春秋戦国時代

王賁の史実の実績と子孫【名将と言うにはインパクト不足?!】

2021年3月12日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

王賁(おうほん)はキングダムでは李信や蒙恬と切磋琢磨する若き将軍として描かれています。

李信が叩き上げの武将に対して、王賁は名門出身という事もあり性格の違いも数多くあります。

しかし、父親である王翦とは、どこか上手く行っていない様にも感じるわけです。

今回はキングダムでも主要キャラでもある王賁の史実での実績や子孫なども紹介します。

ちなみに、「王」という姓は王様の王でもあります。

王賁は周の霊王の子孫でもあり、先祖はれっきとした王族です。

キングダムの作者もその事を知っていて、名門意識の高い人物として描いているのでしょう。

尚、王賁の子孫での有名どころは3日天下で終わる王允となります。

余談ですが、王賁が初めて歴史に登場するのは、燕王喜を攻めるところですが、実際には鄴攻めなどから参加していたのではないかと思っています。

王賁は王翦の息子である

王賁の父親は、知っている人も多いかと思いますが、王翦です。

王翦は春秋戦国時代の最後を飾る名将と言ってよい人物でもあり、項燕を破った事でも有名です。

ただし、史実での王翦は始皇帝の猜疑心を解くためとは言え、「何度も土地をおねだりする」などの行為も行っています。

しかし、そう言った行為が実を結んだのか、秦の始皇帝にも王翦や王賁は粛清もされていません。

尚、王翦はキングダムで廉頗「勝つ戦い意外に興味がない」と言っているように、生涯に渡って無敗を貫いたような人物です。

実は、史実を見ると王賁も特に戦いに負けたような記録がありません。

李信や蒙恬が項燕に大敗しているのに、王賁は特に失敗もしていないわけです。

父親譲りの安定した兵法を持っていたのが、王賁なのかも知れません。

燕の首都を陥落させる

紀元前227年にの太子丹は荊軻を刺客とし、秦王政を暗殺しようとしますが失敗に終わりました。

秦王政は刺客を送り付けた燕に激怒し、王翦と辛勝に命じ、燕に軍を向ける事になります。

後の事を考えれば、この軍の中に王賁がいた事は、ほぼ間違いないでしょう。

秦と燕の軍は易水の西で戦いとなり、秦軍が勝利しました。

史記の始皇本紀の秦王政の21年に下記の記述が存在します。

※史記 始皇本紀より

二十一年 王賁が薊を攻撃した。

秦は王翦の軍を増援し燕の太子の軍を破り、薊を取り太子丹の首を得た。

上記の記述を見ると、王賁が燕の首都である薊を攻撃した事が分かります。

父親の王翦が秦全体での総大将でしたが、息子の王賁に薊の攻略を任せたのかも知れません。

王翦としても息子である王賁に失敗して欲しくはないと考え、易水の戦いで軍が壊滅状態になった燕軍との薊攻略は、王賁に軍を任せるには打って付けの戦いでもあったはずです。

