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公孫度の復讐劇!!三国志の第4の勢力を作った男

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公孫度は知名度は低いですが、三国志において第4の勢力を作り出した男でもあります。

三国志と言うと、魏・呉・蜀となりますが、実際には第4の勢力として遼東を拠点とした公孫氏の勢力があるわけです。

その第4の勢力を作ったのが、公孫度です。

どの様にして、第4の勢力を作り上げたのか解説します。

尚、余談ではありますが、公孫度の一族が卑弥呼だという説もあります。

他にも、公孫度と公孫瓚は共に北方で活躍した為に、血縁者などの関係があるのか?と気になる人がいるようですが、特に関係はありません。

公孫という性は、春秋戦国時代の○○公の孫だった場合に、多くつけられている性で血縁に関係なく当時は多くみられる性だったわけです。

 

関連記事:卑弥呼は公孫度の親戚なのか?【晋書の邪馬台国の記述を検証】

 

 

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出身地の遼東では虐められていた・・。

公孫度の出身地は、中国の北東に位置する遼東です。

中国でもかなり隅の方が出身だと言えます。

公孫度は遼東が出身なのですが、父親が問題を起こしたのか事件に巻き込まれたのかは分かりませんが、公孫度の一家は隣の郡に引っ越しています。

出身地である遼東では嫌がらせを受けたりして、虐められていたようです。

後に、公孫度の子である公孫康を遼東で出仕させた時は、大した役職に就かせなかった県令の公孫昭には大そう恨んでいたようです。

しかし、公孫度を虐めた連中は後に酷い目に合うわけですw

因果応報という奴なのでしょう。

 

隣の郡では重宝される

隣の郡に移ると人生が好転し始めます。

そこを治めていた人物が、公孫度を見ると死んだ息子にそっくりだと言うのです。

さらに、死んだ息子の名前が公孫豹だったわけですが、公孫度の幼名が「豹」だった事もあり運命の出会いを感じたのか、大いに気に入られています。

公孫度に学問を学ばせて、成人になると妻を娶らせています。

さらに、有道(道徳観に優れたものを推挙する仕組み)を使い尚書郎となり、さらには冀州刺史にまでなっています。

その後、なぜか罷免されてしまうわけですが、董卓配下の徐栄が公孫度を遼東太守に推挙します。

董卓軍で言えば呂布と並ぶほどの名将である徐栄が推挙した事で見事に官に返り咲く事が出来ました。

しかし、遼東の地は公孫度は恨みを持っていたわけです・・・。

 

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粛清の雨が降る

公孫度が遼東の太守になると、最初にやった事が憎き公孫昭を捕らえる事です。

息子の公孫康に対して役職に就かせなかった事で、元の県令である公孫昭を恨んでいたわけです。

理由もなく公孫昭を捕らえて、市場に引きずり出し鞭で打って撃ち殺してしまいました。

さらに、小さい頃に自分の家族をないがしろにした田韶も過度に法律を適用して処刑しています。

遼東の人々は、逃げた公孫度が太守になって帰って来た」と軽く見ていたわけですが、公孫度の行動に恐怖します。

さらに、公孫度の処罰は留まるところを知らずに、次々に豪族や権力者などを処刑していきました。

処刑する時は、妻子や親せきなど一族を処刑してしまった為に、処刑された家が数百家あったとされています。

 

遼東をまとめ上げ独力で異民族と戦う

こういう粛清を行ったりすると、多くの人に恨まれてしまい最後は殺される事も多くありますが、公孫度の場合は徹底的に殺してしまった為に復讐もされなかったようです。

この徹底的に処罰する公孫度のやり方に対して、不平分子は鳴りを潜める事になります。

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公孫度は遼東を徳に力ではなく、武力によって治めたわけです。

しかし、この公孫度の政策が上手く行ったのか民をまとめる事に成功しています。

さらに、朝鮮半島北部で勢力を張る高句麗を破り、さらに鳥丸、鮮卑などの異民族も討伐しています。

これには中央の力を借りずに遼東の郡の兵士だけで撃破している事から、公孫度が兵法も備えていた事が分かります。

高句麗、鮮卑、烏丸を独自で破った事で、公孫度の武名は中国全土に知れ渡りました。

 

公孫度が独立勢力となる

公孫度の武名が鳴り響いた頃に、中原の地では群雄割拠状態となります。

曹操や袁紹、袁術、呂布などが割拠した状態です。

この時に、公孫度の周りで奇妙な現象が起きたりします。

襄平県の延里という場所に、大石が突如現れて、さらにその下を見ると小さな石が3つあったとされています。

公孫度の父親の名前が公孫延だったのですが、父親の名前と同じ県に、大石と小石3つですから、公孫度が王となり小さな小石は三公(王朝の高位)を指すと考えられたりしたわけです。

劉虞は公孫瓚に斬られてしまうわけですが、生前に袁紹により皇帝になるように要請された事がありました。

 

関連記事:劉虞が公孫瓚に破れた衝撃の理由【徳に溺れたから??】

 

こういう時にも、吉祥が現れたように、公孫度の場合も吉祥が出たわけです。

これに気を良くした公孫度は独立を考えるようになり、「遼東侯」「平州牧」を名乗りました。

これにより独立国となったわけです。

ちなみに、曹操は最初に武平侯となり魏公となり魏王となりました。

公や王に比べると格下になりますが、公孫度は侯国を建国したわけです。

曹操は後漢の丞相となりますが、公孫度を永寧郷侯・武威将軍に任じています。

しかし、曹操から届けられた印綬を武庫の奥にしまいこんでしまったようです。

公孫度としては、独立王国だと思っていたようで、他人に任命されるのを嫌がったのでしょう。

実際に、公孫度は実力もあったので国はよく治まり幽州や山東などから住民が多く遼東に移住してきた話も残っています。

公孫度が建国した国は、公孫度が死後も続きました。

そのため、歴史の専門家によっては三国志ではなく「四国志」が正しいという人もいます。

ただし、公孫度の孫の代に公孫淵が司馬懿に討伐される事で遼東王国は滅亡しています。

それを考えれば三国志で十分かなと私は思っていますw

 

いじわるされた人に成功した時に感謝するは嘘なのか・・。

公孫度を見ると昔、いじわるされた人に対して徹底的に仕返しを行っています。

よくビジネス系のセールスレターを読むと、〇〇さんには虐められたけど、成功した後は感謝している。みたいなストーリーになっている事があります。

歴史を見ると、虐められた人に感謝するという行動に違和感を感じるわけです。

例を挙げると、公孫度は公孫昭に復讐をしていますし、春秋戦国時代の范雎は過去に魏斉によって便所に捨てられた事を根に持ち秦の昭王の力を借りて執拗に首を魏斉の首を求めています。

日本の徳川家康は人質時代に孕石主水なる人物にいじめを受けています。しかし、数十年後に戦いで孕石主水を捕らえると、さっさと切腹させているのです。

張儀なども、恨みがあった楚の宰相に対して怒りの檄文を送っています。

これを考えると、人間は恨みを持った人間に対しては、自分が有利に立った場合は復讐する場合が多いようです。

そのため、人には恨みを買うような行動には気を付けたいところです。

公孫度の場合で見れば、恨みを買った人物に対しては徹底的に弾圧している事が分かります。

歴史上でも、つまらない恨みを買ったばかりに復讐されて殺されてしまった人は少なくありません。

 

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