年に秦は趙の都邯鄲を囲みます。
この時の趙は滅亡寸前の危機に立たされていました。
趙の民衆は食べる物に困り近所の子供同士を交換して、殺してしまい人を食料として食べた記録も残っているくらいです。
趙はここまで秦に苦しめられてしまうと、秦に対する怒りはさぞかし酷かった事でしょう。
この時に、邯鄲で生まれたのが秦王政です。
趙の国民の怒りは異人や趙姫・秦王政に向けられたようで、かなりの虐めや嫌がらせがあったようです。
後に、秦王政は王位につき趙を滅ぼすわけですが、自分の家に危害を加えた家を許す事はしませんでした。
邯鄲での辛い思いがあったから今がある。とは考えずに、自ら邯鄲に乗り込み自分の家族に対して危害を加えた者は徹底的に探し出して絞殺したようです。
三国志の公孫度の例もありますが、人に恨みを買うような行為をすると後で何をされるか分かりませんね・・・。
呂不韋が異人を秦に送る
秦が趙の邯鄲を容赦なく攻めた事で呂不韋としては心配でなりませんでした。
ここで趙の住民や王侯貴族が怒り異人を殺すような事があれば、呂不韋の今までの苦労が水の泡になるからです。
呂不韋は、この状況下では家族全員を秦に送り届ける事は不可能だと考えます。
しかし、異人一人であれば可能かも知れないと考えて、門番を買収して秦の陣に異人を送り届けています。
さらに、異人の家族は趙の富豪にお金を払い迫害を逃れさせたようです。
ここにおいて、異人は秦にたどり着き華陽夫人と対面して気に入られたようです。
この時に、異人という名前を子楚と改めています。
しかし、子楚が秦に行った事で呂不韋と趙姫はラブラブの生活に戻った可能性もあるでしょうw
この辺りも司馬遷のいう「有名だけど行いが芳しくない行為」になるのかも知れません。
ちなみに、秦は邯鄲を包囲したわけですが、平原君が毛遂の活躍もあり信陵君や春申君の援軍を呼び寄せたりしています。
さらに、平原君は全財産を投げうったり李同の決死隊の活躍もあり邯鄲は落城を免れています。
呂不韋も簡単に権力を握ったわけではない
呂不韋は「奇貨居くべし」で異人に目を付けた事で苦難もなく秦の相国になったと思っている人もいる事でしょう。
しかし、実際の呂不韋を見ると、邯鄲が囲まれてしまったり、愛妾を異人に渡さなければならなかったりと苦難がある事が分かります。
自分が呂不韋であったならば、とっくに諦めていた事でしょうw
呂不韋としてみれば、かなりストレスが溜まっていて、趙姫との最後の夜にはかなり頑張ってしまったのかも知れません。
その頑張りで出来た子が始皇帝の可能性も無きにしも非ずですw
ちなみに、秦の昭王が死ぬと孝文王が立ち子楚は太子になっています。
さらに、孝文王は3日で亡くなり子楚が荘襄王として即位する事になります。
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