この時に王賁は薊攻略に成功し、燕王喜は遼東に逃亡しました。

秦王政に荊軻を送り付けた燕の太子丹は、李信に討たれたとする話も残っています。

楚を攻撃

史記の白起王翦列伝によると、の首都薊を陥落させた後に、王翦は帰還したとあります。

王翦は燕を攻略した後に、秦の首都である咸陽に戻ったという事なのでしょう。

この時に王賁が王翦と共に、咸陽に一旦戻ったのかは不明ですが、次の記述が存在します。

※史記 白起王翦列伝より

秦は王翦の子である王賁に荊(楚)への攻撃を命じ、荊の兵を破った。

上記の記述から王賁がに侵攻し、楚軍を破った事が分かります。

この後に王賁は帰還したとありますが、個人的には燕を討った兵を用いて、楚の辺境を討たせた様に感じています。

大規模な戦いにはなりませんでしたが、王賁が楚軍を破ったという事なのでしょう。

燕の首都薊を落し、楚軍も破った事で王賁は秦の首脳部から信頼を得たとも感じています。

尚、この後に秦王政の前で王翦と李信が楚討伐の話で、最終的に王翦が60万の兵が必要だと答え、受け入れられず引退した話があります。

それを考えると、王賁が楚を攻撃したのは、楚の出方を伺うという意味もあったのでしょう。

王賁は咸陽に帰還しますが、休む間もなくを攻撃する事になります。

魏を滅ぼす

王賁の史実での最大の見せ場と言えるのが、魏を滅ぼすところではないかと思います。

歴史小説家である宮城谷昌光さんは戦国時代はと魏の戦いだとも言っていました。

実際に、戦国時代を通して秦と魏は激闘を繰り返しているわけです。

戦国時代の初期は西門豹呉起、李克、楽羊などを擁するが優勢でしたが、秦の孝公が商鞅を宰相とし法治国家の道を歩むと秦が優勢になっていきます。

信陵君合従軍を率いて秦を攻めた時は、秦は大敗しましたが、信陵君の死後は秦が圧倒的に優位に立っています。

戦国時代の秦と魏の戦いに終止符を打ったのが王賁です。

王賁は、魏の首都である大梁が力攻めでは落とせないと見ると、水攻めを行い大梁の城を破壊しています。

城が壊れた事により魏王假を降伏させる事に成功して、魏を滅ぼしています。

水攻めが使える辺りは、武芸に秀でているだけではなく知力も高かった事がよく分かります。

王賁と言えば王翦の陰に隠れているイメージがありますが、史実では単独でも魏を滅ぼしているのです。

さらに、燕、楚、、代などを滅ぼすのに李信や蒙恬などと活躍もしています。

王賁、李信、蒙恬の3人で斉王建を降伏させた事で、秦の天下統一は達成される事になります。

王賁が生きていれば秦を救う事が出来たのか?

王賁の最後ですが、どのように死んだのかは分かっていません。

最後の記録がを滅ぼして天下統一し、2年後の紀元前219年に通武候に封じられたという事だけです。

史記の白起王翦列伝ですと、秦始皇帝(秦王政)が亡くなるよりも先に死んでしまった事が分かっています。

そのため陳勝呉広の乱や楚漢戦争に関しては一切登場はしません。

もし、王賁が生きていたら秦を救えたのか?という事を考えてみましたが、秦は王賁が生きていても滅亡したと思われます。

王賁の息子の王離項羽に敗れるわけですが、父親である王賁が項羽と戦っていたら、どちらが勝っていたかは分からないでしょう。

ただし、当時の秦の宮廷では趙高が暴政を行っていた為、蒙恬、蒙毅李斯などの功臣は粛清されていますし、王賁が生きていたとしても粛清された可能性もあります。

別の見方をすれば、王離は趙高や二世皇帝胡亥に粛清された事実はありません。

父親である王翦の処世術を学んだとすれば、王賁は趙高とも上手くやった可能性もあるでしょう。

趙高が実績があり名門である王賁を生かしておくのかも一つのポイントとなります。

王翦が始皇帝の疑心暗鬼を上手くかわした様に、王賁も趙高の疑心暗鬼を上手くかわす事が出来れば、その後の展開も変わって来るかも知れません。

蒙恬は兵士を率いていながらも反乱を起こさずに亡くなってしまいましたが、王賁が生きていて兵権を握っていれば反旗を翻す事も考えられます。

ただし、王翦は始皇帝に諫言をしなかった様に、王賁も諫言を行う様な事は無かった様に思います。

そういう記録がないからです。

それを考えれば、王賁が反旗を翻す可能性は低いと言えそうです。

しかし、王離は趙の張耳が籠る鉅鹿を落とせませんでしたが、王賁だったら落とす事は出来たのかも知れません。

尚、王離が敗れた後に、秦の最後の名将ともいえる章邯は楚の項羽に降っています。

因みに、始皇帝がまだ生きている時代に、長男の扶蘇を蒙恬に預けましたが、王賁が健在であれば扶蘇を王賁に預けた可能性も残っている様に思います。

王賁の子孫はどうなったのか?

王賁の息子は王離です。

王翦・王賁の親子は項燕や昌平君などを滅ぼしを滅亡させています。

しかし、その倒し方が酷かったのか、楚人にはかなり恨まれたようです。

楚の言葉で「楚は例え3家になろうとも秦を滅ぼすのは楚なり」とあります。

如何にして、楚人が秦を嫌っていたかが分かります。

楚の項羽と秦の王離が激突する時に、「王離は名将だから楚はすぐに破れるに違いない」と言った人がいます。

しかし、別のある人は「決して、そうはならない三代に渡って将軍に任命されると殺した人数が多い、子孫に報いが来るのが普通だからだ。王離はもう3代目だから必ず敗れる」と予言しています。

この予言が的中して、王離は項羽が攻めてくると武装度や兵の質などが圧倒的に優位にも関わらず項羽に敗れ去っているのです。

孫の代の戦いでは、項家に王家は大敗しました。

王離は項羽に敗れてから歴史から姿を消しますが、子供が二人いて、子孫は琅邪王氏や太原王氏となり名門として続いたようです。

尚、秦の将軍で「王姓」は、王騎、王陵、王齕などがいますが、王賁との関係は不明です。

三国志にも登場する王賁の子孫

三国志で王允を知らない人は少ないのではないかと思います。

呂布を上手い具合に抱え込み、董卓を排除した事でも有名です。

ただし、董卓の残党である李傕郭汜に攻められて歴史から姿を消しました。

王允は三国志などでは国を憂える忠臣と考えている人もいるようですが、実際には傲慢な人物でもあったようです。

王賁の頃からの名門意識の高さが続いていたのかも知れません。

三国志の時代に魏が司馬懿がクーデータを起こし実権を握った時に、反乱を起こそうとして失敗した王凌も王賁の子孫です。

こうしてみると、王賁の子孫も歴代王朝に使えたりしてしぶとく生き残っているわけです。

子孫になると、文官になりイメージが違ってきますが、昔から名門の一族として認識されていたのでしょう。

王賁は名将なのか?

最後に王賁が名将と言えるのかですが、私が思うに名将とまでは言えないというのが答えです。

凡将ではないけど、名将とまでは行かないと思っています。

理由ですが、を滅ぼしたりなどを滅ぼすのに活躍していますが、これらの国々が既に弱体化しているような状態だからです。

魏を滅ぼしたのは、間違いなく王賁の実績です。

しかし、魏と秦の国力の差を比べてみると、軽く10倍以上離れていると思うからです。

秦は戦国七雄を滅ぼした時点で、秦は既に天下の半分を手中に収めています。

魏とは国力が違い過ぎるからです。

さらに、魏は信陵君が死んだ後に、蒙驁が攻めて魏の東部を奪った事になっています。

秦から見て魏は東にある国です。

東にある国の東部を奪うと言う事は、魏の大半を秦の領土にしてしまった事を意味します。

その後、春申君主導の合従軍が秦の函谷関を攻めていますが、敗れています。

最後の合従軍となる函谷関の戦い龐煖が主導した蕞の戦いは、秦の勝利であり合従軍の負けです。

ここでも魏は何の戦果も挙げられずに国力を落とした事でしょう。

函谷関の戦い以後に秦は韓、趙、燕を討っていますが、ここでも魏は介入する事もなく傍観する事しか出来ませんでした。

王賁が魏を攻めた時は、国としては風前の灯火だと思えたからです。

滅亡寸前の国々を滅ぼしても名将とは言えないと私は考えています。

さらに、廉頗が5倍の兵力を誇る燕軍を破ったり、白起の長平の戦いのように40万人を生き埋めにした。王翦のように60万の兵力を使ったが見事な作戦で楚の大軍を破り滅亡に追い込んだ、さらには李牧のように絶望的な状況で趙軍を率いて、桓齮などの軍を何度も破ったなどのインパクトがあるような実績が王賁には見当たりません。

時代的にそういう活躍の場が無かったのかも知れませんが、記憶に残るような名将とは言えないと思いました。

王賁はキングダムでも人気のキャラクターですので、ファンに怒られてしまいそうですが、もう少しインパクトがあるような戦いを見せて欲しいと思いました。

しかし、ミスをしないのが名将であれば王賁は名将と言えるでしょう。

キングダムでは名門意識も高いですが、仲間の事を大事に思うような一面もあり今後も期待したいと思います。

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